■ まことのいのち

日本基督道場
2019年4月1日(月)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright©2014
メール information@nipponnkirisutodoujou.com

―――――――――――――――――――――――

まことのいのち
―――――――――――――――――――――――

マタイの福音書4:1~11
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの ことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

マタイの福音書16:26
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

マタイの福音書4:1~11には、イエス・キリストが御霊の導きによって荒野に上り四十日間の断食によって空腹になられた時に悪魔(サタン)がやって来てイエスを誘惑する場面が書いてあります。

マタイの福音書16:26には、「全世界」と「まことのいのち」とを比較して、どちらの方が価値があるのかをイエス・キリストが人々に宣べられた言葉が書かれています。
マタイの福音書4:1~11にはイエス・キリストが悪魔に誘惑され、その中で、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行ってこの世のすべての国々とその栄華を見せながら「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言ってイエスを誘惑しました。ですからこの世のすべての国々と栄華は悪魔の手の中にある、ということになります。ここで悪魔がイエスに見せた「この世のすべての国々とその栄華」とは、人間世界の国々と栄華です。そしてここで悪魔が言っている「非常に高い山」とは、エベレストや富士山のような物理的なこの世の山(Mountain)ではありません。霊の世界に於ける「山」です。イエス・キリストが四十日四十夜の断食の後、空腹を覚えながら悪魔に連れられて登った山は物理的な高い山ではありません。四十日四十夜の断食で空腹のイエスがヨロヨロしながらシナイ山かヘルモン山かホレブ山かオリーブ山か分かりませんが、物理的な非常に高い山に登ったのではありません。悪魔に連れられて「霊的な人間世界の最高峰の山の頂上」に立たされたのです。以前にこの記事について少し書いてその背景については詳しく書きませんでしたが、悪魔がイエスを立たせた「神殿の頂」とは、物理的な神殿の背後に存在する「霊的な神殿」のことを指します。ヨハネの黙示録に書いてある神の国の「霊的な神殿」(ヨハネの黙示録11:19)に対抗する「悪魔の神殿」です。そしてイエス・キリストが悪魔の誘惑に打ち勝ったので悪魔は退散して、変わって御使いたちがイエスのもとに来てイエスに仕えました。悪魔がイエスを試みる記事にはイエス・キリストと悪魔と御使いの三者が登場します。人間は蚊帳の外です。三者の共通点は、いずれも「霊的に生きた存在者」です。それに対して人間は「霊的に死んだ存在者」です。だから人は生まれつき神の存在が分かりません。御使いが目の前に居ても、悪魔が耳元で囁いても、「天使や悪魔を信じるなんてバカじゃねえか」と言ってクリスチャンをバカにします。マタイの福音書4章に書いてある悪魔によるイエス・キリストへの誘惑は、イエス・キリストと悪魔による「霊の世界に於ける戦い」です。物理的な肉体の戦いではありません。空腹との戦いではありません。もちろんイエスは断食の後で空腹でしたが、空腹をパンで満たしたいという肉体の欲求を超えた「霊の世界に於ける戦い」です。黙示録を書いたヨハネは物理的な体は地上の世界のパトモス島に居ながら、ヨハネの霊は御霊によって神の国に挙げられて神の国で働く御使いたちを見せられました。(ヨハネの黙示録1:1~10)そのように、イエスの体は荒野で空腹でありながら、イエスの霊が御霊の支配のもとに悪魔によって悪魔が君臨、支配する霊的な人間世界の頂点に連れて来られたのです。ヨハネの体は地上のパトモス島に居ながら霊は御霊によって神の国に連れて行かれたように、イエスの体は荒野に居ながら霊は悪魔によって悪魔の世界に連れて行かれて悪魔の世界の頂点に立たされたのです。もちろん悪魔の世界は人の目には見えません。手で触って感じることが出来ません。しかし霊的な人間世界の頂点には悪魔(サタン)は君臨して、人間の世界を支配してします。悪魔は物理的なこの世(ハードウェア)を動かしている霊的な世界(ソフトウェア)は自分たちが支配していることをイエスに誇りながら、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言ってイエスを誘惑しました。ですからもしイエスが悪魔の言葉に従って悪魔をひれ伏し拝むなら、この世の国々と栄華はすべてイエスのものになります。悪魔にひれ伏すなら、イエスは人間世界の頂点に立つことが出来ます。人間世界の頂点に立って自分の思い通りに人間世界を動かすことが出来ます。人間世界はすべて「権力」によって統率されています。「権力」は富士山のように頂上からすそ野へと広がって行きます。悪魔が支配している人間世界の権力は山のような構造で、その山の頂点に立った人が国々の最高権力者となります。アメリカは大統領を頂点して、中国は国家主席を頂点として、日本は総理大臣を頂点して、世界のどの国々も山の形をした権力構造社会になっています。頂点から出された命令は川が山の上流から下流へ流れて行くように、山の頂からすそ野へと下って行きます。総理大臣が消費税を10パーセントに上げると決めたなら、その命令が大臣へ、大臣から省庁へ、省庁から自治体へ、自治体から私たち国民へと下って来ます。もし命令に従わなければ刑事罰を受けます。そして世界の山々、国々のさらにその上に、悪魔が君臨しています。だから悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言ってイエスを誘惑しました。国々の最高権力者のさらにその上に、悪魔が君臨しています。ですからこの世の国々の頂点に立ちたいと思うなら、栄華を極めたいと思うなら、悪魔にひれ伏さなければ国々の頂点に立つことは出来ません。悪魔を王として崇めなければこの世の栄華を自分のものとすることは出来ません。悪魔は常にイエス・キリストを誘惑した同じ手法で人間を誘惑します。人間を非常に高い山に連れて行って頂きに立たせて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って人間の耳元で囁きます。もちろんサタンの囁きが体の耳に聞こえるわけではありません。イエスを裏切ったユダにサタンの思いを入れたように、人の思考の世界(霊的な領域)に入って来てサタンの思いを感化させます。マタイの福音書12:43に汚れた霊のことが書かれています。

マタイの福音書12:43~45
12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休む場を捜しますが、見つかりません。
12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。』

汚れた霊が出たり入ったりする家が、人の霊の領域、空間です。つまり人間の思考の世界、領域、空間です。コンピュータにたとえるならば、コンピュータのRAM(ランダムアクセスメモリー)みたいなものです。外部からソフトウェアを自由にセットしたり削除することが出来る領域です。RAMにウィルスが混入したソフトウェアをセットすれば、コンピュータに繋がれたハードウェアはおかしな動作をします。人間の霊である思考の世界、領域に汚れた霊が入ってくれば、その人間がおかしな行動をします。だからさらに多くの汚れた霊に住み着かれた人は「そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」と言って前よりもさらに酷い状態になると警告しています。聖書には悪霊に取りつかれた人々の記事が多く書かれています。悪霊によって人格的障害や病気が引き起こされます。サタン、悪霊は人の霊の領域、空間、人の思考の世界に自由に出入りしています。人間の霊の領域、空間は、本来、エデンの園で神と交わるためにすべての人間が生まれ持っている領域、空間です。私たち人間と他の生き物との違いは、人間だけがこの霊の領域、空間(思考の世界)を持って存在しています。「御霊に満たされる」とは、この神と交わるための霊の領域、空間(思考の世界)に御霊(聖霊)が入って来て、御自身の住まいとされることです。ですから御霊に満たされた人は御霊(キリストの霊)の価値観、感性に感化され、御霊の思考と自分の思考が同期されます。だから、五旬節の日に弟子たちが御霊に満たされた時、弟子たちは御霊が話させるままに他国のことばで話しだしました(使徒の働き2:1~4)。同じ霊の領域、空間(思考の世界)に悪魔が入って来て悪魔の住まいとするなら、悪魔の霊に満たされた人は悪魔の価値観、感性に感化されて悪魔の思考と同期され悪魔が話させる言葉を喋ります。ヘイトがいい例です。悪霊に取りつかれた人は自分が悪霊に取りつかれていることなど分かりません。ただ自分の思考から湧き出て来る「思い」のままに、行動します。AIロボットと同じです。コンピュータのRAMにウィルスが混ざったプログラムをセットすれば、ロボットはおかしな動作をします。人の霊的な領域(RAM)に悪霊によって「悪い思い」が入って来れば、その人は「悪い思い」に従って悪い行動をします。イスカリオテ・ユダは自分の霊的領域、自分の思考の世界に「サタンの思い」が入って来たので、「サタンの思い」に従ってイエスを銀貨30枚で売りました。(マタイの福音書26:14~15)上巻でお話ししたように、言葉は神です(ヨハネの福音書1:1)。私たち人間は、言葉によって思考します。物事を考えます。いろいろな思いが言葉として思考の世界から湧き出て来ます。言葉として湧き出て来る思考の世界が霊の世界です。この霊の世界、領域、空間で神と交わることが出来ます。御霊に満ちるとは、人間の霊の世界、領域、空間に神の霊である御霊御自身が住んで下さり、だから常に御霊を介して天の神と交わることが出来ます。人は罪に陥る前まではエデンの園で言葉を以て神と交わりを持っていました。つまり、御霊の満たしとは「エデンの園の回復」を表しています。エデンの園では神の思いと人の思いが常に一致していました。同期されていました。

話しを戻します。
サタンの価値観、感性に感化された人間は、国家の最高権力の座を目指して争います。悪魔が支配する霊的な非常に高い山にイエス・キリストを連れて行ってこの世のすべての国々とその栄華を見せながら「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と誘惑したように、国家の最高権力者を霊的な高い山の頂きに連れて行ってこの世の国々とその栄華を見せながら「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と魂に囁いて誘います。だから人は最高権力の座に就くために、あるいは最高権力の座を守るために、国会で国民を前に平然と嘘をつきます。邪魔者は抹殺します。そうしなければ国家の最高権力の座に就くことは出来ません。出来ないのです。国家の最高権力者は必要とあらば戦争の決断をしなければなりません。国内の秩序を守るためにはたとえ死者が出ても武力で国民を制圧しなければなりません。そのような立場の人たちが、いちいち罪の呵責、良心なんて感じていたら、大統領や国家主席や総理大臣なんて務まりません。罪の呵責、良心は神の囁きです。神の囁きを無視して悪魔の囁きに耳を傾けなければ最高権力の座に就くことは出来ません。出来ないのです。だから、この世は常に争いに満ちた世界になります。お互い罵詈雑権で貶しあい、国の最高権力の座の取り合いをします。世界の覇権の取り合いをします。サタンの価値観、感性に感化された人間社会にとって「高い山に上ってこの世の栄華を極めること」が最高の価値です。だから人はお金と権力ために人生を浪費します。それに対してイエス・キリストの最高の価値は「まことのいのち」です。だからイエスは

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ福音書16:26)

と言われました。「全世界」は悪魔の手にあります。「まことのいのち」はイエス・キリストの手にあります。「全世界(この世)の頂点に立つこと」と「神が与えるまことのいのち」とどちらに価値があるのかをキリストは比較して「まことにいのち」に価値があることをはっきりと言い表しました。
たとえば、みなさんは道を歩いていて道端に1円玉が一つ落ちているのを見たら拾いますか? ほとんで人は拾わないで通り過ぎて行くでしょう。私も拾いません。では、1万円札が落ちていたらどうしますか? ほどんどの人が、いや、みんながみんな拾って交番に届けるか、「これで今日は旨いビールが飲める!」と言って自分の財布にしまうかのどちらかを選択するでしょう。なぜ、1円玉には目もくれず、1万円札なら拾うのでしょうか? 答えは「1円と1万円の価値を知っているから」です。1円で何が買えて(1円切手があるそうですが)、1万円で何が買えるかを身をもって知っているからです。実際問題として、1円では何も買えませんが、1万円ならいろいろな物が買えます。イエス・キリストは「まことのいのちの価値」を知っています。「永遠のいのち」がどれほどのものかを知っています。「まことのいのちの価値」を知っているからこそ、悪魔が与える「この世の国々」と「この世の栄華」が無に等しいものであることを知っています。だから、キリストは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言い切りました。悪魔が与える「この世の国々とこの世の栄華」とイエス・キリストが与える「まことのいのち」とは相対関係にあります。サタンが与える「この世の国々とこの世の栄華」をもらいながらキリストが与える「まことのいのち」をいただくことは出来ません。人はどちらか一つしか手に入れることが出来ません。二者択一です。富と神に同時に仕えることは出来ません。富か、神か、どちらか一つです。

マタイの福音書6:24
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで 他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。 あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

神に仕え神を主人とするか、富に仕え富を主人するか、のどちらかです。マルコの福音書10章(マタイの福音書19章)に多くの財産をもっている若い青年とイエスの会話が書かれています。

マルコの福音書10:17~25
10:17イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

ひとりの人(青年)がイエス・キリストが語る「永遠のいのち」が欲しくてイエスのもとへ走り寄って来て「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と質問しました。この人は本当にイエス・キリストが語る永遠のいのちが欲しかったのです。イエスに直接会って永遠のいのちをもらうにはどうすれば良いのか聞きたかったのです。しかし常にイエスの周りには大勢の群衆が取り囲みなかなかイエスと話すことが出来ません。だからチャンスをうかがいながらこの時とばかりイエスのもとへ走って行って永遠のいのちをどうやって手に入れることが出来るかを聞きました。イエスは答えました。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。」というモーセの律法を守りなさいと。その人は小さいときから「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。」というモーセの律法を忠実に守って来たので、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」と答えました。彼はユダヤ民族として両親の教えに従い、聖書を信じて、神を敬い、モーセの律法を忠実に守って来た人です。旧約聖書を信じない人ではありません。旧約聖書をちゃんと信じて来た人です。だから「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」と答えました。そこでイエスはさらに「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われました。途端に彼は言葉が詰まり何も答えることが出来ず、顔を曇らせ、悲しみながらイエスのもとから立ち去りました。彼はなぜ顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのでしょうか? それは「この人が多くの財産を持っていたから」です。彼が「はい、先生、分かりました。先生が仰せられたように私は多くの財産を持っているので、持っているすべての財産を売り払って貧しい人々に施します」と言って実行すれば、彼はキリストが与える「永遠のいのち」を頂くことが出来ました。残念ですね。可哀想ですね。本物の生ける神の子イエス・キリストから「永遠のいのち」を頂くチャンスを目の前にしながら、そのチャンスを逃してしまいました。彼は「永遠のいのち」よりも「お金」を選択しました。今までお金に人生の価値を見出して生きて来た人が、今さらお金の無い人生なんて考えられません。私たちはお金の価値を嫌というほど知っています。だからお金のために必死に働きます。お金のために人生を浪費します。人間の世界はお金がすべてです。生きるも死ぬもお金です。現実にお金がなければ生きていけないのですから、当然です。人がお金の奴隷となる世界を誰が作ったのでしょうか?。
みなさん、お金持ちはなぜお金持ちなのか、分かりますか? そもそも「金持ち」と称される人々はお金に固執するから、お金に夢中になるから、お金が人生のすべてになるから、お金がどんどん貯まり、お金持ちになるのです。なんでも世界の富裕層1パーセントの人たちが、世界の富の82パーセントを所有しているそうです。たった8人の大富豪が、世界人口の半分の貧困層の人々と同等の資産を持っているそうです。凄いですね。小国の国家予算に匹敵する何兆円ものお金に囲まれて生きる気分って、どんな感じなんでしょうかね。下衆な私は一度でいいから何兆円もの財産を持った人の気分を味わってみたいです。「なるほど、これが1兆円を手にした人の気分なのか」と。お金持ちが貧乏人に必ず言う言葉があります。「それはお前たちの努力が足らないからよ」「能力が無いからよ」「運が無いからからよ」と。お金持ちは自分の努力で、自分の能力で、自分の運で富を得たと思っています。だから巨万の富の上であぐらをかいて自分を誇ります。確かに生まれつきの能力と運の上に、さらに人一倍の努力をした結果としてお金持ちになったのでしょう。しかし、生まれつきの能力も、運も、努力も、学歴も、すべては神の恵みです。人は神の恵みを横取りして「どうだ、俺の成功は凄いだろう、羨ましいだろう、妬ましいだろう。羨ましかったら、妬ましかったら、お前らもお金持ちになってみろよ」と誇ります。それに対して神は言います。「おい、金持ちよ、一生かけても使い切れないほどの金を独り占めしてどうするんだ。目の前に大勢の困っている奴、飢えに苦しんでいる奴がいるんだから、そのお金で助けてやれよ」と。人は「神様がいるのなら、なぜ、人類に貧富の差があるの? なぜ、神様は困っている人を助けないの?」と言います。神様は困っている人たちを眺めて傍観しているのではありません。飢えに苦しんでいる人たちを見て知らんぷりしているのではありません。神はちゃんと語っています。お金持ちに対して「お前らそんなに金を持っているんだったら、困っている人たちをその金で助けてやれよ。飢えに苦しんでいる人たちに施しをしてやれよ」と。しかし、金持ちは神の言葉を聞く耳を持ちません。「ふざけんじゃねえよ!この金は俺の血と汗の結晶だ。なんで赤の他人を俺が助けなきゃいけないんだよ。そんなに金が欲しけりゃ自分でもっと努力しろよ。俺はお前らの何倍もの努力をして来たんだぞ!」と言い返します。よしんば申し訳ない程度に福祉に寄付をする人はいるかもしれませんが、キリストが言ったように「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施す人」は皆無です。全財産を売り払って貧しい人に施す人などまずいません。1兆円の財産を持った人が全財産を売り払って1兆円そっくり福祉に寄付することなんてあり得ません。1兆円から1億円を寄付する人はいるかもしれません。イエス・キリストが求めているのは「全財産」です。1兆円すべてを困っている人たちのために寄付しなさいと言っているのです。そんな人いるわけないじゃないですか。だからイエスは

「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイの福音書19:23~24)

と言われました。神から人類に必要なお金はすべて与えられています。問題は、神から人類に与えられたお金の「分配」です。本来、金持ちの財産は神の恵みによって金持ちの人たちに与えられた財産です。能力も、運も、成功も、すべて神の恵みの中での出来事です。人が誇るものは何もありません。恵みはタダです。無償です。だったら、タダで受けた恵みをタダで困っている人たちに分け与えればいいだけのことです。飢えに苦しんでいる人たちにタダで分配すればいいだけの話しです。しかし、それが出来ません。なぜなら、悪魔の価値観、感性に感化されているからです。高い山の頂きに立たされてこの世の国々と栄華に囲まれた世界で生きることが快感だからです。この世の国々と栄華がお金持ちにとってとても心地よく感じるからです。誤解しないで下さい。イエス・キリストはお金持ちが悪いと言っているのではありません。お金は罪悪で、お金持ちを非難しているのではありません。お金持ちに向かって「あんたの持っている多くの財産は神から与えられた恵みなのだから、その恵みである財産を困っている人たちのために使いなさい」と言っているのです。お金は貯めるためにあるのではありません。使うためにあるのです。与える人はさらに与えられます。さらに任されます。困った人を助けるための器として用いられます。そして、人は欲張りですから、強欲ですから、両手を差し出して「この世の国々と栄華」と「まことのいのち」の両方をもらおうとします。この世から富をもらって、神から永遠のいのちをもらおうとします。先ほど出て来たイエスに永遠のいのちをもらいに来た金持ちの青年のように。
最近は本屋に行くと「儲かる聖書の話し」「あなたも聖書で勝組になれる」「聖書でビジネスに成功する方法」といった類いの本が並んでいます。内容は聖書の言葉を並べて「こうすればあなたは人生の勝組になれます!」「聖書の法則に従えばあなたのビジネスは成功します!」「聖書はあなたをお金持ちにします!」と謳っています。しかも、なかには自らクリスチャンと称する人たちがこのような本を書いています。はっきり言っときます。

聖書の神を信じてもお金持ちにはなれません。貧乏になります。

それは聖書をちゃんと読めば分かります。聖書の教えに従えば富を得られると思っている人たちは「お金=財産=幸福」という「富の公式」から抜け出られない人たちです。お金がもたらす物質的な満足感、幸福感を求めて生きる人たちです。そのような人たちが教会に来て聖書を読んで神を信じた気分になってその延長で神と世俗とを結びつけた生き方をしています。だからなんだかんだと言っても結局「お金」なんです。イエスを裏切ったユダのように。
イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダはイエスを信じてイエスに従って来た弟子の一人でした。ユダはイエス・キリストを神の子と信じてイエスについて来たのです。しかし会計係をやりながら度々みんなのお金の一部を自分の懐に入れてはチョロまかして来ました。片方の手でイエス・キリストが与える「まことのいのち」をいただこうとイエスに従い、もう片方の手でこの世で一番価値のある「お金」を不正にいただいて、最後はイエスを銀貨30枚で律法学者、パリサイ人らに売りました。しかしそのユダは「まことのいのち」と「この世の国々と栄華」の両方を手に入れることが出来たでしょうか? 神と富の二つを手にすることが出来たでしょうか? それはユダの人生の終わりを見れば明らかです。イエスは最後にユダを指して「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」とまで言われました。欲張って富を求めて神のところに来る人は、やがてしっぺ返しを食らいます。お金に固執してイエスを売ったユダの末路と同じ道を歩むことになります。
使徒の働き4章には神を欺いたアナニヤ、サッピラ夫婦がその場で裁かれた事実が記録されています。五旬節の日に弟子たちをはじめ120人の人たちが聖霊に満たされた後の出来事です。

使徒の働き4:32~5:11
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。
5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。
5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

5章8節でペテロがアナニヤの妻サッピラに「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」と言っていますから、最初に夫のアナニヤが土地を売った値段を使徒たちに告げるときに、アナニヤは偽りの値段を告げました。ペテロは直ぐにアナニヤの偽りを見抜いて神の裁きの言葉を発してアナニヤはその場で倒れて命を失いました。続いて夫のアナニヤが死んだことなど何も知らない妻のサッピラがやって来たので、ペテロはアナニヤが告げた偽りの値段をサッピラに告げてこの値段で間違いないか確認しました。ところが妻サッピラは「はい。その値段です。」と答えて自分たちの偽りを神の前にさらけ出してしまいました。だから妻サッピラも夫と同様に神に裁かれその場で息絶えました。例えて言い換えれば、アナニヤ、サッピラ夫婦は自分たちの全財産である土地を1000万円で売ってその1000万円から半分の500万円を残して後の500万円だけを使徒たちのところに持って来ました。そして「私たちの土地を売ってお金にしたこの500万円が私たちの全財産です」と言って偽りの申告をしたことが、神の逆鱗に触れました。ペテロが言ったように、元々1000万円は二人の財産なのですから、1000万円をどう配分しようが二人の自由です。生活のために500万円残して、残りの500万円を献金として、正直に「1000万円で売ってそのうちの500万円を持って来ました」と申告すれば何も問題なかったのです。ペテロたちはなにも全財産を出せと強要しているわけではありません。自分の思ったところ、自分の信仰に応じて捧げれば良いのです。ところが二人の心に野心が芽生え、偽りの申告をしました。聖霊に満たされた群れの人々は自分が所有している土地や家や財産などを換金して全財産を仲間のために捧げて最早自分の財産は一銭も無くなってしまった人々です。アナニヤ夫婦はそれを見て「俺たちもすべてを捧げなければ神の恵みに与れないのかな。でも、すべてを捧げてスッカラカンになったら、先行き困るんじゃないかな。ここは、1000万円のうち500万円だけ残して、後の500万円を捧げればそれで十分だよな。お前もそう思うだろ。彼らには土地を500万円で売ってその全財産500万円を持って来ました、ということにしとくから、お前も何か聞かれたらそう言っとけよ。なっ」と夫婦で口裏合わせをしたのでしょう。嘘の値段を告げて、その値段がすべての土地を売った値段のごとく体裁を装って申告しました。しかし神は二人の偽りを見ていました。そして怒りました。
同じように、神が兄カインの捧げものを拒否して弟アベルの捧げものを受け入れたのは、兄カインの捧げものに偽りの信仰が混じっていたからです。よく言われることは「アベルと同じようにカインだってせっかく神様に捧げものを持って来たのに、神様はアベルの捧げものだけに目を留めてカインの捧げものには目を留めなかったのは依怙贔屓(えこひいき)だ。あれじゃカインが可哀そうだ」といった意見です。この論理で行けば、アナニヤ、サッピラ夫婦だってちゃんと捧げものを持って来たのです。せっかく自分たちの財産を売ってまで捧げものを持って来たのに、それを殺しちゃうなんて、神様ってなんて非情で残忍な方なんだろう。少しくらいの嘘なんか大目に見てあげればいいのに、ということになります。神は非情な方ではありません。残忍な方でもありません。神が求めているのは「正直な信仰」です。嘘、偽り、作り事の無い信仰です。信仰の大きい小さいではありません。弱く小さくてもいいから「正直な信仰」を求めているのです。一般に、100パーセントのうち50パーセントでも愛があればそれでいいじゃないかと思われますが、神と人間の関係においては0か100のどっちかです。愛が有るか、無いかのデジタルです。なぜなら、人は50パーセントの愛でもそれが100パーセントの愛のごとく装うからです。50パーセントしか無い愛に偽りの50パーセントの愛を継ぎ足して100パーセントの愛のように装うからです。今、述べたアナニヤ、サッピラ夫婦のように。アナニヤ、サッピラが自分たちの土地を売って献金を捧げた動機は愛ではありません。自分たちも神の恵みに与り周りから褒めてもらうために偽りの愛(献金)を持って来ました。神は偽りの愛を受け取ることが出来ません。拒否します。怒ります。だから、アナニヤ、サッピラの夫婦はその場で裁かれ、息絶えました。ペテロをはじめ、御霊に満たされた彼らの内に宿る神の霊がアナニヤ夫婦の偽りを見抜き、彼らの口から神の裁きの言葉が出て来ました。人はアダムとエバのように自分の裸を隠すために自分の作った霊的な服を着て装います。イエス・キリストはたびたび律法学者、パリサイ人に向かって「偽善者たち」と言って辛辣な言葉で彼らを非難しました。「偽善者」という言葉は「役者」という意味があります。「善人者を装う者」という意味です。元々悪い人が善人として振る舞う演技をする人です。実際にキリスト教界の中には「クリスチャン」と称しながら、「牧師」でありながら、愛が無いのに愛で満ちているかのごとく装って演技をする人たちがいます。裸の恥を隠すために自分で作った「愛」という衣をまとった人たちがいます。愛が無いなら無いでいいのです。神の前に素直に、正直に、自分には人を愛する愛が無いことを認めて、神の愛で満たして下さいと祈り求めて行けば、神は必ず愛の無い空っぽの器を御自身の愛で満たして下さいます。こちらが素直に正直に告白して求めて行くとき、神も素直に正直に応答して下さいます。して見ると、救いってなんでしょうか? 信仰ってなんでしょうか? だから御使いがラオデキヤ教会に対して「また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。」と警告しています。「白い衣を買いなさい」とは、すなわちイエス・キリストの救いを着ることです。全焼のいけにえとしてほふられた神の子羊を自分の魂の衣として着ることです。イエス・キリストの救いを身にまとうことによって罪が贖われ、赦され、最早罪が無い者として神と交わることが出来ます。神の祝福と神の愛に100パーセント満たされる権利を持つことが出来ます。ラオデキヤ教会は「熱くもなく冷たくもない」のです。100パーセントの愛ではないけれど、かっと言って0パーセントの愛でもありません。ここで言っている愛は「神の愛」です。「人間の愛」ではありません。神の愛は100パーセントの愛です。50パーセントの中途半端な愛ではありません。だから、人間にも100パーセントの愛を求めます。ここが一番大事です。自分の人生をすべてキリストに明け渡した人が、キリストの衣を着ることが出来ます。アナニヤ、サッピラ夫婦は50パーセントの愛と残りの足らない50パーセントの愛を偽りの献金という形で補おうとしました。人は騙せても神を騙すことは出来ません。

マタイの福音書16:26
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

賢い人はイエス・キリストが与える「まことのいのち」に価値を置きます。死の彼方にある「永遠のいのち」に向かって人生を歩んで行きます。愚かな人はサタンが与える「全世界」を手に入れることに人生を浪費します。みなさんは目に見えない、手に触ることの出来ない「まことのいのち」と、目に見える、手に触ることの出来る「全世界」のどちらを手にしたいと思いますか?。 神を信じるとは「まことのいのち」を持つことです。「まことのいのち」とは「キリストの霊」です。キリストの霊を受けた人が、神の価値観、感性を以てこの世を生きることが出来ます。ですから「まことのいのち」を持った人は人生がガラリと変わります。人生の生きる方向が180度転換します。
骨董品をはじめ昔のオモチャやビンテージ品を鑑定して値段を付けて依頼者の悲喜こもごもの姿を楽しむテレビ番組があります。今までまったく値段が付かないと思って蔵の中に放り投げられて埃にまみれていた壺が、着物を着て眼鏡をかけて髭を生やした鑑定士から「これは間違いなく本物です!いい仕事してますね~」とコメントされて何千万円もの値段を付けられたらみなさんどうしますか? 当然、埃にまみれていた壺を綺麗にみがいて部屋の床の間に飾るでしょう。盗まれないように大事にするでしょう。埃にまみれて捨てられていた壺の本当の価値を知った途端、壺に対する見方、態度がガラリと変わるでしょう。そのように、神を信じて心にキリストの霊を宿して「まことのいのち」を持った人は人生がガラリと変わります。今まで目に見えて触ることが出来るこの世の頂点を目指してこの世の栄華に価値を置いた生き方から、目に見えない触ることの出来ない神の国に価値を置く生き方に変わります。なぜならキリストが与える「まことのいのち」を心に宿し、「まことのいのち」の価値を知ったからです。今まで「神なんか居るわけねえだろう」と聖書をバカにしていた人が、救われた途端、神に人生を捧げる人へと変わります。これは理屈ではありません。「体験」なのです。救いは「体験」なのです。イエス・キリストは富める青年に言いました。

「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

富める青年に足らなかったものは「愛」です。人々への「愛」です。貧しい人への「愛」です。困っている人への「愛」です。愛がなければ貧しい人々、困っている人々を助けることは出来ません。「まことのいのち」はお金では買えません。「まことのいのち」をいただくには「人々への愛と憐み」との交換によって自分のものとすることが出来ます。

使徒の働き2:40~47
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

使徒の働き4:32~37
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

五旬節で御霊に満たされた弟子たちは「弟子」から「使徒」と変わりました。「御霊に満たされる」とは「神の愛に満たされる」ことです。だから人々のためにすべてを投げ出すほどの愛に満たされた使徒たちは自分たちの財産すべてを売って皆で共有していました。彼らは「まことのいのち」を心に宿した集団となりました。
イエス・キリストは本当の価値を知っています。イエス・キリストだけが「全世界」と「まことのいのち」の価値を知っています。天秤に掛ければどちらが重いかを知っています。どちらが本物でどちらが贋作かを鑑定することが出来ます。ですから神を信じない「まことのいのち」を知らない世の人々は、常にサタンの与える「この世の国々と栄華」のために人生を捧げます。お金と権力のために人生を浪費します。人生は一回です。その一回の人生の中で、キリストが与える「まことのいのち」という永遠の価値を手に入れた人こそ、この世で一番幸せな人です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

2019年04月28日