■ すねに傷のある人々

日本基督道場
2019年4月28日(日)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright©2014
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すねに傷のある人々
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ヨハネの福音書8:1〜11
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。
イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

この記事は、ご覧の通り律法学者とパリサイ人がイエス・キリストを告発するという目的のために姦淫の現行犯である一人の女を連れて来て女をわざわざ大勢の民衆に囲まれた真ん中に置いてイエスを陥れようと試した記録です。
律法学者、パリサイ人はイエス・キリストのことが気に食わないのです。面白くないのです。虫が好かないのです。快く思わないのです。いけ好かないのです。だから、大勢の民衆の目の前でイエスに罪を着せて恥をかかせてイエスをとっちめて懲らしめてやろうと思っていました。

「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。」

では、なぜ、律法学者、パリサイ人はイエス・キリストのことが気に食わなかったのでしょうか? それは、イエス・キリストの周りに大勢の人々が集まっていたからです。大勢の人々がイエスの教えに耳を傾けていたからです。イエス・キリストが登場する前までは、ユダヤ社会は祭司、律法学者、パリサイ人らが旧約時代の祭祀、神学、律法(政治)を担い、彼らは民衆との間に特権階級、支配階級という壁を作って自分たちの権威を誇っていました。ルカの福音書18章にパリサイ人を象徴する記事が書かれています。

ルカの福音書18:9〜14
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

律法学者、パリサイ人たちは常に民衆を見下して傲慢になり自分たちの権威を誇っていました。そのような当時のユダヤ社会にあって、忽然とイエス・キリストなる人物が現れて「私は神の子です」と宣べ始めながら次々と人々の病を癒し悪霊から解放していきました。イエスによる奇跡が噂として広まりさらに各地から人々がぞろぞろとイエスのもとに集まって来て群衆となりついには一大勢力となって律法学者、パリサイ人ら特権階級、支配階級を脅かす存在となりました。しかしイエスが行う多くの病の癒しと悪霊からの解放という人には出来ない奇跡を目の前にして律法学者、パリサイ人たちはイエス・キリストを神の子として認めざるえませんでした。かといって、もし、イエスを神の子として認めてしまえば、自分たちの存在が必要なくなります。イエスを神の子として認めてしまったならば、イエスが自ら言われたように律法はすべて成就して律法の必要がなくなります。万人祭祀となります。神殿も必要なくなります。一年に一度の贖罪のための祭祀も必要なくなります。そしたら自分たちはもう必要なくなります。おはらい箱になります。今まで民衆を見下して特権階級の上で、支配階級の上であぐらをかいて経済的な恩恵を受けてきた彼らが、素直に神の子イエスを受け入れるはずがありません。何よりも、自分たちの面子、プライドが許しません。だから常にイエスに反発します。揚げ足を取ろうとします。そのようなイエス・キリストと律法学者、パリサイ人たちが対立する中で、一人の姦淫の罪を犯した女がイエスの前に連れて来られました。そして彼らはイエスに尋ねました。

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

彼らはイエスを困らせてやろうと計画してわざわざ姦淫の女をイエスの前に連れて来ました。イエスの揚げ足を取るために考えに考えてモーセの律法と姦淫の罪を犯した女を絡めてイエスに質問しました。彼らの悪意が隠された巧妙な質問にイエスは即答せずにしばらく黙り込んで地面を指でなぞりながら何かを書いていました。ここでイエスは地面に何を書いていたのでしょうか? まさか「へのへのもへじ」を書いていたわけではありませんよね?(笑)。
イエスは律法学者、パリサイ人の質問になんて答えて良いのか分からなく困ってしまったので黙って身をかがめて指で地面に何かを書いておられたのではありません。彼らの質問の意図、揚げ足を取って御自身に罪を着せて告発する理由を作るという質問の真意を見抜いていたのでわざわざ即答しなかったのです。なかなか質問に答えないイエスに律法学者、パリサイ人たちはここぞとばかりにさらに質問を煽ってイエスを責め立てました。ところが次のイエスの一言によって彼らは凍りつき、黙ってしまいました。

 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

それまで威勢よくイエスを責め立てていた彼らが、このイエスの一言によって黙ってしまいました。誰も反論出来ません。「俺がこの女に石を投げてやる!」と言う人が一人も出て来ません。なぜでしょうか? 答えは「自分たちも罪人だから」です。
律法学者、パリサイ人たちも今までの人生の中で大なり小なり微小なり罪を犯して来たからです。時には嘘をついたり、不正なお金を懐に入れたり、贈賄収賄をしたりと、細かいことを追及されたら何かしらの罪がボロボロと出て来ます。彼らのすねは傷だらけです。叩けば埃がバンバン出て来る身です。身体検査をしたら神の前に立てる人など一人もいません。だから誰も姦淫の罪の女に石を投げることが出来ません。彼らは神を信じているのではありません。神を信じている振りをして「政治」をやっているのです。信仰の形を装って自分たちの都合のよい「政治」を行っているのです。特権階級、支配階級を作って民衆を従わせているのです。ルカの福音書19章とヨハネの福音書2章にはイエスがエルサレムに上って宮に入られたときに宮の中で商売をしている商売人に向かってイエスが怒ったときの様子が書かれています。

ルカの福音書19:45〜46
19:45 宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
19:46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

ヨハネの福音書2:13〜16
2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

イエスが上られた「宮」とは神殿です。一年に一度、ユダヤ民族の代表である大祭司が罪の贖いのための血が滴る動物の生け贄を持って至聖所に入り神と接見する場所です。そのようなイエスが「父の家」と言われた神聖な場所で、彼らは商売をやっていました。だからイエスは烈火のごとく怒り辺りの物すべてを壊しました。宮を管理しているのは祭司、律法学者、パリサイ人たちです。つまり、神と接見する神聖な場所である宮を管理する祭司、律法学者、パリサイ人らが宮で商売をすることを許可しているのです。しかもただで許可しているのではありません。ちゃんと場所代、使用料を取って自分たちの懐に入れています。現代の日本なら神社のお祭りの境内で的屋に商売を許可して場所の使用料をもらうのと同じです。だからイエスは「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」と言って怒りました。イエスが宮で怒ったこの事件は、ユダヤ民族を代表する彼らが堕落して彼らの信仰がすでに形骸化していることを表しています。すねに傷を持ち、叩けば埃が出て来る、神への信仰を形骸化した彼らの浅はかな知恵が、イエスの一言によって喝破されました。イエスに罪を着せるための質問が、ブーメランのごとく自分たちに跳ね返って来ました。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

この世に「罪のない者」なんていません。それは彼らが一番よく分かっています。彼らは今まで特権階級の上で天狗になっていたから、傲慢になっていたから、自分たちの罪が見えませんでした。しかしイエスの言葉によって自分たちも姦淫の罪を犯した一人の女と同じ罪人であることを自覚させられました。だから女に石を投げる者が出て来ません。そしてイエスはもう一度身をかがめて地面に何かを書きました。しばらくの沈黙の後、年長者からひとりひとりその場から去って行き、そしてイエスを残して誰もいなくなりました。年長者、つまりお年寄り、人生を長く生きて来た人たちほどイエスの言葉が身に染みます。心にグサリと刺さります。女を責める者がいなくなったところで、イエスは女に言われました。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

女は答えました。

「だれもいません。」

そこでイエスはさらに女に言われました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

イエスの一言によって女を罪に定める者たちが立ち去りました。つまり、女の罪と律法学者、パリサイ人の罪は同等の罪である、ということです。これは聖書が定義する罪の本質を表わしています。罪人に偉い罪人、偉くない罪人なんてありません。罪人に身分の高い罪人、身分の低い罪人なんてありません。罪人に立派な罪人、凡庸な罪人なんてありません。罪人に素晴らしい罪人、みすぼらしい罪人なんてありません。罪人は誰であろうとどんな立場であろうと罪人です。律法学者も、パリサイ人も、姦淫の罪を犯した女も、同じ罪の世界でひしめき合う人間です。だから律法学者、パリサイ人は姦淫の女に石を投げることが出来ませんでした。自分たちにも罪があるから、女の前から去って行きました。律法学者、パリサイ人には自分は罪人という意識がありません。常に「俺たちは偉いんだぞ!神から選ばれた人間なんだぞ!」という傲慢な態度がありました。ところがイエスの一言によって自分たちも罪人であることを自覚させられました。イエス・キリストは罪が無い方だから「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言えたのです。罪のある人間が人の罪を断罪することは出来ません。だって同じ罪人なのですから。泥棒が泥棒に「泥棒は悪いことだから止めなさい」と説教することが出来ますか? 泥棒に説教出来るのは泥棒でない人でしか説教出来ません。一人残された女にイエスは言われました。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

女はイエスに答えました。

「だれもいません。」

そして最後にもう一度イエスは女に言われました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

イエス・キリストは罪の無い方です。ですから女の罪を裁こうとすれば裁くことが出来ました。女に石を投げようと思えば投げることが出来ました。しかしイエスは女の罪を裁きませんでした。石を投げませんでした。なぜならイエス・キリストが人と同じ体をもって人の世界に来られたのは人の罪を断罪するために来られたのではないからです。人の罪を赦すために人の世界に来られたのです。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

「あの人たち」とは女をイエスのもとへ引き連れて来た律法学者、パリサイ人です。「罪に定める者」とは自分たちの権威を誇り、聖書で人を裁く律法学者、パリサイ人です。人の罪を探し出して来て人を裁く彼らはイエスの言葉によって逆に自分たちが裁かれ女の前から去って行きました。イエスの問いかけに女は答えました。

「だれもいません。」

みなさん、不思議に思えませんか? イエスは女に「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と問われました。なぜ、イエスはこのようなことを女に質問したのでしょうか? これはとても大事なことです。

聖書は心理学の教科書です。イエス・キリストは心理学の教則本です。心理学を勉強している方はイエス・キリストの言葉と行動を調べると勉強になります。

普通なら律法学者、パリサイ人たちが去った後に直ぐ女に「あなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

と言うと思います。ところがイエスはわざわざ女に

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

と言って女に「あなたを罪に定める者はどこに居るのか?」 と聞いています。これは、女に「確認させている」のです。周りを見渡して女を裁く者が一人も居ないことを女に質問することによって女に目視させて「確認させている」のです。そして女は答えました。

「だれもいません。」

女は周りを見渡して自分の罪を裁く者(律法学者、パリサイ人)が一人も居ないことを確認したので、

「だれもいません。」

と答えました。そして最後にイエスは

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

と言って女に「あなたを罪に定めない」と宣告されました。女の心情を推察すると、彼女は婦人で、男と不貞しているところを誰かに見つかり姦淫の罪で訴えられたのでしょう。姦淫の罪は石打の刑ですから(申命記22章)、女の心中は穏やかではありません。自分はやがて石で打たれて殺されるという不安と恐怖に満ちていたことでしょう。そこで、イエスは女の罪を赦す前に本人が周りを見渡して自分を裁く者が一人も居ないことを確認させることによって「もはやあなたの罪を裁く人間はこの世には存在しませんよ」という無言のメッセージを女に送りました。そして、次に、唯一女の罪を裁くことが出来る罪の無い神の子イエス・キリスト御自身が「わたしもあなたを罪に定めない」と宣告されたのです。女にとって自分があの時姦淫の罪を犯したという事実の記憶は一生残るでしょう。しかし、女の心の中で姦淫の罪によって裁かれるという恐怖や罪の呵責は一生よみがえることはありません。なぜなら女自身が自分の罪を責める者が一人もこの世に存在しないことを、イエスの言葉によって身をもって確認したからです。そして、唯一女の罪を裁くことが出来る神の子イエス・キリスト御自身が「わたしもあなたを罪に定めない」と宣告されたのですから、イエスによる罪の赦しの言葉によってそれまでの女の心の不安と恐怖は消え去り、イエスの愛による平安で満ちたことでしょう。女の姦淫の罪を裁く法廷で神の子イエス・キリストという裁判官から「あなたは無罪です」という判決が女に出されたのですから、もはや誰も女を責めることは出来ません。そして最後にイエスは

「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

と言われてこれから女が生きる道、生きる方向を示されました。女にとって今まで罪の世界の快楽を求めて生きて来た結果が、姦淫の罪でした。それに対してイエスは

「今からは決して罪を犯してはなりません」

と女に言われました。イエスのこの言葉には「この世の快楽ではなく神の方向を目指して生きなさい」という意味が込められています。
女にとってイエスとの出会いは一生忘れることの出来ない出会いとなりました。自分のこれまでの生き方を180度変える出会いとなりました。これから生きる道を罪の方向から神の方向へと変える出会いとなりました。
そして、もともと女は姦淫の罪の現行犯でイエスのもとへ連れて来られたのですから、女自身には罪を赦されるための信仰も行いも何もありません。女自身には自分の罪が赦されて救われるための根拠など何もありません。にもかかわらずイエスはこの女に無条件で「わたしもあなたを罪に定めない」と宣告されました。これは、人の罪の赦しと救いは神からの一方的な愛と憐み以外にないことを表しています。人間の側には何もありません。人間にあるのは罪だけです。罪を犯す存在でしかない人間が救われるのは人の行いや功績ではありません。ただただ神の一方的な愛と憐みによって罪が赦され救われます。

ルカの福音書5:31〜32
5:31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

イエス・キリストは正しい人を招くためにこの世に来られたのではありません。姦淫の女のような罪人を招いて生きる方向を罪の方向から神の方向へと変えさせるために人間の世界に来られました。「悔い改める」とは「懺悔する」「反省する」という意味ではありません。「生きる方向を変える」「生きる目的を変える」という意味です。姦淫の罪を犯した女はイエス・キリストに出会って人生が変わりました。イエス・キリストの言葉によって心が神の愛で満たされて本当の生きる希望が湧いて来ました。どんな人でもイエス・キリストに出会った人は人生が変わります。

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。

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2019年04月28日