■ 善悪の知識の木ー4(罪の戸口が開いた瞬間)

日本基督道場
2019年1月20日(日)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright©2014
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善悪の知識の木―4(罪の戸口が開かれた瞬間)
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善悪の知識の木-3(蛇の誘惑)からの続きです。


創世記3:1~7
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

前回お話ししたように、蛇の質問によってエバの心と思いは一気に善悪の知識の木に惹きつけられて、エバは善悪の知識の木について興味と疑問が湧いて来ました。「なぜ、神様は園の中央に善悪の知識の木を生えさせたのだろう? なぜ、神様は善悪の知識の木から取って食べてはならないと仰せられたのだろう? 神様はその実を食べると死ぬと仰せられたけど、死ってなんだろう?」と。エバの心に次から次へと湧いて来る疑問を蛇は知っていました。私たち人間は人の心が見えません。目の前の人が何を考えているのか分りません。サタン(蛇)は人の心が見えます。人の動揺が見えます。人が何を考えているのかが分ります。霊の世界(思考の世界)で生きる存在ですから。そして蛇はエバの疑問に答えました。

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

「あなたがたは決して死にません。」「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け」「あなたがたが神のようになり」「善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

蛇はエバに神の言葉に対する疑問を投げかけることによってエバの心に神の言葉への疑問を起こさせました。神の言葉への疑問とは「不信仰の種」です。イエス・キリストがマタイの福音書13章で話された「毒麦」です。イエス・キリストは毒麦を蒔いたのは悪魔であると弟子たちに言われました。毒麦の種は「不信仰の種」です。蛇は「神は、ほんとうに言われたのですか?」と言ってエバを動揺させてエバの心に不信仰の種を蒔きました。現代でもサタンはキリストを信じる者に語りかけます。「ほんとうに神様はそう言ったの? ほんとかな~~~・・・よ~~~く考えたのがいいよ。ほら、周りを見てごらん。だ~~~れも聖書なんか信じていないよ。居ないものを居ると思い込んでいるのは君だけだよ。そんなもの信じたら君だけ周りの人々から取り残されちゃうよ」と。同じようにサタンはアブラハムにも語りかけます。創世記15章でアブラハムの契約の行いを邪魔しようと猛禽が飛んでいました。神がアブラハムに『「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』と約束されて、アブラハムも神の約束を信じ、義とされたのですが、後にサタンが邪魔をしました。

「えええ!!!アブラハムさん、あんた自分の齢を考えたことあるの???年寄のあんたとすでに閉経している奥さんにどうして子どもが出来るのよ。あんたほんとに神様に言うこと信じているの? 大丈夫??? 現実を見てみなよ、現実を。冷静によ~~~く考えたのがいいよ」

と。奥さんは思わずサタンの言葉に乗っちゃって

「そりゃそうだわ。現実を見なきゃね、現実を」

と思って女奴隷ハガルからアブラハムの子を産ませようとして、実際にハガルがアブラハムの子を宿したら今度はサラとハガルの間に軋轢が生じ、サラはハガルを追い出してそれが延々と受け継がれて来て、現代のイスラエルとアラブの紛争になっています。そのように、サタンは人を神の言葉から、信仰から気を逸らそうと働いて来ます。やがて、サタンによって蒔かれた不信仰の種が芽を出すように、エバの心に神の言葉に対する疑問が次から次へと湧いて来ました。エバは善悪の知識の木をジ~~~と見つめながら「そういえば、なぜ、神様は園の中央に善悪の知識の木を生えさせたのだろう? なぜ、神様は善悪の知識の木から取って食べてはならないと仰せられたのだろう? 神様はその実を食べると死ぬと仰せられたけど、死ってなんだろう?」と。今まで気にもしなかったことが、考えもしなかったことが、蛇の一言によって園の中央の木が気になり出しました。考えるようになりました。善悪の知識の木に固執するようになりました。「なぜだろう?なぜだろう?」と。そして蛇はエバの疑問にズバリ!答えました。

「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

蛇はエバの疑問に「あなたがたは決して死にません」と言い切りました。罪の下に生まれて来た現代に生きる私たちは死の意味を知的に、体験的に知っています。おじいちゃんおばあちゃんをはじめ、お年寄りが死んで行くのを見ながら、いずれ自分も齢をとって死んで行く運命であることが分かっています。死に支配された世界に生まれて来たから当然です。しかし、エデンの園は死の無い世界です。死と無縁の世界にアダムとエバは置かれました。だから、アダムもエバも死の意味について知る由もありません。知らなくて良いのです。神だけが知っていれば。死は理屈ではありません。体験してはじめて理解出来ます。だから神は死の意味について説明などしません。ただ一言「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言ってアダムに厳命されました。もちろんアダムは神が言われた死の意味など分かりません。ただ、神の厳粛な言葉から、神の言葉の口調から、神の言葉の感情から、死は恐怖であると認識して、善悪の知識の木の実を食べると自分の身に恐ろしいことが起こると自覚しました。そして後から誕生した女エバにも神の厳命を伝えました。先に誕生した男アダムが死の意味について分からないのですから、当然、後から誕生した女エバも死の意味について分かりません。蛇はそこを突きました。蛇の一言によってエバは「死ってなんだろう?死ってどういうことだろう?」と考えるようになりました。すかさず蛇はエバの疑問に答えました。

「あなたがたは決して死にません。」

エバはここで初めて蛇の世界に入りました。蛇はエバの疑問に「あなたがたは決して死にません」と答えて死に言及したのですから、エバからすれば「どうも蛇さんは私たちが分らない死について何かを知っているようだ」と思ったはずです。エバの心は「蛇さんは神様が教えてくれなかった死について、園の中央の木について、何かを知っている。だったら、その死について、園の中央の木について、自分は知りたい。蛇さんのお話をもっと聞いてみたい」という思いで満たされ、エバは蛇の言葉にどんどん引き込まれて行きました。

みなさんは体の具合が悪くなればまずお医者さんにかかると思います。なぜ、体調が悪くなると病院に行くのでしょうか? それは「自分が分からない人間の体や病気のことは専門に学んでいるお医者さんがよく知っているから」です。病気という自分が全く分からない世界をお医者さんは知っていて、適切に治療してくれるので、病院に行きます。当たり前ですが。病院に行けば、後はお医者さんの言いなりです。お医者さんの言葉に「はいはい」と従います。従うしかないのです。言いなりになるしかないのです。だって、自分は何も分からないのですから。ガンと宣告されたらガ~~~ンとショックを受けるしかありません。生き延びるために手術をしますと言われたら嫌でも手術を受けるしかありません。患者さんにとってお医者さんの言葉がすべてです。お医者さんの言葉を信じるしか道はありません。もちろんお医者さんだって人間ですから誤診することもあります。手術に失敗することもあります。だから患者さんは信頼出来る腕の良いお医者さんを探して診てもらいます。それは科学でも同じです。何も分からない私たち一般人は科学者が「科学の研究の結果、人類は単細胞から何億年をいう年月を経て進化して現代に至っています」と言えば、何も疑問を持たずに進化論を信じます。信じるしかないのです。だって頭の良い科学者が言っていることですから、科学的反論が出来ません。だから何事にも信心深い日本人は進化論を当たり前のように単純に信じています。科学を信じているのではありません。科学者の「権威」を信じているのです。自分が知らないことは知っている人に聞くしかありません。そして知っている人の言葉を信じるしかありません。問題は、その人が果たして信用出来る人なのか? ということです。エバもその法則に従って蛇の言葉を信じました。信じちゃったのです。蛇がどのような素性や背景を持った存在なのか分からないまま蛇の言う事を信じ、蛇が生き物を飲み込むように蛇の世界にのみ込まれて行きました。

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

「あなたがたは決して死にません。」

エバは死が何を意味するのか分かりません。ただ、アダムからの戒めで死は恐ろしいことであるということはだけは理解していました。しかし実際に死を体験していないのですから漠然とした思いだけがあり、とにかく死について知りたいという思いでいっぱいでした。蛇がエバに善悪の知識の木の実を食べさせるためには、まず、エバの死に対する恐怖心を取り除かなければなりません。そこで蛇は最初に「あなたがたは決して死にません。」と言ってエバの死に対する恐怖心を打ち消して、さらに言葉を続けました。

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

蛇はエバの死に対する恐怖心を打ち消して、次に善悪の知識の木の実を食べると人の身に何が起こるかをエバに告げました。蛇がエバに告げた言葉は、実に輝かしく希望に満ちた言葉でした。あなたがたの「目が開け」、あなたがたが「神のようになり」、「善悪を知るようになる」ことを「神は知っている」のです。蛇は「目が開け」「神のようになり」「善悪を知るようになる」と言って、あたかも人がさらに今よりも素晴らしくなって神と同等になるかのごとく言葉を並べ、そして最後に「神は知っているのです。」と言ってエバを誘い出しました。エバは自分が「目が開け」「神のようになり」「善悪を知るようになる」ことが出来るなら、それをぜひ体験したいという思いに駆られました。エバは蛇が言った「目が開け」「神のようになり」「善悪を知るようになる」ということがどういうことなのかもちろん分かりません。分からないがゆえに、蛇が言った「目が開け」「神のようになり」「善悪を知るようになる」という言葉が実に輝かしく希望に満ちた言葉に感じ、ますます「目が開け」「神のようになり」「善悪を知るようになる」ことを体験したいという強烈な欲望が湧いて来ました。そして、蛇が最後に言った「神は知っているのです」という言葉によってエバの欲望の扉が一気に開かれました。ここで蛇が言った「神は知っているのです」とは「神はそれを承知しています」という意味です。「神様はあなたがたが善悪の知識の木の実を食べるとあなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることをすでに分かっています。ご存知です。承知しています。認めています。容認しています。」という意味です。エバは蛇が言った「神は知っているのです」という言葉によって死に対する恐怖心が完全に無くなくなり、すっかり安心しました。

「神様は私たちが善悪の知識の木の実を食べて目が開け、私たちが神のようになり、善悪を知るようになることを、すでに知っているのですね。承知しているのですね。認めているのですね。だったらあの実を食べても大丈夫ですね。安心しました。」

蛇の巧みな誘導によって、エバの心を拘束する神の言葉はすっかり消えて無くなりました。そのようなエバの心の状況の中で、エバは再び善悪の知識の木に目をやりました。すると

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

「そこで女が見ると」

「そこで女が見ると」という言葉は蛇との会話によってエバの善悪の知識の木を見る目が百八十度変わったことを表しています。神の厳命によって見るからに嫌悪で、食べるのに不味そうで、愚かにするような木の実が、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするよう見え、その木の実はいかにも好ましくエバの心に映りました。エバの霊が蛇の価値観、感性に感化された瞬間です。

その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

これが蛇(サタン)の価値観、感性です。神の価値観、感性と対極にあるサタンの価値観、感性から見た善悪の知識の木です。神の価値観、感性から見た善悪の知識の木は、見るからに嫌悪で、食べるのに不味そうで、愚かなにするような木です。それに対してサタンの価値観、感性から見た善悪の知識の木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするその木はいかにもサタンにとって好ましいのです。ですからサタンの言葉によってサタンの価値観と感性に感化されたエバが再び善悪の知識の木の実を見たら、エバにとってその木は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」のです。だから、エバはそのまま善悪の知識の木から実を手にとって食べ、夫アダムにも手渡してアダムも食べました。以前にルビンの壺を引用して説明しましたが、同じ善悪の知識の木を見て、神の視点とサタンの視点では木の見え方が180度違います。一つの木に対して、目の焦点をずらすとその見える世界がまったく違って来ます。エバは蛇に唆される前までは善悪の知識の木が見るからに嫌悪で食べるのに不味そうで愚かなにするような木の実が、蛇の言葉に触れたらまことに食べるのに良く目に慕わしく賢くするように見え、エバの心にその木はいかにも好ましく映ったのです。

その木はいかにも好ましかった。

好き嫌いは理屈ではありません。生まれつき個人が持っている「感覚」「感性」です。
私たち人間の体は「視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚」といった五つの刺激を感じる器官の集合体です。目に飛び込んで来る景色や物事の情報を視覚が感知します。耳に入って来る音の情報を聴覚が感知します。舌で感じる味の情報を味覚が感知します。鼻に入って来る匂いの情報を嗅覚が感知します。手や体に何かが触れる情報を触覚が感知します。目・耳・舌・鼻・体全体は物質的な外部からの情報を感知して魂に伝えるための体の器官です。五感が感知した情報を、魂が認識します。体の五感はあくまでも「物理的な世界を感じるための器官」であって、感じた情報を認識するのは「魂」です。脳細胞が「私(わたし)」ではありません。脳細胞から「私」という意識が生まれているのではありません。男性が女性を好きになるのは、女性が男性を好きになるのは、脳細胞が女性を好きになるのではありません。脳細胞が男性を好きになるのではありません。男という魂が、女という魂が、異性を好きにさせるのです。創世記1:27に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書いてあります。

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

そして、創られた魂に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命令されました。

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

「生めよ。ふえよ。」とは男女の交わりです。「地を満たせ。」とは人間社会です。魂が創られた時点で、本能として男と女が交わり愛するように創られています。だから年頃になれば自然と異性を意識します。そして男も女もそれぞれの家庭、両親の元から独立して結婚して新しい家庭が作られて行きます。男と女が愛する精神的、肉体的な性のメカニズムは人間が生まれつき本能として備えている「いのちのメカニズム」です。いのちのメカニズムが「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」という神が人間に与えた目的を完成させます。そして、男と女が愛し合う、選び合う過程で、いわゆる「お互いの好み」「好き嫌い」が現れます。本来、罪の無いエデンの園には人間関係における「嫌い」はありません。しかし、罪の下に生まれて来た私たちは人間関係、男女間の好み、タイプ、好き嫌いが本能として魂にまとわりついています。みなさんは若い時はアイドルに憧れたと思います。あのアイドルグループのあの娘がいい!あのグループのあの子がカッコいい!とか、それぞれのタイプ、好みがあります。可愛いと感じる、カッコいいと感じることが、その人が持って生まれた「魂の価値観、感性」です。例えば、目の前に二人の男性が居ます。あるいは二人の女性が居ます。あなたは右か左のどちらか好きなタイプの男性、女性を選んで下さいと言われて、右の男性を選びました。右の女性を選びました。では、なぜ、この右の男性を、右の女性を選んだのか説明して下さいと言われても、説明出来ないのです。「だって、右の男性が私のタイプだから、右の女性が僕の好みだから、心が魅かれるから、感じがいいから」としか答えようがありません。理屈では説明出来ません。もちろん「色白で二重で目がパッチリしていてショートカットで優しそうだから」と物理的な説明は出来ますが、「じゃあ、なぜ色白の女性がいいの? なぜ、二重の目がパッチリした人がいいの?」と突っ込まれたら、「だって、それが私の好みだから、僕のタイプだから、しょうがないだろう」としか答えようがありません。上巻で書きましたが、創世記2章に女エバが造られる過程が書かれています。

創世記2:21~24
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

神はアダムのあばら骨の一つを取り、その肉をふさがれて、取ったあばら骨から女エバを造り、アダムのところに連れて来ました。そして、アダムは言いました。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」アダムは目の前に現れたエバのすべてを見て、自分の魂に潜在している価値観、感性に、エバの容姿、性格、すべてがフィットしたから、しっくり来たから、当てはまったから、形にはまったから、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と言いました。また、これはアダムからエバへのプロポーズの言葉でもあります。つまり、神はアダムから取ったあばら骨からアダムの価値観、感性に合う、フィットする、しっくり来る、当てはまる、形にはまる女として、エバを造り、アダムのところに連れて来ました。これは、男として完成されたアダムの一本のあばら骨が取られて不完全な者となったアダムの不完全を補う役目として、助け手として、女エバの使命、存在意味があることを表しています。そして男と女が一体となることによって男の不完全が女によって補われ、完成された者となります。だから神は「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と仰せられました。神が「それゆえ」と仰せられたので、男は女を愛し、女は男を愛し、一体となります。そして、男女の好き嫌いにかかわらず、味や匂いの好み、ファッション、趣味、趣向などはほとんど生まれつきの要素です。ある人は静かなクラシック音楽が好きで、またある人はガンガンのヘビメタロックが好きです。クラシック音楽が好きな人は「こんなうるさい音楽のどこがいいの?」と言い、ヘビメタが好きな人は「このガンガン騒いで歌うノリが最高なんだよ!」と言います。ある人は赤色が好きで、またある人は青色、黄色、緑色と、人それぞれ好みが違います。クラシック音楽が好きな人は自分の魂の価値観、感性にクラシック音楽がフィットするので、クラシック音楽に惹きつけられ、好きなのです。さらにクラシック音楽でもベートーヴェン、モーツァルト、チャイコフスキーと、それぞれの音楽の個性、特徴、持ち味が異なり、「俺はベートーヴェンが好き」「私はモーツァルトが好き」となります。味や匂いの好み、ファッション、趣味、趣向などはほとんど生まれつきの要素です。自分で好きにさせているわけではありません。自分が選んでいるのでもありません。五感を通して入って来るものに対して自分の魂が心地よく感じ反応するのです。ですから厳密には人の好き嫌いは自分で選んでいるのではなく、選ばされているのです。自分の魂に潜在する好き嫌いが目の前に現れると、潜在する魂の好き嫌いが反応します。これは、魂による物理的な外部への反応です。体の五感を通して入って来た世界に対して「私」という魂がそのように反応するのです。自分で自分の好き嫌いや物事の価値観、感性を作っているのではありません。アダムとエバの魂は神に似せて神の形に創られましたから、最初は神の価値観、神の感性と同じ人間としての価値観、感性を持っていました。ですから蛇に誘惑される前まではエバの霊的な目には神の価値観、神の感性、神の視点で見た善悪の知識の木が映っていました。神の価値観、神の感性、神の視点から見た善悪の知識とは、見るからに嫌悪で、食べるのに不味そうで、愚かなにするような木の実です。ところがサタンと会話をして、振り向いて改めて善悪の知識の木の実を見たら、エバにとって「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましく」映ったのです。エバの魂が神の価値観、感性から蛇の価値観、感性に移り変わった瞬間です。分かりやすく説明するために繰り返し「ルビンの壺」を例にしてお話しますが、一つの対象物を見る焦点(意識)をずらすとまったく別のものに見えます。そのようなことがエバの霊の目に起こりました。

出典元Wikimedia Commons/File:Rubin2.jpg

今まで白い世界(壺)として認識していたものが、目の焦点(意識)を変えたら黒い世界(人の顔)と認識するようになりました。神の価値観、感性とサタンの価値観、感性とは対極の関係にあります。相対の関係にあります。お互い相受け入れ合うことはありません。出来ないのです。磁石と同じ性質で出来ないのです。磁石のN極、S極の同極がくっつくことはありません。同極は必ず反発します。サタンは神に対して自分も神のつもりになっていますから、神と神がくっつくことは出来ません。お互い反発します。創造主なる神は一人です。二人の神は存在しません。磁石の異極ならくっつくように、創造主なる神に対して自分は神によって創られた被造物であることを認め被造物として与えられた使命、目的を果たすとき、神に受け入れられ、神と一つになることが出来ます。神は人が善悪の知識の実を食べた後に、「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と仰せられました。神が言われたように、人は善悪の知識の木の実を食べたことによって「われわれのひとりのように」なりました。「神のように」なりました。だから人類は「この科学の時代に、神なんかいるわけねーだろ!」と叫び、神をバカにして、それが当たり前だと思っています。自分たちが神だと思っています。神と神(人間)ですから、神が罪の下に在る人間を受け入れることは出来ません。また、人間(神)も、神を受け入れることが出来ません。磁石の同極が絶対くっつくことがないように、人間が傲慢になって自分たちが神になっている以上、創造主なるまことの神に受け入れられることは絶対にありません。

      神←反発→神   神→吸引←被造物

ヤコブの手紙1章に人が罪に陥る過程、原理が書かれています。

ヤコブの手紙1:13~15
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

誰が、エバの「善悪の知識の木の実を食べたい」という欲を引いたのでしょうか? 誰が、エバを罪の戸口におびき寄せたのでしょうか? 誰が、エバを悪の道へと誘い出したのでしょうか? 答えは「サタン(蛇)」です。
昨今は「オレオレ詐欺(振り込め詐欺)」なるものが横行し、お年寄りが何十万、何百万、何千万円ものお金を騙し取られるそうです。若い人からすれば「なんであんなのに騙されるのかわからねーな」と思うでしょう。オレオレ詐欺は蛇がエバを騙したテクニックをうまく利用しています。最初に蛇はエバを混乱させてパニック状態に陥れてエバの頭の中にある神の言葉を消しました。オレオレ詐欺も突然電話が掛かって来て「おばあちゃんオレだよ、オレ。孫のオレだよ。おばあちゃん、会社から預かった100万円銀行に振り込むはずだったのに電車に置き忘れちゃってさ、今日中に100万円お客さんのところに振り込まないとオレ会社クビになっちゃうんだよ。後で返すから急いで100万円貸してくれないかな」 おばあちゃんは「そりゃ大変だ!かわいい孫のためになんとかしなきゃ」 おばあちゃんは気が動転してパニック状態です。おばあちゃんの冷静な判断力を排除します。みなさんのところにも「詐欺メール」なるものがよく送られて来ると思います。最近は実在するネット通販や大手の会社を装った巧妙な詐欺メールが送られて来ますから、一瞬ドキッとします。心当たりがあると「これ、本物かな?偽物かな?」と混乱するときがあります。普段は「私は絶対騙されない!」と思っていても、いざ、その事態に直面すると、混乱します。パニックになります。特にお年寄りは判断力が鈍っているので騙され易くなります。蛇はエバに神の言葉への疑問を投げかけて、エバの思いを混乱させ惑わして、エバの心に安心を与えて、さらに善悪の知識の木と死に関する偽りの情報を教えて、エバの心に「善悪の知識の木の実を食べたい」という欲望を起こしました。蛇の言葉が発端となって、エバの心に「善悪の知識の木の実を食べたい」という欲望が湧いて来ました。アダムとエバがエデンの園に生えている「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木の実」を食べたいと思ったのは、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」という神の言葉に起因します。つまり、人の心には「神の言葉に起因する欲望」と「蛇(サタン)の言葉に起因する欲望」という二つの相対する、対極する「欲望」が湧いて来ます。そして神がカインに「罪が戸口で待ち伏せている」と言って警告した「罪の世界への戸口」を開いて、人は神の善の世界であるエデンの園からサタンが君臨する罪の世界に入ってしまったので、罪の法則に支配されながら生きるようになり、現代に生きる私たちは罪の世界に在りながら、常に神の言葉に起因する欲望と蛇の言葉に起因する欲望の中で悩み苦しんでいます。パウロがローマ人への手紙で書いています。

ローマ人への手紙7:15~25
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

パウロが言っている善と悪の善は「神の言葉に起因する思い、行い、欲望」です。悪は「サタンの言葉に起因する思い、行い、欲望」です。そしてパウロは16~17節でこう言っています。

7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

「自分のしたくないことをしているとすれば」とは、「神が喜ぶこと(善の行い)が素直に出来ない」ことです。神の御心が「わかっちゃいるけどできない」。神に対して悪いことと知りながら「わかっちゃいるけどやめられない」というやつです。ここでパウロは神に対して善を行いたいのです。神が良しとされる行い、生き方をしたいと願っているのです。だったら、さっさと善を行えばいいじゃないですか。ところがその善の行い、生き方が素直に出来ないから、悩んでいます。神に対する思いと実際の行動が乖離するので悩んでいます。教会に行っているみなさんは教会のすべての人を愛することが出来ますか? 正直に、胸に手を当てて考えてみれば、気の合う人気の合わない人、好きな人嫌いな人、得手な人苦手な人など、必ず居るはずです。職場でも気の合う人気の合わない人が居ます。万人を愛するなんてとても出来ません。だって牧師がそうですから。教団の中でも牧師同士で気の合う牧師気の合わない牧師が居ます。いつもニコニコ笑顔で講壇から「みなさん、お互い兄弟姉妹愛し合いましょう!」とお説教しながら、牧師をよ~~~く観察していると牧師にも人の好き嫌いがあることが分かります。牧師だろうが信徒だろうが関係ありません。万人を愛したくても愛せないのが人間です。「すべての人を愛せよ」という律法はとても良いことだと私たちは認め、すべての人を愛そうとします。ところが実際にすべての人を愛そうとしても愛することが出来ません。パウロと同じ悩みにぶつかります。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」

だって人の心は罪に支配されているのですから。罪の原理、法則に縛られている存在なのですから。だからパウロは

「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」

と弁明しています。パウロは

「俺が罪を犯すのは俺のせいじゃないよ。俺がすべての人を愛したくても愛せないのは俺のせいじゃないよ。俺の心に住み込んでいる罪という奴が俺を通して罪を犯させるだよ。俺の心に罪という奴が座り込んでいるからすべての人を愛したくても愛することが出来ないんだよ。だから俺に罪の責任はないよ。俺の罪を責めるなら俺じゃなくて俺の心に住み込んでいる罪という奴を責めてくれ」

と言っているのです。自分の罪の責任を自分の内に住んでいる罪に擦りつけているのです。自分の罪の責任を自分の内に住んでいる罪に転嫁しているのです。開き直っているのです。みなさんパウロがなにを言っているのか分かりますか? パウロが言っていることが理解出来ますか? 人の好き嫌いがあるのは、先ほどお話したように、自分が相手を選んでいるのではありません。「自分」という「魂」がそのように「反応する」のです。磁石が同極では反発し異極ではくっつくように、魂に潜在している「罪(磁石)」が反応するのです。二人の人が初めて出会って会話をしている間に本能的に魂が相手の人を受け入れられるか受け入れられないか磁石のように反応するのです。会話をしながら相手を受け入れられると感じれば、異極の磁石がだんだん近づいていって吸い付くように「この人とは合いそうだ」と魂が認識して相手の人に心を開きます。逆に相手を受け入れられないと感じれば、同極の磁石が反発するように「この人とは合わない」と魂が認識して相手の人に心を閉じます。そのように、パウロは

「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪(磁石)なのです。」

と言っているのです。悪を行う人は自分の魂がサタンの言葉に吸い寄せられてサタンの価値観、感性が心地よく感じるから、悪を行います。善を行う人は自分の魂が神の言葉に吸い寄せられて神の価値観、感性が心地よく感じるから善を行います。聖書は「すべての人は生まれつき罪人である」と定義しています。ですからすべての人は生まれつき神を知らず、サタンの言葉に吸い寄せられてサタンの価値観、感性が心地よく感じる存在としてこの世に生まれて来ました。しかし、クリスチャンは神によって救われて生まれ変わったので、神の言葉に吸い寄せられて神の価値観、感性が心地よく感じる存在となりました。それは、人が神に対して罪を認めて「神←反発→神(人間)」関係から「神→吸引←被造物」という関係に変わったからです。自己中心と自己中心がぶつかればお互い反発します。他人中心と他人中心がぶつかればお互い吸引します。自己中心とは自分の「我」です。相手を顧みない自分中心の意見です。他人中心とは相手を認めて頭を下げることです。人間はすべて自分の考えが正しいと思っています。「自分の考えが正しいと思っていること」が、自己中心の本質です。聖書は「義人は一人も居ない。すべての人は罪人である」と定義しています。

 自己中心←反発→自己中心   他人中心→吸引←他人中心

そして生まれつき罪人である人間に罪を自覚させるために、人類がエデンの園から外れた罪の世界に居ることを認識させるために、律法があります。イスラエルの民に律法が与えられました(出エジプト記20章)。律法が無ければ社会の秩序を保つことが出来ません。民族を統率することが出来ません。なぜなら人はすべて罪人だからです。律法が無ければ皆が皆自分の好き勝手なことを始めて喧嘩になります。殺し合いになります。自己中心と自己中心がぶつかれば喧嘩になります。殺し合いになります。だから神は人間に律法を与えました。ところが律法が与えられたらさらにその律法に反発するものが人の心から湧いて来ることが分かりました。だからパウロは7:22で

「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」

と言って罪と律法の因果関係を述べています。ここでパウロが言っている「異なった律法」とは「サタンの律法」です。「サタンの価値観、感性」です。一人の人間の心の中で、神の律法とサタンの律法が対立して喧嘩をしているのです。クリスチャンのみなさんはおそらく神を信じる前よりも神を信じた後の方が悩むことが多いかもしれません。なぜなら自分の人生に「神の律法」が入って来たからです。クリスチャンの方々はパウロが悩んだ「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」という言葉に共感することがありませんか? 「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」という言葉に共鳴することはありませんか? 絶対有るはずです。無いと言っている人は正直に神の前に生きていないからです。パウロのように神を信じる者として正直に、真面目に、一生懸命生きようとすればするほど、ローマ書7章のパウロの嘆きの言葉が自分の心に響いて来ます。「そうだよな。パウロの言う通りだよな。アーメンだよな」と共感、共鳴するはずです。しかしパウロは次に「そのようなことで悩む必要はないよ。だって神の救いはさらに深く、そのような悩みからも解放して下さる」と言っています。8章に書かれています。

ローマ人への手紙8:1~2
8:1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

ここでパウロははっきりと「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と言い切っています。その理由として、「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と言っています。パウロは7章で「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」と言って、8章でも「いのちの御霊の原理」「罪と死の原理」と言って、「原理」という言葉を使っています。「原理」とはすなわち「法則」です。聖書によっては「法則」と翻訳されています。
地球には「万有引力の法則」があり、地球に居る私たち人間は引力の支配下にあるので空を飛ぶことが出来ません。引力の力に束縛されます。しかしロケットで宇宙に出て地球にある引力の支配から抜け出せば、宇宙空間を浮遊したり飛ぶことが出来ます。引力の力から解放されます。そのように、いくら私たち人間が善を行いと思っても、「罪の法則の支配下」に在る以上、善を行うことが出来ません。私たちの魂がエデンの園から外れた「罪の世界」に在る以上、罪に束縛されます。だからパウロは「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言って自分を嘆いています。「死の、からだ」とは「死人」です。死人は殴っても蹴っても反応しません。抵抗しません。だって死んでいるのですから。そのように、罪が攻めて来て魂に襲い掛かって来ても、罪に対して反応することが出来ません。抵抗することが出来ません。魂が死んでいるのですから。いのちが無いのですから。人間が地球に居る以上は引力の法則に縛られて人間が自力では空を飛ぶことが出来ないように、罪の世界に居て罪の法則に縛られている以上、善を行うことが出来ません。ジャンプして一瞬空中に飛ぶことは出来るように、一時的に善を行うことは出来ますが、鳥のように恒久的に空を飛ぶことは出来ません。恒久的に善を行うことが出来ません。善を行ったり悪を行ったりと、善と悪の間を行ったり来たりしながら悩みます。しかしパウロは「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と言って、神を信じる者は罪と死の原理から解放されたことを謳っています。束縛とは「奴隷」という意味です。「原理に支配されるもの」「法則に支配されるもの」という意味です。ですから先ほど譬えたように「いのちの御霊の原理」は引力の束縛を受けない宇宙の世界です。「罪と死の原理」は引力に束縛される地球の世界です。つまりイエス・キリストの十字架による罪の贖いによって人の魂が今まで罪と死に束縛されていた世界から解放されて、罪と死に束縛されない世界に移されたことを「原理」という言葉を使ってパウロは形容しています。その前の6章は7章、8章の前置きとして書かれています。

ローマ人への手紙 6:1~23
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

6章には「奴隷」という言葉が頻繁に使われていて、そこから「解放されているのです」と書かれています。ですから先ほど書いたようにパウロは「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と言って罪の世界から抜け出て罪の支配から解放さたので、罪そのものを客観的に、離れた立場から罪の本質を捉えて語っています。そしてパウロは確信を持って

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ人への手紙 2:20)

と大胆に語りました。神の救いは「エデンの園の回復」です。エデンの園は天から神が人間の世界に降りて来て創られた神と人間が交わるための世界です。しかし、人が罪によってエデンの園から追い出されたので、神はイエス・キリストの十字架の贖いによって人類の罪を赦し、今度は人の心に御霊なるイエス・キリストが住むことによって神と人が交わる世界を設けられました。人の心の中にエデンの園を設けられました。エデンの園には一つの川が流れていたように、イエス・キリストを信じる者の心の奥底には川が流れています。

創世記2:10
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。

ヨハネの福音書7:38~39
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

エゼキエル書47章には神殿から流れ出た水が人が渡れないほどの大河になり、その川は神殿の奥の聖所から流れ出ていることが書かれています。神殿は人と神が接見する場所です。旧約時代の神殿は、目に見えない人の心の世界を具象化しています。エデンの園も人の心の世界、霊的な領域を具象化した世界です。パウロは罪の奴隷から解放されて心に住んで下さるイエス・キリストの霊に感化されながら信仰によって生きた人です。だから「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と宣言しました。罪の下に在った時は「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と言っていたパウロが、キリストの霊を受けてパウロのうちにイエス・キリストが住みついたので「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言う人に変わりました。エデンの園から追い出されて罪の世界に在ったパウロが、神の救いによって再びパウロの心にエデンの園が回復されました。


次回に続く

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。

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2019年01月20日