ヨブが出会った生ける神

日本基督道場
2018年10月16日(火)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright ©2018
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ヨブが出会った生ける神
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「木を見て森を見ず」という諺(ことわざ)があります。多くの人はヨブ記の「木」だけを見て理解し、ちょっと離れて「森」を見て理解しようとしません。森を構成している一つ一つの木を見ることはもちろん大事ですが、さらにちょっと離れてヨブ記という「森」を眺めて見ると、ある「世界」が見えて来ます。

ヨブ記について、聖書の神を否定する人たちが言うことは「聖書の神は非情だ」「残酷だ」「自分勝手だ」「人が苦しんでいるのを見て楽しんでいる」「ヨブを苛めている」「虐待だ」「あれじゃヨブがかわいそうだ」といった意見です。このようなことを言う人たちは、ヨブ記を最後まできちんと読んでいない人たちです。ヨブ記の一部だけを切り取って、あたかもその一部がすべてかのごとく勝手に解釈して聖書の神を批判する人たちです。解釈というよりも、こじつけです。聖書を批判したい人たちがヨブの苦難をネタにして神をボロクソに貶します。ヨブ記の最後に、こう書いてあります。

ヨブ記42:10~17
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、【主】はヨブの繁栄を元どおりにされた。【主】はヨブの所有物もすべて二倍に増された。
42:11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、【主】が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。
42:12 【主】はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
42:13 また、息子七人、娘三人を持った。
42:14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。
42:15 ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。
42:16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
42:17 こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。

・神はヨブが苦難を受ける前の神の祝福の中に戻して、さらにそこからヨブの所有物をすべて二倍に増されました。
・ヨブのすべての兄弟すべての姉妹、それに以前のすべての知人はヨブのところに戻って来てヨブと和解してヨブの家でヨブとともに食事をしてヨブをいたわり慰め和解の印として彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつをヨブに与えました。
・神はヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福されました。
・ヨブは羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになり、さらに息子七人、娘三人を持ちました。しかも、娘たちはこの国では他に類を見ないほどに美しい女たちでした。
・ヨブはその後百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見ました。自分の子、孫、曾孫、玄孫まで抱くことが出来、大勢の家族に囲まれながら老年を迎え、長寿を全うして天に帰りました。

つまり、苦難の日々を通り抜けた後のヨブの人生は、ヨブ記1章1節から4節に書かれている苦難の前の神に守られ祝福された幸せな日々よりもさらに祝福が増した幸せな日々が待っていました。しかも、神はヨブをサタンの手に渡されるとき、「ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」「ただ彼のいのちには触れるな。」と言ってヨブの命はちゃんと守っています。そしてヨブの苦難は神が与えているのではありません。サタンがヨブに苦しみを与えているのです。サタンが神に「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」と言ってサタンがヨブの信仰を疑ってきたので、神は「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と言ってヨブをサタンの手に渡されました。神がヨブの信仰を疑ったのではありません。サタンがヨブの信仰を疑ったのです。ヨブ記の解説に関して、ほとんどの人が「神がヨブに苦難を与えた」と言ってあたかも神がヨブに苦難を与えているかのごとく話しを展開して行きます。神がヨブに苦しみを与えているという前提で解説して行きます。そして最後に「神はなぜ人間に苦難を与えるのか?」「神は愛なになぜ人間には苦しみがあるのか?」と話しの結論を持って行きます。はあ???違うでしょ。サタンがヨブを苦しめているのでしょ。「神がヨブに苦難を与えた」なんて聖書のどこにも書いてありません。聖書をよく読んで下さい。ヨブ記1:13~19に書いてある家畜を失い、しもべを失い、家族を失った苦難は、その前のヨブ記1:12で神が『【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。』という流れによって起こった出来事です。つまりサタンに手によってヨブはすべての財産と家族を失いました。間違いありませんよね? また、次に起こるヨブの病も、ヨブ記2:7~8に「サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。」と書いてあるように、サタンによってヨブは悪性の腫物で苦しむことになりました。間違いありませんよね?
そもそも、神は冒頭で「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と言ってサタンに向かってヨブの信仰を褒めて自慢しているではありませんか。もし、サタンが居ないところで神様が一人で勝手に「ヨブはいつも俺を信じて礼拝をしているが、あれは本当に心から俺を信じて礼拝をしているのかな? ひょっとして俺が祝福してあいつにたくさんの財産をやっているから財産目当てに俺を礼拝しているだけじゃないのか? きっとそうに違いない。よし、ここは一つあいつの本音を探りだしてみよう。おい!サタン!ちょっと来い!お前にヨブを預けるから、あいつをボコボコにして痛めつけてくれや。あいつがボコボコにされても尚も俺を礼拝するか見てみたいのだ。よろしく頼むぞ!」と言ってヨブがサタンにボコボコにされて苦しんでいるのを天から見て楽しんでいるのなら、そりゃ~神様は自分勝手で非情で惨忍で残酷な方ですよ。みなさん、ちゃんと聖書を読んで下さい。神はサタンが「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」と言ってサタンがヨブの信仰に疑いをかけて来たので、神からすれば最初に「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と言ってヨブの信仰を褒めてサタンに自慢した手前、サタンにヨブの信仰が真実であることを証明してサタンのヨブの信仰への疑問を払拭しなければなりません。また、もし、サタンの言う通りヨブが苦しみの中で「神様を信じて礼拝しているのに、なんでこんなに苦しまなければならないんだ。バカバカしくてやってらんねえな。や~~めた。もう神様なんか信じるのや~~めた」と言って信仰を捨ててしまったならば、神が最初にヨブの信仰を褒めて自慢したことが嘘になってしまいます。神の言葉が嘘偽りになってしまいます。ここは神の面子、沽券に関わることです。サタンは「ヨブの信仰の目的は神が与える物質的な祝福と健康を貰うことです」と主張しているのです。サタンの主張に対して神は「いや、違うよ。ヨブは物質的な祝福と健康を失っても私を信じてくれるよ」ということをサタンに証明しなければなりません。だから神は敢えてサタンの要求に応じてヨブをサタンの手に渡されました。もちろんヨブがサタンの手に渡されたならばたちまちヨブの人生に不幸が訪れヨブが苦しみのどん底に落とされることを神は知っています。だから神はサタンに「ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」また「ただ彼のいのちには触れるな。」と言って一線を引きました。しかしたとえ苦しみのどん底に落とされてもヨブの信仰は揺るがないと神はヨブを信じたのです。ヨブを信頼したのです。だからヨブをサタンの手に渡されました。最初に神がヨブの信仰をサタンに褒めて自慢しなければ、何もヨブがサタンの手に渡されることはありませんでした。ヨブが苦しむことはありませんでした。神が思わずサタンにヨブの信仰を褒めてしまったために、自慢しちゃったために、ヨブに筆舌に尽くし難い苦難が訪れました。ヨブにすればいい迷惑なのです。神はうれしいのです。堕落と悪に満ちた人間世界にあって、たった一人だけでも自分の存在を認め、敬い、頼り、信じ、礼拝をしているヨブがうれしくてうれしくてしょうがないのです。神の一番の喜びは、人が神を信じ神のもとに来て頼って来ることです。そのような人に神は「よし!なんとかしてやろう!」と心動かされます。神はヨブの信仰がうれしいから、ヨブのすべてに垣を巡らせてサタンの呪いから守りヨブのすべてを祝福しました。そしてサタンが目の前に現れたとき、神はうれしくて喜びのあまり思わずヨブの信仰を褒めてサタンに自慢しちゃったために、ヨブはサタンの手によって苦しみの世界に落とさることになりました。しかしヨブは苦しみのどん底で、今まで噂として聞いて信じてきた本物の生きたヤハウェの神の声を直接聞くことになりました。神様は非情な方ではありません。残酷な方ではありません。自分勝手な方ではありません。どこまでもヨブを愛しています。どこまでもヨブを信じています。ほとんどの方はヨブ記について「神がヨブに苦難を与えた」と言っていますが、これは完全な誤りです。ヨブの苦難は神から来たのではありません。サタンから来たのです。そもそもヨブ記を理解する「前提」が違っているので、「神はヨブの信仰を試すたにヨブに苦難を与えた」「神はヨブに罪を示すために苦難を与えた」というおかしな解釈が出て来ます。私が何かおかしなこと言っているでしょうか? ちゃんとヨブ記を読めばヨブの苦難はサタンによってもたらされていることが理解出来るはずです。また、キリスト教会でも、ヨブは「苦しみの中で尚も神を信じ続けた立派な信仰者」として讃えられ、ヨブ記はクリスチャンがどんな苦難に遭ってもヨブのように神様を信じ続けなさいと教えているかのごとく説明されていますが、それも誤解です。黙って嫌々苦難に耐えることが信仰ではありません。神はヨブを指して「私の僕ヨブはこんなにも苦難に遭いながら信仰を捨てなかったのだから、お前らもヨブのようにどんな苦難にも耐えなきゃだめだぞ!それが信仰だ!」と言っているのではありません。自分でがんばって「信仰だ!信仰だ!信仰だ!サタンなんかに負けてたまるか!!!」と言ってねじり鉢巻きを締めてフンドシを締めて歯を食いしばって嫌なこと苦しいことを黙って我慢するのが信仰ではありません。神様は「おまえらつべこべ言ってないで俺が与えた苦しみに黙って耐えてろ!それが信仰だ!」と言っているのではありません。ヨブの信仰についてヤコブの手紙には次のように書いてあります。

ヤコブの手紙5:10~11
5:10苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ここに「耐え忍んだ人たちは幸いであると、」「ヨブの忍耐のことを聞いています。」と書いてあるので、自分でがんばって歯を食いしばって嫌な事、苦しいことを黙って耐えることが信仰であると思ってしまいますが、そうではありません。信仰は「忍耐力」ではありません。「素直に自分の思いを神にぶつけること」が信仰です。ヨブ記の3章から37章にかけて書かれているヨブの主張は神への「文句、愚痴」です。そして、38章で嵐の中から神の声を聞いて、それを境にヨブは一切神への愚痴、文句を言わなくなりました。なぜ、それまで散々神に対して愚痴や文句を言った人が、一切愚痴や文句を言わなくなったのでしょうか? 答えは「ヨブは本物の生きた神の言葉を直接聞いたから」です。今まで噂として聞いて信じていたヤハウェの神の言葉を直接魂で聞いたからです。神の言葉を一つ聞いただけで人は変わるのです。三人の友はヨブに三者三様の意見を言ってはヨブに自分の誤りを認めさせようとしましたが、却ってヨブは反発をして、益々自分の正しさを主張します。しかし嵐の中から神がヨブに語ったら、ヨブは黙ってしまい、一切反論しないで自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めました。ヤコブはこれら一連の流れを通して、神の言葉によって苦しみを乗り越えたヨブの信仰を見習いなさいと言っているのです。このことは後でまたお話しします。

ヨブ記のテーマは「苦難の意味」ではありません。

「人間にはなぜ苦難があるのか?」ということを神が人間に教えようとしてヨブ記が書かれたのではありません。

「人を変えるのは生ける神の言葉しかない」ことが書かれているのです。

そして、ヨブ記のメインテーマとなる言葉が、先ほど触れたヨブ記42:5~6に書かれています。

ヨブ記42:5~6
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。

「百聞は一見にしかず」という諺(ことわざ)があります。百人の人から聞いた言葉より、一瞬でも直接神を見たならば、その人の人生は百八十度ガラリと変わります。千人の哲学者や数多の宗教の教祖の説教を何百時間かけて聞くよりも、一瞬でも本物の神の臨在に直接触れたなら、その人の人生は変わります。人の人生を変えるのは人の言葉ではありません。「生ける神の言葉」が人の人生を変えます。
ヨブは人生の苦しみのどん底の中で、生ける神を自分の目で見たのです。人間には、人生のどん底に落ちて初めて見えて来る世界があります。これはどん底に落ちた人でなければ分かりません。人の人生のどん底のさらにその下に、神は居ます。どん底の人生のさらにその下から、神はその人のどん底の人生を支えています。
イエス・キリストは家畜小屋で産声を上げ、飼葉桶に寝かされました。家畜小屋は羊や牛や馬が生活する場所です。家畜や藁の匂いに包まれながら、周りには家畜の糞がころがっているような所です。皇帝アウグストの勅令によって住民登録をするために帰郷の途中でマリヤが臨月を迎え産気づいてお産をするにも宿屋が一杯でとても妊婦がお産する場所などなかったので、しかたなくヨセフとマリヤは人が居ない家畜小屋で出産をすることになりました。家畜小屋は人がお産をする所ではありません。羊や牛や馬が生活する所です。人がお産する所ではない場所で、イエス・キリストは産声を上げました。どんなに貧しい人でも、子どもを産むときくらいは自分の家、あるいはどこかの家で産むでしょう。神の子イエス・キリストは稲光が光る神殿の床の間から神々しく生まれて来たのではありません。人間の世界の一番貧しい環境から、一番低い所から、人知れず生まれて来ました。だから貧しい人の気持ち、世間からバカにさている人たちの心が理解出来ます。ルカの福音書16章には毎日贅沢三昧の生活をしていた金持ちと、金持ちの家から捨てられる残飯を求めて門前で寝転んでいた全身おできに侵され見るも無惨なラザロという乞食が共に死んだらどうなったのか? 二人の死後の運命が書かれています。結果はどうなったでしょうか? 神様はラザロを見放したでしょうか? 金持ちだけがいい思いをして終わったでしょうか? 読んでみて下さい。
ヨブは苦しみのどん底で生ける神の言葉を直接聞いて、生ける神の現実を体験して、自分の存在のなんと小さいことか、大家族に囲まれて何ひとつ不自由のない生活の中で神を畏れ敬い礼拝をして来たが、結局、自分は神を知らなかったことを、身をもって体験したのです。家族も財産も自分の健康もすべてを失った人生のどん底で初めて生けるヤハウェの声を聞いて、そこで初めて自分は「神について」は知っていたけれど「神そのものを知らなかったこと」を悟り、自らの信仰を悔い改めました。「神について」とは、神という方を「知識」として、「理屈」として理解して、畏れ、礼拝して来ました。しかし、生ける神そのものとの生きた交わり、いのちの触れ合いによる体験がありませんでした。だから

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」

と言って自分の信仰の浅はかさを嘆き、悔い改めました。ヨブのヨブ記1:1~5の信仰は「神のうわさを聞いてそのうわさ信じて来た信仰」です。神様はこのような方ですよ、こんな方ですよ、という「人の噂」からイメージしたヨブの「神観」を根拠とした信仰です。そして、ヨブの友であるテマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルの三人がヨブの惨状を聞きつけてヨブのところにやって来て、やがて三章からヨブの愚痴が始まり、それからヨブと三人の友との議論が37章まで延々と続きます。それでもってこの四人はなにをしているのか? というと、神の「うわさ話」をしているのです。四人が四人ともそれぞれ自分の神観(神学)、神に対する知識、神様はこんな方である、という四者四様の神観をヨブの苦しみをネタにぶつけ合っているのです。ヨブ以外の三人は「因果応報」という原理によってヨブを責めたてて自分の信仰、自分の神学を自慢しあっているのです。そしてその四人がワイワイガヤガヤとヤハウェのうわさ話をしている最中に、突然、38章で本物のヤハウェが四人のうわさ話の中に割り込んで来て「俺が本物のヤハウェだぞ!ヨブよ、おまえら何をそんなに俺のうわさ話しをしているのだ!」とまくし立て始めました。ヨブは本物の生けるヤハウェが目の前に現れて言葉が出ません。ヨブはこの時、今まで噂に聞いていたヤハウェ(神)の生きた言葉を初めて聞いたのです。そして40章で

「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」

と言ってヨブはヤハウェの前に沈黙しました。今まで三人の友を相手に散々自分の言い分を述べて反論して来たヨブでしたが、生きた本物のヤハウェの権威に圧倒されて反論なんか出来ません。ただ土下座して額を地に擦り付けるしかありません。たとえば、みなさんが職場の同僚との飲み会でビール片手に「まったくうちの課長はどうしよもないよな。あんな課長どこか海外へ飛ばされちゃえばいいのに」と言って上司の悪口で盛り上がっている最中に、突然、後ろから肩を叩かれて、振り向いたら「君たち楽しそうだね。なんの話でそんなに盛り上がっているの?」と言われて課長が立っていたら、どうしますか? これが部長だったら、社長だったら、どうしますか? もう一遍に酔いが醒めて土下座してひたすら謝るしかないでしょう。ましてやヨブの相手は創造主なる神です。もう、言葉が出ません。沈黙して、土下座して、自分が今まで三人の友に語って来た言葉を後悔しながら、ひたすら、ひたすら、謝るしかありません。
さらにヤハウェが語り終えたとき、ヨブは言いました。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」

ヨブは自分の信仰を悔い改めました。
冒頭で「木を見て森を見ず」と言いましたが、みなさん、客観的にヨブ記全体を眺めて見て下さい。木からちょっと離れてヨブ記という「森全体」を眺めて見て下さい。ヨブ記の1章と2章はヨブのそれまでの祝福された人生から、今度は神の祝福から外れたサタンに呪われた人生に転落する背景、原因が書かれています。そして、3章で思わずヨブの口から神への愚痴が漏れ出し、やがてそこへやって来た三人の友との議論が始まり、四人の議論は37章まで延々と続きます。そして38章で、突然、ヤハウェの神が四人の議論の中に割って入って来て、嵐の中で神がヨブに語り始めました。38章を読めば分かるように、神は一つもヨブに文句を言っているわけではありません。ヨブに罪や不義を示したわけでもありません。38章~41章を読めば分かるように、神が語られた言葉は四人の議論の流れに沿って創造主の立場から万物の創造について語っているだけです。四人の御自身に対するうわさ話の中に入って来て御自身が創造主なる神であることをヨブに示しただけです。そして、ヨブは神の声を聞いただけで、

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」

と言ってちりと灰にまみれて自分を悔い改めました。四人の議論の最中に、突然嵐が吹き荒れて38章で神がヨブに語り始めました。神は開口一番「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」と仰せられました。神は「知識もなく言い分を述べて」と仰せられました。つまり、四人は自分たちの「浅はかな知識」を持ち寄って神について延々と議論しているのです。神の知識からすれば人間の知識なんて無に等しいのです。その無に等しい人間の知識を根拠として四人がお互いの「言い分」を述べているのです。知識とは物や事柄への理解、認識です。神は万物の物や事柄を作られるお方です。人間は神が作られた物や事柄の真理や事実を発見して悟る者です。神は知識を作られる方で、人間は知識を発見して悟る者です。知識を作られる神と知識を発見して悟る人間とは知識の次元が違います。論理の次元が違います。ヨブ記3章から37章にかけて書いてあるヨブと三人の友の言い分は、すべて人間が発見して悟り得た知識の主張です。それに対してヨブ記38章から41章にかけて書いてある神の主張は知識の創造の主張です。神は知識を作る創造主、摂理を組み立てる創造主の立場からヨブに語っています。だから神は自然界、万物を指してヨブに向かって「お前にこれが出来るか。誰がこれを作ったのか」と言ってヨブに迫っています。神の言葉に対してヨブは元々人間として賢い人ですから神の主張を聞きながら直ぐに知識を作る創造主なる神と知識を発見して悟る人間とは存在の次元が違うのだと自覚させられたのです。そしてヨブは今まで自分が噂として信じて来た本物の生けるヤハウェの神の声を聞いた時、ヨブの心に本当の信仰が生まれました。自分が信じて来た神は本当に存在する、人と会話をする生ける神であることを体験したのですから、それはヨブの神観、神学、意識は180度ガラリと変わります。ヨブはヤハウェの神を「知識」ではなく「体験」として知り、悔い改め、四人の議論、うわさ話しは、ここで終わりました。
では、ヨブ記について最初から学んで行きましょう。

ヨブ記1:1~12
1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。
1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。
1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。
1:6 ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
1:7 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
1:8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
1:9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
1:12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。

ヨブ記はいきなり「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」というヨブの人物紹介から始まります。しかしヨブという人物はいつの時代の人で、ヨブ記は誰がいつの時代に書いたのか確定的な資料はなく、神学的に諸説あります。私の理解はアブラハムが出て来た族長時代だと推定しています。その根拠として、

・ヨブ記に登場する四人は「ウツの地にヨブ」「テマン人エリファズ」「シュアハ人ビルダデ」「ナアマ人ツォファル」と紹介され、それぞれの地方に於ける族長と思われます。
・ヨブ記にはユダヤ民族に関する歴史や背景などが全く書かれていません。
・ヨブはいつも自分の家族の罪のために全焼のいけにえを捧げていました。これは、創世記22章で、神がアブラハムに「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」と命令して、アブラハムが実際にイサクを全焼のいけにえとして捧げようとしたことに由来します。そして創世記22章8節でイサクが父アブラハムに「人とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と聞いています。イサクは父アブラハムが度々祭壇を築いて羊を全焼のいけにえとして捧げているのを幼いころから見ていて、それで父アブラハムに「人とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と聞きました。出エジプト記、レビ記以前の時代に、すでにアブラハムが全焼のいけにえの儀式を行っていました。ヨブはアブラハムが行っていた全焼のいけにえをささげる儀式に見習って、アブラハムと同じように子どもたちのための全焼のいけにえを神に捧げていました。

他にも細かいことはありますが、以上の大まかな観点からヨブは出エジプト前のアブラハムの時代に近い年代の人物で、ヨブ記はその頃に書かれたものだと思われます。そして、ヨブ記の冒頭から、もう一つ大事なことが見えて来ます。ヨブ記はいきなり「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」というヨブの人物紹介から始まり、そして先ほどお話ししたように3章からヨブの愚痴が始まり、4章からヨブと三人の友との議論が始まり四人が神について延々と議論している最中に38章で突然神が嵐の中で現れてヨブに語り始めて、そして神の声を聞いたヨブは「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」と言って自分の信仰の誤りを認め、悔い改めました。つまり、ヨブは38章で生まれて初めて生きたヤハウェの神の言葉を、声を、直接自分の魂で聞いたのです。自分が今まで信じて礼拝して来たヤハウェの神が本物で、本当に生きた神であることを38章で神の声を聞いて身をもって体験したのです。ですからそれまでヨブが信じていたヤハウェの神は「人から聞いた神様」です。創世記2章のアダムから受け継がれて来た「原福音」のヤハウェの神です。
創世記12章にはアブラハムと神の出会いが書かれています。神はアブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられ、アブラハムは家族と甥のロトを連れてハランを出てカナンの地へと旅立って行きました。出エジプト記3章ではモーセと神の出会いが書かれています。神の山ホレブで燃え尽きることのない柴の火の炎の中から神は「モーセ、モーセ」と呼びかけました。アブラハムにしろ、モーセにしろ、あるいはヨセフのように「夢」という賜物によって、何らかの方法で神は語り掛けます。アブラハムもモーセも、まず、最初に神の言葉を聞いて、事を起こしました。二人の信仰の起源にはまずヤハウェの神との出会いがありました。ところがヨブに関してはヨブ記にはヨブと神との出会い、序論が何も書いてありません。いきなり「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と書かれおり、ヨブはいつ、どこで、ヤハウェの神の声を聞いて信じたのか? ヨブがヤハウェの神を信じるに至る背景が全く書かれていません。ヨブがいつヤハウェの神の声を聞いたのか? ヤハウェの神とどこで出会ったのか? 書いていない理由は、ヨブはまだ一度も神の声を聞いていないからです。本物の生きたヤハウェの神と直接出会っていないからです。しかし神の声を聞いてはいないけれども、どこかで「原福音」を聞いて、ヤハウェの神を信じたのです。そしてヨブに関して「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と書いてあります。創世記7章のノアの時代の大洪水で人類が粛清された後、人類は再び地上に増えて行きました。しかし地上に増えた人類は再びノアの時代のように堕落して悪を行い、神は天からその様子を見て心を痛めていました。神御自身が「(ヨブ以外の者で)悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と言ってヨブを褒めたのですから、当時の地上の人間世界がいかに堕落と悪で満ちていたかが分かります。神がノアの時代の洪水によって悪に満ちた人類を裁いたにも関わらず、再び人類は堕落して悪の世界を楽しんでいました。元の木阿弥です。そのような当時の人間世界にあって、ヨブという人物は悪から離れ、ヤハウェの神を心から敬い、礼拝を行って来ました。だから神はサタンに向かって「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と言ってヨブを褒めました。ヨブを自慢しました。では、ヨブはいつ、どこで、ヤハウェの神のことを聞き、信じたのでしょうか? その答えが「原福音」です。ここで「原福音」についてお話しします。

みなさんはヨブ記を読んで気が付いたでしょうか? ヨブ記には聖書の歴史を知る上でとても重要なことが書かれています。

ヨブ記31:33
31:33 あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。

ご覧の通り、ヨブは創世記3章のアダムの罪に言及しています。「アダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、」とは、創世記3章でアダムとエバが神が禁じた善悪の知識の木の実を取って食べてしまい、目が開かれて自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で裸を隠した事実です。創世記3章のエデンの園に於けるアダムとエバが罪に陥った事実を、ヨブは知っていました。ヨブはどこで創世記3章の事実を知ったのでしょうか? 答えは「ヨブの時代以前にすでに創世記1章、2章、3章の天地創造からアダムとエバの罪に至る記録が誰かによって記述、あるいは口承【(こうしょう、英: oral tradition)は、歌いついだり、語りついだりして、口から口へと伝えること、あるいは伝えられたもの。】 (Wikipedia) され、その記述が、口承が、後々の子孫によって代々受け継がれて来た」からです。つまり、聖書の創世記の冒頭の部分がすでに誰かの手によって整理され何らかの形で遺されて「聖書(トーラー・ヘブル語:תּוֹרָה‎、英語: Torah)」として確立されていました。では、創世記1章、2章、3章の記録は、誰が遺したのでしょうか? 答えは「アダム」です。アダムが自らの体験を記述、あるいは口承して後の子孫に遺して行きました。人類でアダムだけが神から「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と命令されました。人類でアダムとエバだけがエデンの園と蛇の存在を知っています。いのちの木と善悪の知識の木を直接見て知っています。人が罪に陥る前の世界と罪に陥った後の世界、祝福の世界から呪われた世界に変貌してしまったことを知っています。だって自ら罪を体験したのですから。もし、みなさんがアダムだったら、当然、エデンの園や自分たちの罪の体験を何らかの方法で記録して後の子孫のために遺しませんか? 私だったら絶対記録を遺します。
神はアダムとエバの前で二人を罪に陥れた蛇に仰せられました。

創世記3:15
3:15 わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。

神は「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。」と仰せられました。「おまえの子孫と女の子孫との間に」の「女の子孫」とは、アダムとエバが罪を犯してエデンの園から追い出されても人間は子孫繁栄して人類歴史が続いて行く、ということです。アダムとエバは自分たちが神の命令に背いて善悪の知識の木の実を取って食べてしまったのですから、自分たちはこれからどうなってしまうのだろうか? 人類はどうなってしまうのだろうか? そしてこれから体験する死への不安と恐怖で心は満ちていました。しかし神はアダムとエバを裁きませんでした。事の経緯を二人に問い質して二人を罪に陥れた蛇を御自身の敵とし、蛇を裁き、アダムとエバに対しては二人の前で生きた動物を殺して皮を剥いで衣を作り二人に着せました。神による裸の二人に皮の衣を着せた行為は二人の罪の赦しと同時に、将来二人の子孫から出て来る人類の救い主を暗示しています。二人は神が蛇に仰せられた「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。」という言葉と、神によって生きた動物の皮を剥いで作られた衣を着せられたことによって、来たるべき救い主による罪の赦しを受け取り、平安に満たされました。この時、二人は人間の愛ではなく「神の愛」に触れました。神の愛とは「自己犠牲の愛」です。罪を犯した相手を裁くのではなく、自らが相手の罪をすべて受け取り、それを以て自らを裁き、相手の罪を消し去ることです。神は御自身の御子イエス・キリストに人類の全ての罪を負わせ、十字架の上で人類の罪を裁きました。神はアダムとエバに怒っているのです。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言って命令したにも関わらず、蛇に騙されたとはいえ、現実に食べてしまい、しかも、素直に自分たちの非を認めず、神の前でお互い責任の擦り合いをしている二人に内心は怒り心頭なんです。しかし神は二人を怒らず、怒りの矛先を御子イエス・キリストに向けて十字架の上のキリストに御自身の怒りをぶつけたのです。だから、アダムとエバの罪も、後の人類の罪も、神の怒りも、イエス・キリストを信じる信仰によって贖われます。しかし、だからといって人類が死から免れるわけではありません。神は最初に「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とアダムに命じました。そして神の命令に背いて善悪の知識の木の実を食べてしまったのですから、当然、神の言葉通り人は死ぬ者となりました。二人の体はやがて死にます。しかし、魂は生き続けます。問題は、人が死んだ後の魂の行場所です。神の救いは魂の救いです。体の救いではありません。魂の救いのために、やがて死ぬべき私たちの体を神は用います。
アダムとエバは神の言葉に背いて罪を犯しました。悪を行いました。しかし、神は人の背きの罪を御自身が用意した贖いで赦しました。生きた動物の皮を剥いで作った衣を着せることによって二人の罪の赦しを、人類の罪からの救いを暗示しました。これが「原福音」です。イエス・キリストの十字架の血によって完成される福音の源流です。
新約聖書のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書は、五旬節で一同が聖霊に満たされた後に、四人の弟子たちがイエス・キリストと三年半弟子として一緒に生活した記録を聖霊に感化されながら神の価値観、神の感性、神の目線によって書かれた書物です。四人はイエスを裏切った当事者でありながら、裏切った当事者という立場から離れて客観的に自分たちとキリストの関係を文書として書き遺し、その文書が二千年の時を経た現代の私たちにまで受け継がれて来ました。そのように、アダムは人類に罪をもたらした当事者でありながら、張本人でありながら、客観的立場に自分たちを置いて自分たちの体験を何らかの形で遺し、その記録が文書によるものなのか、あるいは現代の私たちが礼拝で主の祈りや信仰告白するように口承で創世記1章、2章、3章を唱えながら遺したのか、どのような方法で遺されたかは分かりませんが、とにかく何らかの方法でアダムが記した記録が遺され受け継がれて来ました。アブラハムは父テラが死んだ後、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」というヤハウェの神の声を聞いて家族と甥のロトを連れてハランからカナンの地に旅立ちました。なぜ、天からの声がヤハウェの神の声だとアブラハムは認識出来たのでしょうか? それは、ヤハウェの神がアブラハムに語る前に、アブラハムがヤハウェの神の声を聞いて受け入れるための下地がアダムから受け継がれて来た聖書(トーラー)によってすでに出来上がっていたからです。アブラハムは当時の聖書(トーラー)の記録を聞きながら、あるいは読みながら、ヤハウェの神を信じていたのです。だからヤハウェの神の声を聞いた時、天からの声はアダムが遺した聖書にある本物のヤハウェの神の声だと認識して、ヤハウェの神の声に従ってカナンの地を出発しました。これは、モーセにも言えることです。アダムが記録として遺した聖書(トーラー)が創世記5章のアダムの系図の子孫、創世記10章のノアの息子、セム、ハム、ヤペテの系図の子孫によって脈々と受け継がれて来てカルデヤのウルをはじめその地方に広まっていった証です。誤解のないように申し上げますが、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はすべてモーセが書いたのではありません。創世記1章、2章、3章はモーセが書いたのではありません。創世記1章、2章、3章をはじめモーセ以前の歴史はすでにトーラーとして整理されていたものに、モーセが書いた(あるいは側近に書かせた)出エジプト記をはじめとした後の歴史を追加してモーセが編纂したものが、いわゆる「モーセ五書」となりました。よく創世記1章、2章、3章は誰が書いたのか? という議論がありますが、創世記1章、2章、3章はモーセが書いたのではありません。アダムによって記述、あるいは口承されたものが後の子孫によってノア、アブラハム、モーセへと受け継がれて来たのです。
そしてヨブは更に次のように言っています。

ヨブ記19:25
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

この言葉も創世記3章からの言葉です。「私を贖う方は生きておられ」とは、神の小羊イエス・キリストです。ヨブの罪を贖う救い主イエス・キリストがちりの上、すなわち天からこの地上の世界に来られることをヨブは信じていました。アダムとエバが罪に陥った後に、神は二人のために皮の衣を作り、二人に着せました。
 
創世記3:21
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

「皮の衣」とは「生きた動物の皮」です。神はアダムとエバの目の前で命ある生きもの(動物)を連れて来てそこで生きものを殺して血の滴る皮を剥いで二人に着せる衣を作り二人に着せました。アダムとエバは神が禁じた善悪の知識の木の実を取って食べてしまい目が開かれて自分たちが裸であることを知りいちじくの葉で腰の覆いを作り隠しました。なぜ、二人は自分たちの裸を隠したのでしょうか? 恥ずかしいからです。また、罪の呵責を感じたからです。二人はこの時初めて罪を体験し、罪を知り、神がなぜ善悪の知識の木から取って食べてはならないと仰せられたのかを体験的に知ることになりました。そのアダムとエバの目の前で神は生きものを殺して皮を剥いで衣を作り二人に着せました。先にお話ししたように、これが「原福音」です。アダムとエバによってもたらされた人類の罪を神が贖うことの予表です。事実、神の御子イエス・キリストは人類の罪を贖うために「ほふられた小羊」として、人間の世界に来られました。

ヨハネの福音書 1:29~30
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。

Ⅰコリント人への手紙 5:6~8
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

Ⅰペテロの手紙 1:18~20
1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
1:20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。

ヨハネの黙示録 7:9~17
7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して 、
7:12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った 。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った 。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません 。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

ヨハネの黙示録3章ではラオデキヤ教会に向けて次のように書かれています。

ヨハネの黙示録 3:14~19
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 
「裸の者であることを知らない。」「また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。」と書かれています。ここに書かれている「裸」とは、創世記3章に書かれている「アダムとエバの裸」を指します。罪に陥った人の姿を表しています。アダムとエバの罪以降、私たち人類はアダムとエバと同じ罪人です。裸の存在です。肉体の裸が恥ずかしいのと同じように霊的に恥ずかしい者です。アダムとエバは神から自分たちの罪を問われこれから自分たちはどうなってしまうのだろうか? 不安と恐怖を感じました。しかし神はアダムとエバのために、後の子孫のために、救いを用意しました。すなわち、神の小羊イエス・キリストによる人類の罪の贖いです。アダムとエバに着せた皮の衣はイエス・キリストによる罪の贖いの予表です。ですから神がアダムとエバの前で血を流しながら殺して皮を剥いだ生きもの、動物は、羊です。

ヨハネの黙示録3:5
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

キリストによる贖いの象徴である「白い衣」を着た人だけが、いのちの書に名が記され、キリスト御自身がその人の名を神と御使いの前で言い表して、永遠のいのちを受ける者の保証人となって下さいます。だから目を覚ましていなさいと警告しています。

ヨハネの黙示録16:15
16:15 ――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――

「わたしは盗人のように来る。」とは再臨です。キリストの再臨の時、ある人は取られ、ある人は残されます。白い衣を着た人は天に挙げられ、裸の人は地上に残されます。キリストの贖いを身にまとった人は神の国に挙げられ、罪の恥を晒している者は人間の世界に残されます。また、上巻(天地創造と現代に生きる私たち・上巻)でお話ししましたが、ヨブは宇宙について、天体について、正確に述べています。地球は宇宙空間に浮きながら自転して太陽の回りを公転していることを解き明かしています。ヨブは何を根拠として宇宙について、地球について、語ったのでしょうか? 答えは創世記1:14~19からです。

創世記1:14~19
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため。季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19夕があり、朝があった。第四日。

創世記1章14節から17節の事象から実際の太陽、月、地球、星々の位置、動きをシュミレーションしてその答えとして「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。神がしかると、天の柱は震い、恐れる。」(ヨブ記26:7~11)という答えを出しました。ヨブはコペルニクスやガリレオよりもはるか数千年前に、創世記の記録から宇宙と天体について解き明かしています。ヨブ記を読めば分かるように、ヨブという人物は相当な知恵のある人でした。博学な人でした。その知恵ある人が、博学な人が、アダムから受け継がれて来た聖書に触れてヤハウェの神を信じ礼拝していたのです。ですから、結論として、ヨブが生まれる以前にすでにアダムから受け継がれて来た創世記1章、2章、3章の「原福音」が聖書(トーラー)として確立されていました。創世記1章と2章の一部は直接神から啓示されたことをアダムは記録したのでしょう。
ユダヤ人はよく聖書を読み聖書を暗記して聖書を暗唱するそうです。まあ、創世記1章、2章、3章程度なら、日本人の私たちでもちょっと努力すれば丸暗記して暗唱出来ると思います。教会によっては礼拝で長い信仰告白文を暗唱するところもあります。イスラム教ではコーランを暗唱します。創価学会では毎朝御本尊の前で何妙法蓮華経を唱え信仰と加護を祈り求めます。そのように、私の勝手な想像ですが、アダムによってまとめられた創世記1章、2章、3章が「暗唱」という形で後の子孫に受け継がれ、それを後にモーセが文字としてトーラー全体をまとめたと思っています。「暗唱」は何も道具が必要ありません。ただ頭の中で繰り返しながら暗記すればよいのですから、ある意味で、一番合理的な情報媒体です。
アベルがカインによって殺された後に、アダムはもう一人の男の子セツを授かり、この頃から人々は「主の御名によって祈る」ことを始めました。創世記4:25~26に書かれています。

創世記 4:25~26
4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

「主の御名によって祈る」とは、具体的に何を祈ったのでしょうか?おそらく、アダムが記録した創世記1章、2章、3章の天地創造、エデンの園、自分たちが蛇に唆されて罪に陥る過程を暗唱しながら自分たち人間を創られた神を賛美し、来たる救い主を待ち望んだのではないかと思います。あくまでも私の勝手な想像です。どんな形にせよ、アダムによって遺された創世記1章、2章、3章の記録がヨブの時代まで受け継がれて来て、ヨブはその原福音をアブラハムの系図に属する誰かから伝え聞いて、その原福音を信じて、ヤハウェの神を礼拝していたのです。上巻でお話ししましたが、「文書資料説【J(ヤハウィスト資料)、E(エロヒスト資料)、D(申命記史家)、P(祭司資料)】」の根拠となっている祭司資料による「伝承」やヤハウィスト資料による伝承に書かれている「神話」は、いつ、だれが、作り書いたものなのでしょうか? メソポタミア時代の創世記1章、2章と類似した「神話」の発想は、何を根拠とした神話、空想、寓話なのでしょうか? 神話が生まれる「種」が必ずあるはずです。その種はどこから来たのでしょうか? 神話が書かれた背景が必ずあります。その答えが旧約聖書の創世記1章、2章です。アダムによって遺された創世記1章、2章の記録が創世記5章のアダムの子孫の系図に書かれている人々によって受け継がれて来ました。地上に人が増えて行けば行った先の地方で創世記1章、2章も語られ流布されて行きます。そうやって時を経てメソポタミア地方にも創世記1章、2章、さらには3章の記録が広まって行きました。やがてソポタミア地方に多くの人が住むようなり都市が出来て独自の神々が祀られ、そこからすでに広まっていた創世記1章、2章、3章を基にした神話や寓話、空想話が作られて行きました。創世記5章、10章に書かれている「系図」はアダムによって遺された原福音がこの系図の人々、民族によって流布されて世界に広がって行ったという「証」でもあるのです。
一般の日本人はほとんど知らないようですが、聖書の記事と古事記、日本書記、三種の神器など天皇に関するもの、また旧約時代の幕屋、神殿と日本の神社の造り、祭祀があまりにも酷似しているのはキリスト教界では衆知の事実です。だから日ユ同祖論まで研究されています。私は旧約時代の祭祀を担っていたレビ族の一部がシルクロードを経て来たのか、あるいははるばる航海して来たのか分かりませんが、日本の地に辿りついて住み着き旧約時代の祭祀を行っていたものが何千年という時を経ながら広まり今日の神社の形に変貌して来たと思っています。つまり、古事記、日本書記の神話のルーツ、種は、聖書にあるということです。これは、創世記の天地創造がそれぞれの民族によって流布されて世界に広まって行った証です。
文書資料説が根拠としているメソポタミア地方を発祥とするP資料、J資料に出て来る神話、寓話は、創世記1章、2章からヒントを得て作られた神話、寓話です。ですから、当然、P資料とJ資料の神話、寓話は、創世記1章、2章の記録と類似します。要するに、創世記1章、2章はP資料、J資料から作られたのはなく、P資料とJ資料が先に存在していた創世記1章、2章からヒントを得て作られた神話、寓話です。順番が逆です。すでに当時のメソポタミア地方に風説、風評、風聞として広まっていた創世記1章、2章の記録からヒントを得てメソポタミアで神々を崇拝する祭司たちが作り上げた神話、寓話がさらに別の形で記録として遺されました。それを現代の学者、研究者が後から探し出して来て創世記1章、2章の矛盾を解消するという辻褄合わせために構成して作り上げたものがいわゆる「文書資料説」です。ところがカトリック、プロテスタントの一部の牧師たちも文書資料説を支持しています。私は正直言って「文書資料説を支持している人たちって、本当に救われているのかな???」と思わされます。現実にヤハウェの神の存在を否定する人たちや聖書の事実を否定する人たちは文書資料説を根拠として「創世記1章2章はメソポタミア時代の神話、寓話、空想話から作られたのであって、ヤハウェの神なんて存在しませんよ。あれはユダヤ民族が勝手に作り上げた、でっち上げた、神話、寓話、おとぎ話です」と主張します。これはとても大事な問題なので、(死んだ後神の国に入れるか入れないかの問題なので)いずれ、どこかできっちり書きたいと思っています。
創世記1章、2章は文書資料説のP資料、J資料から作られたのではありません。P資料、J資料が後から創世記1章、2章を真似て作られた神話、寓話、おとぎ話です。順番が逆です。上巻で書いたように、文書資料説は端から「創世記1章と2章の記述は矛盾している」という前提で、その矛盾を整合するために生まれた仮説です。あくまでも「仮説」なんです。ただメソポタミア地方から出て来た資料と創世記の記事の内容や文法が類似しているので、「だから創世記1章、2章はP資料、J資料を元に後から書かれた記録である」と勝手に結論付けているだけの話です。実際に原文が存在しているわけではありません。それに対して私は上巻で「創世記1章、2章はこちらの視点で読んで解釈すれば矛盾の無い一貫した合理性のある文書ですよ」と言っているのです。解釈の前提となる入口、視点が違って来れば、それに通ずる解釈の出口、結果も違って来ます。

さて、ヨブはアダムの系図の子孫によって流布された「原福音」を聞いて受け入れ、信じてヤハウェの神を礼拝して来ました。その様子がヨブ記1:1〜5に書かれています。

ヨブ記 1:1~5
1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。
1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。
1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

ヨブは妻と七人の息子と三人の娘に囲まれた大家族でした。当時の大家族は子孫繁栄という神から祝福された証の一つです。そして多くの羊、らくだ、牛、雌ろばを所有し、当然、これらの家畜の世話をする人が必要ですから、非常に多くのしもべを持ち東の人々の中で一番の富豪でした。息子七人と娘三人は非常に仲が良く、お互い行き来しながら集まっては祝宴を開いていました。兄弟の仲が良いのは神を畏れ神を礼拝して来たヨブの教育による賜物です。そして祝宴の日が一巡するとヨブは息子娘を集めて彼らの罪のために聖別し、全焼のいけにえを捧げることを常としていました。まるで絵に描いたような幸せに満ちた理想の家族でした。そしてヨブ記1:7〜12で天上でのヨブを巡る神とサタンの会話が出て来ます。

ヨブ記 1:6~12
1:6 ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
1:7 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
1:8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
1:9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
1:12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。

ある日、神の前に神の子(御使いたち)が集まる集会に、サタンが交じっていました。御使いは光輝いていますが、サタンは光を失った闇の存在です。ですからサタンは神の国では異質な存在として目立ち、すぐにサタンだと分かります。神は周りを見渡し、本来、この集まりに居ないはずのサタンが目に入ったので、サタンに言いました。

「おまえはどこから来たのか。」

サタンは答えました。

「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

神はさらに言われました。

【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

サタンが行き巡って来た「地」とは、私たち人間が存在している世界です。「創世記1:1 初めに、神が天と地を創造した。」の「地」です。地はアダムの罪によって呪われ、再びサタンの住処となり、サタンが自由に行き巡り、人類の上に君臨していました。サタンの価値観、感性に感化された人々の思いは神から離れ、罪の世界を楽しんでいました。しかし罪の世界に在ってヨブだけは神を畏れ神を礼拝して悪から離れていました。だから神はサタンに「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と言ってヨブを褒め讃えました。サタンは何とかヨブを不幸に陥れようと考えていましたが、神の霊(垣)によってヨブのすべてが守られているのでサタンは手出しが出来ません。サタンは神の霊を超えることが出来ないのです。そしてサタンは神に言いました。

「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

ここでサタンは神に向かってヨブの信仰に疑いをかけて来ました。言葉を言い換えれば、サタンは「神様、ヨブはあなたが幸せな家庭と多くの財産を与えているからあなたを畏れ礼拝をしているのです。あなたが与える幸せと財産を目当てにあなたを畏れ礼拝しているのです。もし、あなたが彼を打って彼の家族、財産を取り彼に不幸を与えたなら、彼は必ずあなたを呪って信仰を捨てるに決まっています。彼の礼拝の目的はあなたから幸せと財産を貰うことなのですから」と言ってヨブの信仰に疑いをかけて来たのです。そして、その前に「ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。」と書いてありますから、周りに集まっている神の子たちもこの神とサタンの会話を聞きながら事の成り行きを見守っています。ですから神はサタンにいい加減な対応は出来ません。神はサタンと神の子らの前でヨブの信仰を褒めてヨブを自慢したのですから、サタンに対して、そして神の子らに対しても、ヨブの信仰の真実を証明してサタンのヨブに対する疑いを晴らさなければなりません。事は御自身の言葉の真実性が問われています。神の面子、沽券に関わることです。だから、神はサタンの要求に応えて、敢えてヨブをサタンに任せました。サタンは実に悪賢いです。あざといです。サタンはわざわざ神の子らの居る前で神に挑戦して来ました。神からすれば、神の子らの居る前ですからサタンの挑戦から逃げるわけには行きません。サタンの策略だと分かっていてもそれに乗らないわけにはいきません。サタンは自分が仕掛けた挑戦に神が逃げられないように、わざわざ神の子らが集まっているところに来て神に挑戦して来ました。そして大事なことは、これらの天上に於ける神とサタンの会話、やりとり、事の成り行きについてヨブには一切知らされていないことです。ヨブは天上で自分について何が話されて何が成されているかなど何も分かりません。よもや自分の運命が神とサタンによって取り引きされているなどと考えることも出来ません。全くヨブの与り知らぬところで、これから始まるヨブの筆舌に尽くし難い苦難の人生が決められました。ただし、神は「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」後には「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」と言って「ここまでは良い。しかしこれ以上はダメだ」という一線を引きました。神との取り引きにまんまと成功したサタンは早速ヨブのもとへと主の前から出て行きました。

次回に続く

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会」から引用しています。

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2018年10月16日