ダビデの罪       

日本基督道場
2017年4月10日(金)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright©2014
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ダビデの罪
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▼権力によって行われたダビデの悪行▼
ダビデは神から与えられた王様の権力を用いて悪を犯しました。Ⅱサムエル記11章に記されています。

Ⅱサムエル記11:1~27
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。
11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。──その女は月のものの汚れをきよめていた──それから女は自分の家へ帰った。
11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」
11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。
11:7 ウリヤが彼のところに入って来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。
11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。
11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。
11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」
11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。
11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。
11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。
11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。
11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。
11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、
11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、
11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。
11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」
11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。
11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。
11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」
11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」
11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。
11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。

▼命懸けの戦いの中で突然色恋の記事が・・・▼
この11章の記事は、10章からの続きです。10章では、ダビデ王率いるイスラエル軍とアモン人との戦いが記されています。Ⅱサムエル記10:17~18にはダビデがヨルダン川を渡ってへラムの地でアラムと直接戦って勝利したことが記されています。そして11章の冒頭で、年が改まり王たちが出陣するころ、ダビデはヨアブと自分の家来たちとイスラエル軍の全軍を戦いに出してイスラエル軍がアモン人を滅ぼしラバを包囲しました。ここまで来れば、もうイスラエル軍が勝つに決まっています。後は、最後の砦をどう攻略するかです。ところが、そこに肝心な王様ダビデがいませんでした。今までの戦いで、ダビデは常に神にどう戦うべきかを聞きながら軍隊を率いて自ら戦場に出陣して指示を出していました。ところが、今回の戦いではダビデは出陣しないでエルサレムにとどまっていました。なぜ、ダビデは今回の戦いに出陣しなかったのでしょうか?。もし、ダビデ王自身が全軍率いて出陣していたならば、11章の記事はありませんでした。もう一度言います。もし、ダビデ王自らが全軍率いて出陣していたならば、11章の記事はありませんでした。しかしダビデがエルサレムにとどまってしまったために、戦場に行かなかったために、戦の中で突然11章の色恋の記事が出て来て、ダビデの信仰があらぬ方向に外れて行きます。ダビデが自らエルサレムから出陣していれば、ダビデが王宮の屋上から美しいバテ・シェバの裸を見ることは無かったのです。ところが出陣しないでエルサレムにとどまってしまったために、ダビデはバテ・シェバの美しい裸を見ることになり、とんでもない悪行をすることになりました。私が何を言いたのか、お分かり頂けますか?。11章の最後に次のように記されています。

Ⅱサムエル記11:27
11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。

「しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。」

つまり、11章はダビデの「主のみこころをそこなう行い」が記録された記事です。ですからダビデが主の御心に叶ってエルサレムを出陣していれば、11章の記事は存在しませんでした。

▼ダビデとバテ・シェバの出会いをプロデュースする者▼
11章のバテ・シェバ問題の本質は、ダビデがバテ・シェバと寝て孕ませて夫のウリヤを戦場に送って殺したことではありません。ダビデが出陣しなかったことに、問題の本質があります。本来、ダビデは王様として、出陣しなければいけなかったのです。ところがその理由は直接的には書いてありませんが、ダビデは出陣しないでエルサレムにとどまってしまいました。バテ・シェバと寝て孕ませて夫のウリヤを殺したことはダビデが戦いに出陣しないでエルサレムにとどまってしまったことの結果として後から付いて来た問題です。つまり、ダビデにとって全軍を率いて最後の戦いに自ら出陣することが神への信仰であり、エルサレムにとどまったことは神への不信仰の結果です。もしエルサレムから出陣していれば、王宮の屋上から美しいバテ・シェバの裸を見て情欲を掻き立てられることはありませんでした。また、バテ・シェバにすれば、夫のウリヤが戦に出て行ったのですから、当然、王様ダビデもイスラエル軍を率いて出陣しているはずで、まさか王宮に王様がいるなんて思ってもいませんでした。ところが王様は王宮で昼寝をしていました。屋上から自分の裸を見ていました。ダビデとバテ・シェバの出会いは「偶然」ではありません。ダビデの不信仰によってもたらされた「必然」なのです。
アダムとエバの出会いは神がエバを造りエバをアダムのもとに連れて来たからと聖書に書いてあります。アダムとエバの出会いは神がプロデュースしたものです。そのように、ダビデとバテ・シェバの出会いは、信仰の道から外れたダビデをサタンがバテ・シェバのところに連れて来た結果です。そしてそこから新しい命が誕生しましたが、神はそれを良しとせず許さなかったので、新しい命が生きることはありませんでした。私たち人間の世界における人と人の出会いに「偶然」はありません。すべて神による導きか、サタンによる導きです。

▼すべての出会いは必然です▼
ヨセフは父ヤコブの異母兄弟として11人兄弟の末っ子として生まれ、兄たちとの確執で殺されそうになり、さらにイシュマエル人に売られてエジプトに連れて行かれ、その先で買われた主人の奥さんの機嫌を損ねて冤罪を着せられて囚人となり、最悪の道を歩いていました。しかし彼は常に神を信じていました。真直に神を信じていたからこそ、冤罪を着せられました。やがて生まれ持っていた「夢の解き明かし」という賜物によってエジプトの王パロと面会することになり、さらにパロから厚い信任を受けてエジプトを飢饉から救いました。ヨセフの生涯における人々との出会いには「神の導き」があります。「神の支配」があります。
私たち人間は自分がどこの国に生まれて来るか選択することが出来ません。生まれる前に両親を選ぶことが出来ません。ですから当然、両親が持つ遺伝子によって形造られる自分の顔や容姿や体質を他に選ぶことが出来ません。気に入りようと気に入らないようと、両親の顔や容姿や体質に似ることは私たち人間の生まれつきの宿命です。どの国のどの両親のもとに生まれて、どのような顔や容姿や体質を受け継いで、どのような家庭で育ち、どのような人生を歩むかは、すべて「出たとこ勝負」なのです。ヨセフは好き好んでヤコブと後妻の子として生まれて来たわけではありません。生まれて来たら母親は父親の後妻で、父親には溺愛されながらも兄たちには妬まれ「夢の解き明かし」でバカにされ喧嘩ばかりしていました。人間的に見ればヨセフにとって決して良い家庭環境とは言えません。挙句に殺されそうになり、奴隷として売られ冤罪まで着せられて囚人となり、もしここで人生が終わったら最悪の人生です。しかし、もしこのような家庭環境がなければ、ヨセフがエジプトの王と出会うことはありませんでした。また、やがてエジプトに飢饉が襲うというこのタイミングでなければ、ヨセフの夢の解き明かしという賜物が必要とされることはありませんでした。
両親との出会い、学校での友達との出会い、職場の同僚や上司との出会い、自分にとって良い出会い、悪い出会い、すべての出会いは神のみ手の中にあり、神の時があります。「偶然の出会い」はありません。
イエス・キリストの生涯は「御霊に導かれる生涯」でした。神の御心、神の目的を達成するために御霊がイエスを引っ張って行き、イエスはそれに従ってついて行きました。ですからイエスが出会ったすべての人々は御霊の導きによる出会いであり、それが「御霊の導き」です。聖書に記されているイエス・キリストと人々との出会いは「御霊が引き合わせた出会い」です。「御霊がプロデュースした出会い」です。荒野で悪魔の試みを受けることも御霊の導きでした。あらゆる病を癒し、悪霊を追い出し、死人をも蘇らせ、湖の上を歩いて、大勢の人々の空腹を満たして、これらすべての奇跡としるしは御霊の導きによるものでした。逆に、御霊の導きがなければ、キリストは何も出来ません。イエス・キリストの生涯に偶然はありません。馬小屋の誕生した時から十字架上で死ぬまで徹頭徹尾御霊に導かれながら神の意思、神の思いを人の目に見える形で具現化されました。そして御霊の導きの先に何が待っているかをご存知でした。だからいく度も「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」と自分の生涯を明示されました。人の生涯は神に導かれるかサタンに導かれるかのどちらかに分かれます。
ダビデは出陣しないでエルサレムにとどまってしまったためにバテ・シェバの裸を見てしまい、一夜を過ごして孕ませ、さらに自分の悪を隠すために夫のウリヤを殺すことになりました。この一連の流れはダビデの不信仰がもたらした「必然の結果」です。聖書に直接的には書いてありませんが、ダビデは不信仰のゆえにサタンに導かれた結果、バテ・シェバの裸を見ることになり、さらに、神が言われた通り後の代までに色々な事件が起こり、兄弟の分裂を引き起こしました。出陣しなかったことが信仰と不信仰の分岐点となり、後の事件はすべてダビデの不信仰がもたらした必然の結果です。ダビデとバテ・シェバの出会いは「偶然」ではありません。ダビデの不信仰によってもたらされた「必然」なのです。では、何が、ダビデの不信仰をもたらしたのでしょうか?。

Ⅱサムエル記11:1
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

「しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」

なんで「しかし」という接続詞がついているのでしょうか?「しかし」は何を意味するのでしょうか?。

▼ダビデの慢心▼
なぜ、ダビデは出陣しないでエルサレムにとどまってしまったのでしょうか?その答えが11章2節に記されています。

11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

誤解の無いよう申し上げますが、ダビデはバテ・シェバの問題が起こったからエルサレムにとどまっていたのではありません。エルサレムにとどまってしまったためにバテ・シェバ問題が起こったのです。順番を間違いないようにして下さい。
11章2節に「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、」と記されています。「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、」とは、ダビデが昼寝から目が覚めて起きた時です。自分の家来が命懸けで戦っている時に、王様は昼寝をしていたのです。ようするに、ダビデはすっかり気が緩んでしまったのです。タガが緩んでしまったのです。緊張感を失ってしまったのです。数々の戦の疲れもあり、またサウル王が亡くなってサウル王の追及から解放された安堵感に浸りながら、察するにこんな感じで出陣しないでエルサレムの王宮で休んでいたのでしょう。

「今回の戦いもきつかったせいか俺も疲れたな。こここらで少し体を休めることにするか。まあ、今まで数々の戦いを勝って来たのだから、次の戦も俺が行かなくても勝つに決まっているさ。なにしろ俺には万軍の主が共におられるのだから。アモン人を滅ぼしてラバを包囲したのだから、もう負けるはずがない。なにしろ俺には万軍の主が共におられるのだから。あとはヨアブたちに任せて、俺は休むことにしよう。」と。
ダビデはすっかり気が緩み、「慢心」したのです。「過信」したのです。信仰と過信は似て非なるものです。信仰は安心をもたらしますが、過信は罪をもたらします。
モーセが亡くなった後に、神はヨシュアに次のように告げられました。

▼神の約束の地▼
ヨシュア記1:1~4
1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

神は「このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」と言われましたから、イスラエルの民はすべてヨルダン川を渡って神が約束された土地をイスラエルの領土とすることが神の祝福であり約束です。ですから、当然、イスラエル民族の王であるダビデも一緒にヨルダン川を渡って約束の地に入ってイスラエルの王として神が約束された領土を受け取らなければなりません。また、それは後に詩篇でダビデ自身が謳っていますから、当然、ダビデも自分が王としてヨルダン川を渡りイスラエルの代表として神の祝福を受けなければならないことは分っていました。神がダビデをイスラエルの王として立てたのですから、まず、ダビデ王が神の祝福を受けなければ、イスラエル民族全員が祝福を受けることが出来ません。ですからダビデ王のもとにイスラエル民族全員がヨルダン川を渡ることが、神の約束の成就の一つの節目です。Ⅱサムエル記10章に記されているように、イスラエル軍はアモン人と戦うためにヨルダン川を渡ってヨアブが指揮を取って戦いの陣を備え、兵士たちがアモン人から雇われたアラムの兵士と戦おうと近づいたとき、アラムの兵士は逃げてしまい、それを見ていたアモン人も町に逃げ帰りました。そこでヨアブ率いる軍隊は一旦エルサレムに帰り、年が明けてダビデはイスラエルの全軍を出して再びヨルダン川を渡ってアモン人に戦いを挑み、イスラエル軍はアモン人を滅ぼしラバを包囲しました。ここまで来ればもうイスラエル軍がアモンを制圧することは目に見えています。モーセが民の不信仰のために入ることさえ出来なかった約束の地に、ダビデはイスラエルの領土として支配するところにもう片手を掛けるところまで来ていました。にもかかわらず、そこに肝心の王様ダビデは居ませんでした。ダビデは王様自ら出陣することなくエルサレムにとどまっていました。ダビデが出陣しないでエルサレムにとどまってしまったのは、ダビデの慢心の結果です。ダビデは神に対して付け上がりました。思い上がりました。いい気になりました。図に乗りました。調子に乗りました。

「大丈夫だよ。今まで万軍の主によって守られ数々の戦に勝利を収めて来たのだから、今回のアモンとの戦いも、俺が戦地に行かなくても勝つに決まっているさ。なにしろ俺には万軍の主が共におられるのだから。後は家来に任せて、俺は体を休めよう。」

果たしてこれは信仰なのでしょうか?慢心なのでしょうか?。後のダビデが犯した悪を見れば、これは「慢心」なのです。慢心は高慢をもたらし悪の実を結びます。同様に、サタンも慢心のゆえに高慢になり、神から離れて行きました。ダビデはサタンの思いに感化されました。そしてダビデは慢心のゆえに、神に従う者から神を利用するものに変わりました。神から与えられた王様の権力を利用してバテ・シェバと寝て、神から与えられた王様の権力を利用してウリヤを戦死させました。
バテ・シェバの問題から学びたいと思います。

▼善悪の知識の木の実を食べた王様ダビデ▼
Ⅱサムエル記11:1~27
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。
11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。──その女は月のものの汚れをきよめていた──それから女は自分の家へ帰った。
11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」
11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。
11:7 ウリヤが彼のところに入って来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。
11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。
11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。
11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」
11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。
11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。
11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。
11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。
11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。
11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、
11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、
11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。
11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」
11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。
11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。
11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」
11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」
11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。
11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。

「ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。」と記されていますから、自分の家来とイスラエルの兵士たち全員が王宮から出はらってしまい、王宮は閑散としていました。そのような状況の中で、昼寝から目が覚めたダビデは王宮の屋上に上がって歩いていました。そして屋上を歩いていたとき、ある光景が目に入って来ました。一人の女が体を洗っている姿です。しかも、非常に美しい女です。下衆な、下衆な私が想像するにはこんな感じでしょうか。

アァ~~~(←ダビデのあくび)よく寝た。ちょっくら屋上に出て新鮮な空気でも吸ってくるかぁ~

トコトコトコトコ・・・・(←ダビデが屋上を歩いている音)

ん?なんだあれは?・・・女が体を洗ってるよ!!!
いい女だな~~

(興奮が最高潮に達して)
あの女と寝たいな

(人を呼んで女について調べたら)
なんだ、夫がいるのか。しかも、ヘテ人ウリヤって、俺の配下の兵士じゃないか。ん~~~~(←頭の中はバテ・シェバを自分のものにしたいという思いで支配され、なんとかならないか思案している)

よし、あの女を俺のところに連れてこい(←自分が神から選ばれた王様という立場をすっかり忘れ、もはや神様のことやイスラエル軍がアモン人と戦っていること、女の夫が自分のために戦っていることなど眼中にありません)

そしてダビデは女を召しいれて女と一夜を過ごしました。女は月のものの汚れをきよめていたのですから、排卵で妊娠し易い期間であり、そのことはダビデに告げられていたはずです。しかしそんなことはお構いなしです。ダビデはもう自分の魂から湧き出てくる欲望を抑えることが出来ません。そして、ほどなく女は子を宿し、ダビデに報告されました。
さあ、大変です。ダビデは困りました。王様が、部下の兵士が戦場で命懸けで戦っている最中に、その兵士の奥さんを寝取って孕ませてしまったのですから。国民に知れたら大スキャンダルです。王の権威は失墜し、命を失うかもしれません。なんとしてもバテ・シェバの妊娠を隠さなければなりません。そこでダビデは考えた末に一計を企て、バテ・シェバの夫ウリヤを戦場から呼び寄せ酒を飲ませて美味しいもの食わせて豪華なお土産まで持たせてなんとかウリヤとバテ・シェバ夫婦が一夜を過ごして子どもが出来たように装いすべてはメデタシメデタシとなるよう仕向けます。しかし皮肉にもウリヤの人一倍強い主人への忠誠心がダビデの計画を邪魔します。もう後がなくなったダビデは最後の手段としてウリヤを無き者とすることを企て、ヨアブに手紙を書きウリヤに持たせました。手紙にはこう書いてありました。

「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

凄いですね、ダビデという人は。これが神から選ばれた王様の正体です。ダビデにとって最早ウリヤは邪魔でしかない存在です。虫けらも同然です。ダビデはもう自分が何をしているのか分かりません。完全に自分を見失ってしまいました。何も知らないウリヤは

エッサエッサエッサエッサ
これは王様から預かった大事な手紙だ。命を懸けて絶対ご主人様のところに届けるぞ!
エッサエッサエッサエッサ

と言いながらヨアブのもとに走っていったのでしょう。無事にウリヤによってヨアブに手紙が届けられ、手紙を読んだヨアブは何を思ったでしょうか?。手紙の内容から、当然、「ウリヤを殺せ」ということを察知したはずです。しかし、なぜ、王様がウリヤを殺さなければならないのか、ヨアブは知る由もありません。王様の命令に口を挟むことなど出来ないヨアブは、敵の強い者が揃っている激戦の地にウリヤを出して、そこでウリヤを戦死させました。事はすべてダビデが願った通りに運び、やがてウリヤは戦死したことがダビデに報告されました。

Ⅱサムエル記11:18~27
11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、
11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、
11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。
11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」
11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。
11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。
11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」
11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」
11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。
11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。

▼ウリヤを殺すための戦い▼
ヨアブはダビデの命令通りにウリヤを激戦の地に出してウリヤが戦死するように工作し、ウリヤは戦死しました。通常なら自軍の兵士の犠牲を最小限に抑えながら敵に勝つ戦法をとることが戦の基本です。しかしこの戦いは「敵に勝つこと」ではなく「ウリヤを殺すこと」が目的の戦いです。ですからヨアブは強引な戦法をとり、結果として、イスラエル軍にも犠牲者が出ました。つまり、ウリヤを戦死させるために、本来必要の無いイスラエル軍の兵士までも犠牲になりました。しかし今のダビデにとってそんなことはどうでもよいことです。とにかくウリヤが死ねばよいのですから。そして、使者によってダビデに戦いの結果が報告され、その中でウリヤが戦死したことも告げられました。ヨアブが

「『エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」

と言ったように、普段なら、イスラエル軍の兵士が無駄に戦死したのですから、士師記に記されている過去の事例、教訓から学んでいないヨアブが指揮した強引な戦法をダビデは叱責したはずです。しかし戦死したイスラエル軍の中にウリヤも混じっていたので、ダビデはヨアブを叱責するどころか、逆に擁護して使者を送ってヨアブを励ましました。
さて、改めて考えると、ダビデという人物は凄いと思いませんか?みなさん。これが本当の「二重人格」です。神とサタンの間を行ったり来たりしています。ダビデはエデンの園の蛇のように狡猾な計画をしてウリヤを殺しました。エバにとって善悪の知識の木の実がまことに食べるのに良く、目に慕わしく映ったように、ダビデにとってバテ・シェバの美しい裸がまことに食べるのに良く、目に慕わしく映ったので、ダビデは悪の実を取り、食べました。そして目が開かれて自分たちの裸を隠すためにアダムとエバが知恵を働かせていちじくの葉を細工して裸を隠したように、ダビデも自分が行った悪を隠すために狡猾な知恵を働かせてウリヤを殺しました。ダビデが自分の悪を隠すための知恵はアダムとエバが自分たちが行った悪を隠すために働かせた知恵によってもたらされたものです。アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたのは、神の命令に反してサタンの偽りの言葉に乗ってしまったからです。そしてその後の神から身を隠して自分たちが行った悪を隠す行為は偶然ではなく必然の行為です。一度サタンの罠にはまったらアリ地獄のようにもがけばもがくほど砂の底に吸い込まれ行きます。ダビデは自分が行った悪を隠すために神から与えられた権力によって次から次へと知恵を働かせて目的を達成しました。そして、ダビデに狡猾な知恵を与えたのは、サタンです。ユダの思考にサタンが入ってイエスを銀貨30枚で売ったように、ダビデの思考にサタンが入ってウリヤを殺す知恵を与えました。純朴な羊飼いで凛々しい少年だったダビデが、このような悪を犯す王様に変貌しました。
人間の魂は神の領域かサタンの領域か、どちらかに居ます。神の領域から外れたら、サタンの領域に居ることになります。ヨブのように神の垣根によって守られている世界から外れたら、サタンの世界に放り出されサタンの奴隷となりサタンに言いなりになります。ヤコブの手紙に次の記述があります。

▼罪の原理▼
ヤコブの手紙1:13~15
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

誰が、ダビデを誘惑したのでしょうか?
誰が、ダビデの心に悪い欲を起こしてダビデを引いていったのでしょうか?
誰が、ダビデを悪の道におびき出したのでしょうか?
答えは「サタン」です。
サタンはダビデの不信仰の隙間に入って来ました。ダビデの慢心な心に入って来ました。そしてバテ・シェバの美しい裸で誘惑し、バテ・シェバと寝たいという欲を起こさせ、ダビデを悪の道へと誘いました。こうなってしまえばもうダビデはサタンの奴隷です。自分の魂から湧き出て来る欲望を抑えることが出来ません。やがて、臨月を迎えた妊婦のように、罪が生まれて来ます。新しい命は母の胎にいる時はその形さえも見ることは出来ません。そのように、サタンに誘惑された「人の欲望」は目に見えません。触ることも出来ません。しかし、「悪」という形で具体的に人の目に見える形で現れて来ます。バテ・シェバがダビデの子を宿し、ダビデがウリヤを殺したように。そして、最後は「死」を迎えます。「破滅」を迎えます。
死体は何をしても反応しません。殴っても、蹴とばしても、ガンガン叩いても。だって死んでいるのですから。そのように、神に対して死にます。神の言葉に対して全く反応しません。人は神の言葉によって生きます。世の人々、闇の子たちは霊的に死んでいるので神の言葉に反応しません。神が怒鳴っても、叩いても、蹴とばしても、反応しません。だって、死んでいるのですから。ですから神は「良心の呵責」によって罪の警告をします。人は何か悪い事をしようとすると、心に咎めを感じます。心臓がドキドキします。心に咎めを感じるのは、心臓がドキドキするのは、神のアラームです。しかし頭では悪いことと分かっていながら、自分の欲望を抑えることが出来ずに悪の道に踏み込んで行きます。たとえ悪いことをしなくても、世の人々はサタンに誘われて自分の欲望のままに人生を過ごします。法律を守って、他人に迷惑を掛けないで、自分の思い、願望、欲望を達成することが、幸せな人生だと信じています。サタンの価値観、サタンの感性に感じながら生きています。神の言葉に死んで、サタンの言葉に生きています。
慢心のゆえに、過信のゆえに、アブラハムの時から約束された先祖伝来の神の約束を忘れてエルサレムの王宮で休んでしまったダビデはサタンが仕掛けた罠にはまり、神の善に対極する悪を行いました。そして、神から使わされたナタンのたとえ話によって正気に戻り、ようやく自分がとんでもない悪を犯した事に気が付きます。

▼他人は見えるが自分が見えないダビデ▼
Ⅱサムエル記12:1~31
12:1 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。
12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、
12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。
12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」
12:5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
12:6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。
12:8 さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
12:9 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
12:10 今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』
12:11 主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
12:12 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。
主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない」と彼らが思ったからである。
12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮に入り、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。
12:21 すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」
12:22 ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。
12:23 しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
12:24 ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、
12:25 預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。
12:26 さて、ヨアブはアモン人のラバと戦い、この王の町を攻め取った。
12:27 ヨアブはダビデに使者を送って言った。「私はラバと戦って、水の町を攻め取りました。
12:28 しかし今、民の残りの者たちを集めて、この町に対して陣を敷き、あなたがこれを攻め取ってください。私がこの町を取り、この町に私の名がつけられるといけませんから。」
12:29 そこでダビデは民のすべてを集めて、ラバに進んで行き、これと戦って、攻め取った。
12:30 彼は彼らの王の冠をその頭から取った。その重さは金一タラントで、宝石がはめ込まれていた。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持ってきた。
12:31 彼はその町の人々を連れてきて、石のこぎりや、鉄のつるはし、鉄の斧を使う仕事につかせ、れんが作りの仕事をさせた。ダビデはアモン人のすべての町々に対して、このようにした。こうして、ダビデと民のすべてはエルサレムに帰った。

面白いですね。1節から7節のたとえ話でナタンはダビデの正義感を引き出しながらダビデの義憤によって「その男は死刑だ!」とまで言わせて、最後に「それ、オメエのことだよ」と言ってダビデを突き落としました。ダビデは金槌で頭を殴られたほどの衝撃を受けたことでしょう。王様の面子丸潰れです。何よりも、「神は私が行った悪を全部見ていた」という事実の前に、地にひれ伏すしかありませんでした。詩篇51篇にダビデの悔い改めが謳われています。
「人のふり見て我がふり直せ」とはこの事ですね。
人間、他人の悪は分かるのです。ところが自分の悪はまったく分かりません。人の悪はよく見えます。ところが自分の悪となると盲目になります。だから人の悪を見て「こいつ、悪い野郎だ!」と人の悪を責めます。これが「自己中心」です。自分の価値観、自分の感性でしか周りを見ることが出来ないから、自分が見えません。神の価値観、神の感性で自分が行っていることを見ることが出来ません。ナタンのたとえ話からダビデは善と悪の理屈は分かっています。しかし、自分が分かっていません。自己中心に生きているから自分が何をしているのかが分かりません。イエス・キリストは十字架の上で最後に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われました。キリストを十字架にかけた祭司、律法学者たちはみんな自己中心に生きているから自分が何をしているのか分かりません。自分たちが処刑した十字架の上で苦しんでいる人が誰なのか分かりません。自分たちの救い主であるキリストを自ら殺していることが分かりません。
ダビデはナタンに「あなたがその男です。」と宣告されて我に返り、自分が神の前にとんでもない悪を犯したことを自覚しました。
「灯台下暗し」という諺(ことわざ)があります。
「灯台下暗し」とは「灯台の真下が暗いように、身近なことがかえって気づきにくいことのたとえ」(大辞林 第三版より)です。ここでは身近どころか自分自身ですから、ますます見えません。
人間を灯台にたとえるなら、灯台の光は周りを照らすから周りの状況はよく見えます。だから周りの悪を見て周りを批判します。ところが灯台は灯台自身を照らすことが出来ません。周りは照らすことが出来ても自分を照らすことが出来ません。だから自分の悪が見えません。他人ばかり見て自分を見ようとしませんから、自分も暗闇の中に在ることが分かりません。自分が何をしているのか分かりません。周りを照らして「あいつが悪い、こいつが悪い」と周りを責めて、自分を見ようとしません。いや、自分を見ることが出来ないのです。自分自身を照らすことが出来るのは、神の光だけです。だから、聖書はイエス・キリストを指して「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」と書いています。
冷静に考えてみれば、ダビデは自分が行っている悪は人にはバレなくても神にはバレると思わなかったのでしょうか?神は全知全能ですべてをご覧になっているのだから、当然、自分がこれから行おうとしている悪の行状を見ていると自覚することが出来なかったのでしょうか?。
みなさんが街を歩いていて道端に財布が落ちていたので拾ったら財布の中に十万円が入っていました。周りを見渡したら人は誰も居ません。みなさんどうしますか?拾った財布を交番に届けますか?それとも「ラッキー!やったね。この十万円で欲しかったゲーム器が買える。」と言って財布を自分のポケットにしまいますか?。神を信じるクリスチャンだったら、十人中十人が、交番に届けるのではないでしょうか?(多分)。それは、誰も見ていなくても「神が見ている」という畏れがあるからです。仮に自分のポケットに入れても、その後良心の呵責で悩むことを知っているからです。してみると、ダビデはなぜこれほどまでの非情な悪を犯したのでしょうか?人には隠せても神には隠せないことが分からなかったのでしょうか?いいえ、頭では分かっています。しかし、心がついて行きません。「わかっちゃいるけどやめられない」っていうやつです。

▼ダビデの中のエデンの園▼
ダビデが悪の道に外れたのは、ダビデの信仰の気が緩んで慢心して心の隙間にサタン入って来たからです。イエスを売ったユダの「思い」の中にサタンが入って来たように、ダビデの「思い」の中にサタンが入って来たからです。後で詳しく書きますが、旧約の歴史の背後には常に神とサタンの駆け引きがあります。ローマ人への手紙でパウロが書いているように、人の心の中には「善(神の思い)」と「悪(サタンの思い)」が宿り、常に善と悪が戦っています。だからパウロは「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」と言って自分を嘆いています。
ダビデはすっかり神のこと、神が与えた律法など忘れてしまいました。いや、忘れたのではなく外れてしまったのです。バテ・シェバと寝たいという欲望が湧いて来ても、神の律法を思い出せば「他人の妻と寝ることは姦淫の罪でありいけないことだ」とブレーキが掛かるはずです。しかし悪の欲望に支配されたダビデの心の世界(思考の世界)には最早神の言葉はありません。神の言葉が無いのではなく霊的に死んだ状態ですから神の言葉に反応出来ないのです。だから先ほど言ったように「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」と書いてあります。これは人が悪に至る過程、メカニズムを述べた言葉であり、エバが蛇に惑わされて善悪の知識の木の実を食べる過程と同じです。神の言葉に死んで反応することが出来ずに、サタンの言葉に反応してサタンの思いを達成させます。神を知らない世の人々は、常にサタンの誘惑の言葉に導かれながら滅びの道を歩いています。ダビデはサタンと同じように不満があって悪を犯したのではありません。神は言います。

「わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」

と。
神はダビデに多くのものを与え、それでも足りないならさらに多くを与えると言われました。これは、神がサタンに語った言葉と同じで、サタンの背信と同じ構図です。神は御使いに知恵と美の極みを与えたにもかかわらず、一部の御使いたちは謀反して悪になりました。ダビデの悪はサタンに誘導されてサタンに感化された結果です。サタンはエバを罪に陥れたようにダビデも罪に陥れました。エバの目を神が与えた「見るからに好ましくたべるのに良いすべての木」から引き離して神が嫌う「善悪の知識の木」に向かわせ、執着させ、興味を惹きつけ、欲望を起こさせ、罪の戸口へと誘ったように、ダビデにも神が与えた数々の恵みから目を離れさせてバテ・シェバの裸でダビデの目を惹きつけ、執着させ、興味を惹きつけ、欲望を起こさせ、罪の戸口へと誘いました。ダビデにとってバテ・シェバの裸は神が禁じた善悪の知識の木だったのです。ダビデの悪行の背後にはサタンがいます。
そしてダビデは自分の欲望を満たすために、神が与えた「王の権力」を行使してウリヤを殺しました。いつの時代でも権力者は自分で直接邪魔な者に手を下すことはありません。必ず自分の権力を使って配下の者に命令して邪魔者を消します。ダビデもヨアブに命令してウリヤを殺しました。羊飼いをしていた少年ダビデに油を注いだのは神です。ゴリアテに勝つことが出来る知恵と力と勇気を与えたのは神です。ダビデをイスラエルの王としたのは神です。その神が与えた王様の権力によって家来に命じてウリヤを殺しました。もちろんダビデの工作によって夫のウリヤが戦死したことなどウリヤの妻バテ・シェバは知る由もなく、ただ夫の死を悲しみました。バテ・シェバからすればダビデは夫の王様ですから、いくら人の妻であろうがなんであろうが王様から体を求められたら拒否出来ません。もし王様の機嫌を損ねたら夫のウリヤに何をされるか分かりません。ただ王様の言いなりになるしかありません。ダビデは半ば強引にバテ・シェバと関係を結びました。凄いですね、ダビデという人間は。これが、神が油注いだイスラエルの王の正体です。本性です。ダビデの罪は私たちクリスチャンへの教訓です。警告です。現代のクリスチャンでもダビデと同じことが起こり得ます。クリスチャンだろうが牧師だろうがそんなことは関係ありません。自己満足のために、自己保身のために、何でもやります。実際に私はそのような牧師を何人も目の前で見て来ましたから。
神はダビデが素晴らしい人間だからイスラエルの王として選んだわけではありません。ダビデが人格者だから油を注いだのではありません。王様だろうが神に選ばれた人だろうがサタンの罠にはまったらサタンの奴隷となり自分の欲望のために権力を行使する人になります。ダビデは今まで数々の戦に勝って来て慢心してしまいました。サウル王が亡くって追われる心配が無くなり緊張感を失ってしまい、慢心した心の中に、過信した思いの中に、信仰の緊張感を失った心の中に、サタンが入って来て悪い思いを入れて来ました。邪な欲望を起こさせました。

▼人はみないつでもどこでも罪人▼
世間一般に「初心忘るべからず」ということわざがあります。「初心忘るべからず」は正に真理です。
新年度に入って学校を卒業して会社に入社した方々は先輩からいろいろ仕事を教わります。最初は何も分かりませんからひたすら「はい、わかりました。はい、わかりました。」と頭を下げながら、謙虚な気持ちで仕事を覚えて行きます。何も出来ないのですから当然です。しかし2年、5年、10年と時が過ぎて行くうちに、仕事も覚えて一人前になり仕事を任されるようになると、自然に仕事に対する慢心、過信が芽生えて来ます。上司に対して「うるせーな。そんなこといちいち言われなくても分かってるよ。ムカつくな、もう」なんて心の中で不平が募ります。飲み会では会社、上司の愚痴で盛り上がります。入社当時の初々しさ、謙虚な気持ちなど微塵もありません。私も含めて人間はそういうものです。信仰の世界も同じです。聖書は「いつでもどこでも罪人忘るべからず」と戒めます。すべての人は生まれながらにして罪人です。罪人に良いも悪いもありません。偉いも偉くないもありません。だって同じ罪人なのですから。しかし信仰の世界に入って月日が経つといつの間にか自分が罪人であることを忘れて、神に対して、人に対して、高慢になります。あからさまに高慢な態度をとるわけではありません。(中にはあからさまに高慢な態度をとる牧師、信徒もいますが)口では神様神様と言っていますが、心は自分の野心で満ちています。主のため主のためと言いながら、結局は自分のためです。だからパウロは高ぶらないように神から棘を与えられました。パウロは神から多くの超自然的な体験をさせられて、さらに多くの啓示を受けました。ですから、ついつい「俺は神からこんなに多くの奇跡を見せられたり啓示を受けた人間だ。だから俺の言うことがすべて正しいのだ」と言って上から目線で人を見下して高慢な態度にならないよう、肉体に棘を与えられました。クリスチャンは恵まれれば恵まれるほど高慢になり易いのです。

▼キリストから目を離すな▼
荒野を歩くイエス・キリストにサタンが近寄って来て誘惑したように、サタンは恵まれたクリスチャンに近寄って来て誘惑して邪な欲を起こさせて罪に陥れます。これはサタンの常套手段です。また、人間とサタンを知恵と能力で比べれば、人間とサタンは大人と赤子の開きがあります。人間がサタンに知恵で勝つことは出来ません。能力で勝つことは出来ません。大体、サタンは人の目に見えないのですから、最初から勝負は決まっています。サタンからすれば人間は赤子も同然です。だから人は「信仰」なのです。人間とサタンの間にイエス・キリストが入って、キリストが私たち人間に変わってサタンに勝利して下さいます。パウロが述べています。

ヘブル人への手紙12:2
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

エペソ人への手紙6:10~18
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

パウロが述べているように、人がサタンに勝利するのは神への信仰しかありません。ただイエス・キリストから目を離さないことです。絶えず主の御言葉のうちに歩むことです。
ダビデ王の命令でダビデの家来と全イスラエルの兵士は主の戦いのためにかぶとをかぶり、武具を身に着け、腰には帯を締め、胸当てを着け、剣と大楯を手に取って出陣しました。ところが肝心の王様ダビデは神の言葉から外れて、神から目を離して、信仰のかぶとと武具を脱ぎ捨て、信仰の大盾と剣を放り投げて、王宮でいびきをかきながら昼寝をしていました。完全に無防備な状態のところに、サタンが火矢を放って来ました。これではダビデに勝目はありません。サタンが放った火矢で火だるまになり燃え尽きるだけです。実際にダビデの信仰は火だるまになり燃え尽きました。
旧約聖書に記されているイスラエル民族の戦の歴史はサタンとの戦いの歴史です。イスラエルが神に従えばイスラエルは勝利を収めて国が繁栄します。神に従わないと戦に負けて国が滅んで行きます。ダビデは慢心して高慢になり、神の約束の言葉から外れました。神から信仰の目を逸らしました。信仰の武具を外しました。その結果、サタンに誘われて悪の道に歩むことになりました。人間に出来ることは、ただ、信仰の創始者であり完成者であられるイエスから目を離さないことです。それ以外何もありません。

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会」から引用しています。
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2017年04月10日