善悪の知識の木-3(蛇の誘惑)

日本基督道場
2017年7月24日(月)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright©2014
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善悪の知識の木-3(蛇の誘惑)
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善悪の知識の木-2(サタンを裁く法廷)からの続きです。

▼エデンの園の構図▼
創世記2:8~17
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

神は地球を造り、地球の東の方エデンに園を設けて神の息が吹き込まれて生きた人となった人類最初の人間である男(アダム)を置きました。ですからアダムの目が開かれて最初に飛び込んで来た世界がエデンの園です。エデンの園には見るからに好ましく食べるのに良いすべての木と、園の中央にはいのちの木と、善悪の知識の木が生えていました。そして、神はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられました。ですからエデンの園は次のような構図になっていました。

食べて良い木の実(見るからに好ましく食べるのに良いすべての木・いのちの木)VS 食べてはいけない木の実(善悪の知識の木)

神はいのちの木については食べて良いとも食べて悪いとも言っていません。しかし園に生えているすべての木の中から善悪の知識の木だけを指して「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と仰せられたのですから、いのちの木の実は食べて良い木の実に属します。神がいのちの木に言及しなかったのは、いのちの木は食べて良い木の実の中でも特別な木の実であり、いのちの木の実を食べる「時」があるからです。いのちの木の実を食べる「時」とは、「神の時」です。「神の時」とは、「サタンの裁きの時」です。いのちの木と善悪の知識の木の実が熟して食べごろになった時に、神の命令によって人はいのちの木の実を食べて永遠のいのちの世界に入り、サタンの象徴である善悪の知識の木は伐採されて火が燃える炉の中に放り込まれて永遠の炎で焼かれます。いのちの木と善悪の知識の木はいきなり完成された実が成っている木が植えられたのではありません。いのちの木と善悪の知識の木の「根」が植えられたのです。だから、創世記2:15に「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」と記されています。「そこを耕させ、またそこを守らせた。」とは、いのちの木と善悪の知識の木の根が成長して実が成るまでの間手入れをすることです。そして木が成長して幹から枝が生えて実がなる頃、神はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と仰せられました。ここで注意して欲しいのは、人の体のための食物は創世記1:29ですでに人の体が造られる前に用意されていました。

創世記1:29
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

ですから順番として、

【人の魂が創られる】
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
           ↓
【人の体のための食物が与えられる(用意される)】
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
           ↓
【人(男)の体を土地のちりから形造り、いのちの息を吹き込まれて人は生きたものとなった。】
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
           ↓
【人(男)をエデンの園に置かれた】
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
           ↓
【エデンの園に見るからに好ましく食べるのに良いすべての木と、園の中央にいのちの木と、善悪の知識の木を生えさせた】
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

前にお話ししたように、創世記1:29で用意された食物は物理的な肉体のための食物で、創世記2:9のエデンの園に生えさせたいのちの木の実と見るからに好ましく食べるのに良いすべての木の実は人の魂のための木です。ですから人はいのちの木の実が熟するまではすでに創世記1:29の体のためのすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木の実から取って食べていました。エデンの園は全地(地球上)にあって神の霊の世界が地上に降りて来て物理的な世界と霊的な世界が融合された特別な場所であり領域です。そして、善悪の知識の木はサタン(蛇)を裁くための木です。いのちの木と善悪の知識の木の実が熟した時、神の命令によって人はいのちの木の実を取って食べて永遠のいのちを生き、サタンの象徴である善悪の知識の木は伐採されて燃える炉に投げ込まれて焼かれます。人間の神への従順によってサタンが裁かれます。

▼霊に生きたアダム▼
さて、神はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられましたから、当然、アダムはいのちの木と善悪の知識の木の違いについて認識していました。園の中央に生えている二種類の木のこっちがいのちの木で、あっちが善悪の知識の木であることを認識していました。二種類の木を識別していました。いのちの木と善悪の知識の木の違いです。善悪の知識の木が何を意味するのか?なぜ、神が善悪の知識の木をいのちの木と一緒に園の中央に生えさせたのか?二種類の木の本質については分かりません。ただ、手に取って食べなくても、目で見た視覚による二種類の木の印象、違いは分かっていました。だからアダムは善悪の知識の木を見て「神がこの木から取って食べてはいけない」と仰せられたので、善悪の知識の木から取って食べてはいけないと自覚しました。アダムは園に生えている「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」と、園の中央に生えている「いのちの木」と、「善悪の知識の木」の三種類の木の見た目の違いを認識して、理解していました。たとえば、私たちは柿の木と、りんごの木と、みかんの木の三種類の木とその実を「見た目の違い」「視覚の違い」「物理的な形状、色彩の違い」「味覚」「食感」によって三種類の木の特徴、違いを認識して、理解しています。そのように、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木と、いのちの木と、善悪の知識の木の三種類の木を「見た目の違い」「視覚から受ける印象の違い」によってアダムは区別してそれぞれの木を理解していました。視覚から受ける木の形状と色彩と印象の違いです。
前に申し上げたように、いのちの木と善悪の知識の木は「霊的な木」です。だから抽象的な名前が付けられています。その霊的な二種類の木の違いをアダムは認識していました。二種類の霊的な木ですからアダムは「霊の目」で二種類の木の違いを認識していました。アダムは神の息(神の霊)が吹き込まれた霊に生きた人です。だから霊の目によって霊的ないのちの木と善悪の知識の木を見て、違いを認識していました。柿の木とりんごの木とみかんの木は物理的な木です。これは私たちの魂が体の目を通して物理的な世界を認識しているので、その違いが理解出来ます。改訂版で書きましたが、人は霊と魂と体を一つとした存在です。そしてアダムとエバがエデンの園から追い出されて以降、人は罪の世界に霊に死んだ者としてこの世に生まれて来ます。だから生まれながらにして神の存在が分かりません。御使いの存在が分かりません。サタンの存在が分かりません。イエス・キリストは霊に生きた方です。だから荒野でサタンと目を合わせ、会話をしました。自分に仕えている目の前の御使いを認識していました。そのように、アダムは霊に生きた人でしたから神と会話をして、霊の木なるいのちの木と善悪の知識の木を認識していました。では、アダムがエデンの園で見たいのちの木と善悪の知識の木は視覚的に何が違うのでしょうか?アダムが霊的な目によって見たいのちの木と善悪の知識の木はどのように映ったのでしょうか?。
いのちの木はヨハネの黙示録の中にも出て来ます。

ヨハネの黙示録2:7
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

ヨハネの黙示録22:1~2
22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

ヨハネの黙示録22:14
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

ヨハネの黙示録22:19
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

▼神が与えるいのちの木の実▼
神の最終目的は人間にいのちの木の実を食べてもらうことです。エデンの園に生えているいのちの木はヨハネの黙示録に記されているいのちの木と同じです。エデンの園で人の罪によって食べ損ねたいのちの木の実を、神は再びイエス・キリストを信じる者に与えることにしました。ヨハネの黙示録はヨハネが霊の目によって見た「天にある神の国の光景」を記録した文書です。そしてヨハネはこの地上に居ながら霊の目によって天に在る神の国の光景を見たのです。

ヨハネの黙示録1:9~10
1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」

ヨハネは「パトモス」という島に居て、その時に御霊によって天にある神の国の光景を見せられました。物理的な体は地上のパトモスという島に居ながら、ヨハネの霊は天に引き上げられて神の国を見ました。ですから人の霊は物理的な時間と空間に制限されず、天の神の国に引き上げられて神と交わることが出来る特別な存在です。そのように、エデンの園は天の神の国が地上に降りて来て物理の世界と霊の世界が融合された特別な世界、領域です。霊なる神と交わるには人の霊によらなければ交わることは出来ません。神と交わるためのエデンの園の中央に、いのちの木と善悪の知識の木が生えていました。神は人に食べてもらうために、エデンの園にいのちの木を生えさせました。
そしていのちの木と善悪の知識の木はお互い対極の関係にある木です。相反関係にある木です。ですから、いのちの木は園に生えている見るからに好ましく食べるのに良いすべての木の中にあって「一際輝いた人の心を惹きつける木」です。「食べたいという欲を起こさせる木」です。それに対して、善悪の知識の木は「見るからに嫌悪で、まことに食べるのに悪く、愚かにする木」です。エデンの園で人類が食べ損ねたいのちの木の実を、神は再び神の国でキリストを信じる者に与えることにしました。いのちの木は見るからに好ましく食べるのに良いすべての木に囲まれながら、さらに一際光輝く木でした。それに対して善悪の知識の木はサタンの化身ですから、光と対極する真っ黒な暗闇を象徴する木です。見るからに嫌悪で、食べたいと思わない、悪の木です。私が想像するにはおそらく「真っ黒な木」だったと思います。ですからアダムは神から厳命される前まで、なんで見るからに嫌悪で異様で食べたいとも思わない真っ黒な木が光輝くいのちの木と一緒に園の中央に生えているのかが理解出来ませんでした。神に厳命される前から善悪の知識の木はとても食べたいと思うような実を結ぶ木ではありません。前回書いたように、神はただ一言「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と厳命して、善悪の知識の木についてアダムに説明などしません。もともと食べたいとも思わない真っ黒な異様な木に対して、さらに神が「取って食べてはならない」と念を押されたのですから、アダムは善悪の知識の木から取って食べようなどと思いはまったくありませんでした。

▼神の国の料理▼
みなさんは必ず食べ物の好き嫌いがあると思います。私はコンニャク、シラタキ、ハルサメといった味が無くてにゅるにゅるしたあの食感が苦手で、なかなか食べられません。また、私はいつも朝食は納豆ご飯です。日本人はだいたい納豆を食べられますが、外国人からすれば「なに、この腐ったような豆のどこが美味しいの?」となります。今でこそお寿司、刺身は海外でも食べられるようになりましたが、その昔は、外国人にすれば魚を生で食べるなんて考えられないことでした。逆に日本では「ゲテモノ」とされる昆虫、爬虫類、両生類などの料理も、東南アジアの国々では食べるところもあります。もし、みなさんの前に昆虫、爬虫類、両生類のコース料理が出て来たらみなさん食べられますか?私は料理を見ただけで気分が悪くなりそうです。イナゴの佃煮くらいなら食べられますが・・・。これは食文化の違いですからどうしようもありません。
私たち人類の初めであるアダムは、本来、神の国に神の子として誕生しました。神様が父で、神と同じ価値観、神と同じ感性を持って生まれて来ました。父なる神によって創られたのですから、当然です。そして神の国の中心がエデンの園です。ですから見るからに好ましく食べるのに良いすべての木といのちの木は神の価値観、神の感性が反映された木で、人の霊的な食欲、食感を満足させる木です。それに対して善悪の知識の木は闇の世界の長であるサタンの価値観、サタンの感性が反映された木です。神の価値観、神の感性と対極にある木です。ですから根本的に神によって創られた人間の価値観、感性がサタンの価値観、感性が反映された善悪の知識の木の実を選び取って食べることはありません。先ほど話した国の食文化の違いによる食の好き嫌いがあるように、神の国の霊的な食文化とサタンの国の霊的な食文化はお互い相容れることはありません。相容れることが出来ません。出来ないのです。日本人のみなさんは昆虫、爬虫類、両生類のコース料理を美味しく食べることが出来ますか?私は無理です。目の前に出されたら気分が悪くなるだけです。まず、口にすることはないでしょう。そのように、善悪の知識の木はアダムとエバの霊的な食欲、食感と合わないところにもってきて、神が「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とダメ押しされたのですから、念を押されたのですから、サタン(蛇)がちょっかいを出さなければ、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べることは絶対ありませんでした。では、なぜ、二人は善悪の知識の木の実を食べてしまったのでしょうか?エバが蛇(サタン)に唆されて二人が善悪の知識の木の実を取って食べる記事から考えてみましょう。
初めにエデンの園を理解する上で大事なことを整理します。

▼男アダムの権限▼
創世記を時系列に忠実に再現するならば、人間は男アダムが最初に造られて、神はアダムだけに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と厳命されたのであって、後から造られた女エバには善悪の知識の木について厳命されていません。これは紛れもない事実です。私たちの感覚では男と女はそれぞれ独立した別々の存在として創られたと思っています。しかしそうではありません。改訂版に書きましたが、神は創世記1:27で「神の形」として知恵と意志と感情を主体とした「男」という一つの「魂」を創り、その魂をさらに対に分けて「男」と「女」とに創りました。
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
           ↓
そして、男の魂が宿る器として、創世記2:7で土地のちりから男の体を造りました。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
           ↓
創世記2:16~17で男アダムに善悪の知識の木について厳命されました。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
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さらに女の魂が宿る器として、創世記2:21~22で男の体のあばら骨の一つから女の体を造りました。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

そしてエバがアダムのところに連れて来られて二人が一緒になった以降も、神はエバに善悪の知識の木については何も言っていません。ですから神はアダムだけに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられました。ほんとうに神がエバにも善悪の知識の木について厳命する必要があるならば、アダムと一緒に居る時に厳命されるはずです。また、ある方は「聖書に書いてはないけれど、神はどこかでエバにも厳命された」と主張します。しかし、聖書のどこにもそんな記録はありません。人類の永遠の運命を決めるこんな大事なことを、神が書き漏らすはずがありません。では、エバは、誰から、善悪の知識の木から取って食べてはならないと言われたのでしょうか?答えは「アダム」です。アダムから善悪の知識の木から取って食べてはならないと戒められました。しかし、実際には、アダムはエバに「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と言ったのではありません。「園の中央に生えている木の実を食べてはいけない。触ってもいけない」と言って戒めたのです。
神はアダムに仰せられました。

創世記2:16~17
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

神は「あなたは」と言って、アダムだけに「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と仰せられました。そして、最後に「あなたは」と言って、アダムだけに「必ず死ぬ」と仰せられました。ですからアダムだけが園の中央に生えているどちらの木がいのちの木で、どちらの木が善悪の知識の木であるかを区別することが出来ます。
神がいのちの木と善悪の知識の木を生えさせた目的は、いのちの木は「人間にいのちの木の実を食べてもらうため」です。人がいのちの木の実を取って食べることによって、人が永遠に神と交わり神の世界で生きることが出来ます。善悪の知識の木を生えさせた目的は、前回申し上げたようにサタンを人間の信仰によって裁くためです。ですからアダムは園の中央に生えているいのちの木から取って食べて、善悪の知識の木の実を食べなければよいのです。極めて単純な、幼稚園の子どもでも分かるような話です。アダムの一番大事な使命は、人類最初の人間としていのちの木と善悪の知識の木を区別していのちの木の実を取って食べることです。人類の初めであるアダムがいのちの木の実を食べることによって、後に続く人類が永遠の祝福に預かることが出来ます。その人類の運命を決める大きな責任を、アダムは負っていました。ですから、いのちの木の実を取って食べることは先に造られた男アダムの使命であり、男アダムの専権事項なのです。ところがアダムはエバから渡された善悪の知識の木の実を食べてしまったので、神は次のように仰せられました。

創世記3:17
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

神はアダムに「あなたが、妻の声に聞き従い」と仰せられ、アダムが御自身の声に聞き従わないで女エバの声に聞き従って善悪の知識の木の実を食べてしまったので、土地は呪われてしまいました。「あなたのゆえにのろわれてしまった。」の「あなた」とは、アダムのことです。アダムの誤った行動によって、土地は呪われてしまいました。ここで神が言っている「のろわれた」とは、改訂版で書きましたが、神の祝福によって「被造物同士の関係はお互いの存在が幸せをもたらす原因、因果関係」になるはずが、土地が呪われたことによって「被造物同士の関係はお互いの存在が不幸をもたらす原因、因果関係」に変貌してしまいました。だから神は「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」と仰せられました。私たちは大地から農作物の収穫を得るために、様々な労苦をします。たとえば虫が付かないように農薬を散布しますが、本来、神が祝福された土地は、農作物に虫が付いたりしません。また、農業は日照、雨量、温度などの気候に依存します。近年の異常気象や超大型台風は地球温暖化という人為的な要素も含めて、すべてはアダムの罪によって土地が呪われた結果です。アダムの罪によって万物のソフトウェアにウィルス(サタン)が混入して、万物のハードウェアが正常に動作しなくなりました。ソフトの異常によってハードが異常な動作をします。だから地震や台風で災害がもたらされます。ヨブ記を読めば分かります。自然界は神の祝福によって「お互いの存在が幸せをもたらす原因、因果関係」になるはずが、サタンの呪いによって「お互いの存在が不幸をもたらす原因、因果関係」に変貌しました。人類の初めである男アダムの誤りが、万物の歯車を狂わすことになりました。それほどアダムは責任の重い使命を任されていました。いのちの木と善悪の知識の木を区別して最初にいのちの木の実を食べることはアダムの一番大事な使命であり専権事項です。それを、女エバが蛇の唆されて勝手に善悪の知識の木から取って食べてしまい、さらに男アダムにも手渡してアダムも食べてしまいました。本来、神が決めた順番として、いのちの木を男アダムが区別して男が先に食べてその実を女エバに渡して女が食べるはずが、女エバが区別して先に食べて男アダムにその実を渡して男アダムが食べました。しかも、女エバが選んだ実は神が食べてはならないと厳命した善悪の知識の木の実でした。蛇の唆しによって神の計画がすべて狂ってしまいました。
男が先に造られて女が後で造られたのは、男と女を差別するためではありません。神は男という一つの魂を対にして女の魂を創りました。男のあばら骨の一つから女の体を造りました。これは、二つのものが一つになってはじめて一つの完成されたものが出来上がるためです。だから、神は創世記2:24で「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と仰せられました。ふたりが一体になることによって一つの家庭が生まれ、そこからまた新しい命が誕生します。これが、神が定めたいのちの繁栄の仕組みです。
以上のことを踏まえながら、本題に入ります。

▼蛇の巧妙な質問▼
創世記3:1~6
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

ここで初めて蛇なるサタンが登場します。蛇は女に言いました。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

蛇は初めに「あなたがたは、・・・」と切り出しました。「あなたがたは」とは、アダムとエバのことです。蛇はエバだけに語り掛けましたから普通なら「あなたは」と言うはずです。しかし、蛇は「あなたがたは」と言って、目の前に居るエバでだけではなく、男アダムを意識してエバに語り掛けました。蛇は、エバがいつもアダムの助け手として一緒に居て行動している様子を観察していました。エバからすれば、自分だけに語り掛けられるよりも、アダムと自分の二人に語り掛けられる方が気が緩んで緊張感がほぐれます。そして、実は、蛇はエバを誘惑する前に、すでにアダムを誘惑していました。Ⅰテモテへの手紙2章14節に記されています。

Ⅰテモテへの手紙2:13~14
2:13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
2:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

エバが造られる前にすでにアダムが造られて存在していたのですから、当然、サタンは、先にアダムを罪に陥れようと誘惑したはずです。しかし、この時アダムはサタンに惑わされることはありませんでした。サタンはアダムを誘惑してうまく行かなかったので、今度はエバに焦点を当てて誘惑しました。そして、先に結論を申し上げますが、「蛇(サタン)がアダムとエバを罪に陥れたことは、神からすれば『想定外』の出来事だった」のです。創世記3:8~14を読んでみて下さい。

「あなたは、どこにいるのか。」
「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
「あなたは、いったいなんということをしたのか。」
「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」

神様が動揺しています。全地全能の創造主が狼狽えています。これは自作自演ではありません。ヤラセではありません。創造主なる神は私たち人間みたいにそんなバカなことはしません。この神の言葉から分かることは、蛇が人を罪に陥れることは「想定外」の出来事だったのです。人が神の厳命に反して善悪の知識の木を食べることは「想像もしなかった出来事」だったのです。この事はまた後で詳しく書きます。

蛇は野の獣のうちで一番狡猾で、蛇のエバに対する質問は実に巧妙でした。神はエデンの園に生えているすべての木の中で、ただ一つ善悪の知識の木だけを名指しして取って食べてはならないと仰せられました。ですから普通に考えれば蛇は「善悪の知識の木から取って食べてはならないと、ほんとうに、神は言われたのですか?」と質問するはずです。しかし蛇は巧妙でした。蛇とエバの問答から考えてみましょう。

創世記3:1 蛇の質問
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

創世記3:2~3 エバの答え
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

蛇はいきなり問題の核心である善悪の知識の木に触れませんでした。「園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言って、エデンの園全体を指しながら、問題の核心である善悪の知識の木を隠しました。さらに、神はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言われたのに、蛇は「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言って、神の言葉をすり替えました。神が「良い」と言われたことを「神はダメと言われたのですか?」と言いました。そして、最後に「神は、ほんとうに言われたのですか。」と言って、あたかも神が言ったかのごとく強調してエバを惑わしました。ここでエバは混乱しました。動揺しました。これは、狡猾な蛇が考えに考えたエバの心理を巧みに操る巧妙な質問です。エバは「あれ?あれ?確か、アダムはこう言ったはずだけど、わたしの間違いかな???」という混乱と動揺の中で、自分なりに整理して答えました。

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

それまでエバはアダムから戒められた神の厳命に忠実に従っていました。善悪の知識の木を見て食べようと思ったり触ろうと思ったりすることもありませんでした。先ほどお話ししたように、園の中央の木は神とアダムの問題であることを自覚していたので、園の中央の木に執着や野心を抱くことはありませんでした。罪の世界に生まれて来た私たちは神の厳命に「なぜ、善悪の知識の木の実を食べてはいけないの?」と神の言葉に疑問を抱いて反発をしますが、罪も悪もないエバは素直にアダムを通して語られた神の厳命に何の疑問も持たずに従っていました。ところが蛇から園の中央の木について質問されて、エバは初めて神の厳命に疑問が湧いて来ました。

「そういえば、なぜ、神は、園の中央に食べてはいけない善悪の知識の木を生えさせたのだろう?」「神はそれを食べると死ぬと言ったけれど、死ってなんだろう?」と。

隣の家の塀に小さな穴が空いていました。今までまったく気に留めなかったものが、ある日、穴のところに「絶対覗かないで下さい!!!」と貼り紙がしてありました。みなさんどうしますか?下衆な私だったら、百パーセント覗くでしょう。「ええっ、なにが見えるの???なにが見えるの???見たいよ~~~見たいよ~~~とても我慢なんか出来ないよ~~~」(笑)今までまったく気にならなかった事が、誰かの一言によって気になり出し、固執するようになります。それが人間の心理です。
蛇はエバに質問することによってエバの関心を、エバの興味を園の中央の木に、すなわち善悪の知識の木に一気に惹きつけました。エバの関心と興味は善悪の知識の木に向かい、次から次へと神の言葉に対する疑問が湧いて来ました。神の言葉への疑問は、不信仰の入り口です。さらに不信仰の道を進んでいくと、そこには罪の扉が待っています。罪の扉を開くと、そこは悪の世界です。神はカインに「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」(創世記4:7)と言って、警告されました。正しい行いは「信仰の行い」です。正しくない行いは「不信仰の行い」です。エバは正に、蛇によって不信仰の道に誘導されて、罪の扉の前に立たされました。一たび疑問が湧き起ると、人間はその疑問に固執します。疑問の答えを見つけるまで、納得するまで、疑問にとらわれます。なぜ?なぜ?なぜ?と。そして蛇は巧妙な質問によって問題の核心部分を隠しながらエバがどの程度善悪の知識の木について、死について、理解しているのかを見極めました。蛇はエバが混乱と動揺の中で自分なりに整理した答えの中から、エバが善悪の知識の木について、死について、その本質を理解していないこと見抜きました。エバは蛇の巧妙な質問によって、なぜ、園の中央に善悪の知識の木が植えられているのか?そして、神が仰せられた死の意味について、自分はまったく理解していないことを蛇にさらけ出してしまいました。
最初に蛇がアダムを誘惑したときは、おそらく「園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」という質問に対して、アダムは神の厳命の言葉を以って明確に「わたしたちは園のどの木からでも思いのまま食べてよいのです。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。と神が仰せられました。」と答えて蛇の誘惑に乗りませんでした。だから蛇は矛先を変えて今度はエバを誘惑しました。エバが善悪の知識の木について、死について、理解していないのは当然です。だって、神はアダムにもエバにも死について一切説明していません。ただ一言、アダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と厳命されただけです。しかも、エバは神から直接厳命されたわけではありません。アダムから戒められたのです。
よく言われることは、創世記2:16~17の神がアダムに厳命された言葉と創世記3:2~3の蛇の質問に対するエバの言葉を比較しながら神の言葉とエバの言葉の不一致を指摘してまるで自分は他人事のように神の厳命を守れなかったエバを非難して蛇に唆されたエバに罪の責任がすべてあるかのごとく解釈する人たちがいます。前にも言いましたが、では、あなたがエバだったら、絶対、百パーセント、神の厳命を守れたのでしょうか?俺がエバだったら蛇に唆されることなど絶対ないと宣言出来る人がこの世に居るのでしょうか?私がエバになっても、あなたがエバになっても、誰がエバになっても、結果は同じです。蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べたでしょう。エバが蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べてしまったのは、エバ個人の資質の問題ではありません。サタンと人類の問題です。確かに創世記2:16~17の神がアダムに厳命された言葉と創世記3:2~3の蛇の質問に対するエバの言葉を比較すると言葉上完全には合っていません。微妙な違いがあります。たとえば、神は「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と言ったのに、エバは「しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。』」と答えました。神ははっきりと「善悪の知識の木から」と言ったのに、エバは「園の中央にある木の実について」と言ったので、なんだか問題の核心である善悪の知識の木がぼやけてしまった印象を受けます。また、神は「触れてもいけない」とは言っていないのに、エバは「触れてもいけない」と言って、エバが勝手に自分の思いを付け足したような印象を受けます。そして神は「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言って死を強調しているのに対して、エバは「『あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と言って死が曖昧になっている印象を受けます。以上ことから、神の言葉とエバの言葉の不一致を指摘して、蛇の唆しによってエバが神に不信を抱いて善悪の知識の木から取って食べてしまったと解釈します。この解釈の前提にあるものは「神はエバにもアダムと同じようにどこかで直接厳命された」という聖書に書いていないストーリーです。だから創世記2:16~17と創世記3:2~3を直接比較して解釈します。しかし、先に説明したように、神はアダムだけに厳命されたのであって、エバには厳命されていません。エバはアダムによって神の厳命を戒められたのです。これは紛れもない事実です。だって聖書にエバが神から厳命された記事はどこにもありません。だから創世記2:16~17と創世記3:2~3を直接比較して解釈すること自体無理があります。逆に、微妙な言葉の不一致があるのは、神の厳命の言葉とエバの言葉の間にアダムの戒めの言葉が入っているからです。伝言ゲームと同じです。微妙な言葉の不一致はエバがアダムに戒められた証拠です。ですから逆に創世記2:16~17と創世記3:2~3を比較することによってアダムがエバになんと言って戒めたのかが見えて来ます。それを考えて見ましょう。

▼アダムの戒め▼
アダムはエバにどのような言葉を以って戒めたのでしょうか?その答えが、蛇の質問に応答したエバの言葉です。

「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

これが、アダムから戒められた言葉です。エバはアダムから戒められた言葉を以って自分が理解している範囲で蛇の質問に答えました。ですからエバの答えからアダムからどんな言葉で戒められたのかを推測することが出来ます。キーワードを区別すると

・園にある木の実を食べてよい
・しかし、園の中央にある木の実については食べてはならない
・それに触れてもいけない
・死ぬといけないからだ

です。そして、エバは「神は、・・・・・・仰せになりました。」と言っています。キーワードを直接比較すると分かります。

神「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」      
エバ「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」

神「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」
エバ「しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。』

神「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
エバ「あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

神とエバの間にアダムの戒めを入れるとこんな感じでしょうか。もちろんアダムの戒めは私が勝手に推測した言葉です。

神「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」
            ↓
アダム「私たちは園に生えている木から思いのまま食べてよいのです。」
            ↓
エバ「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」
            ↓
            蛇
          ―――――
神「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」
            ↓
アダム「しかし、園の中央にある木の実について、あなたとわたしは食べてはならない。それに触れてもいけない。」
            ↓
エバ「しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。」
            ↓
            蛇
          ―――――
神「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
            ↓
アダム「わたしたちが死ぬといけないからだ。これは、神がわたしに仰せられたことです。」
            ↓
エバ 神が「あなたがたが死ぬといけないからだ」と仰せになりました。
            ↓
            蛇
          ―――――
これはあくまでも私個人の勝手な推測です。人から人へと何かを伝えれば、当然、伝言ゲームのように言葉のズレや表現の違いが出て来るでしょう。
問題は、創世記3:3でエバが「神は、・・・・・と仰せになりました。」と言われたことです。普通に考えれば、エバは神から直接アダムと同じように厳命されたので、エバは「神は、・・・・・と仰せになりました。」と答えたと解釈されます。また、この言葉が根拠となって「聖書に書いてはないけれど、神はどこかでエバにもアダムと同様に厳命された。」というストーリーが展開されます。しかし、それは違います。神がアダムとエバの両方に直接厳命することが必要ならば、エバが造られて二人が揃ったところで二人に厳命されれば済むことです。しかし、聖書は最初に男が造られ、男アダムだけに厳命されています。また、これは人類の運命を左右する大きな問題です。これまで神が創って来た万物のすべてが生きるから死ぬかの問題です。もし、神がエバにも直接厳命されたのであれば、これほど大事な事が聖書に書かれないはずがありません。裏を返せば、創世記2: 16~17の記述は、神はアダムだけに厳命されたのであって、エバには厳命されていないという証拠でもあります。
エバが創世記3:3で「神は、・・・・・と仰せになりました。」と答えたのは、アダムの戒めの言葉を以って神の厳命の言葉としたからです。単純に、神はアダムに厳命されて、その神の厳命をアダムがエバに伝えて戒めたのですから、エバからすればアダムの戒めは神の戒めになります。そうですよね?そして蛇は「神は、ほんとうに言われたのですか。」と質問しています。ですからエバはアダムから聞いた神の厳命の言葉を以って単純に「神は、・・・・・と仰せになりました。」と答えました。まさか一々「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。と、アダムが言っていました。」なんて答えないでしょう。あるいは「わたしがアダムから聞いた話では、・・・・・と、神が仰せられました。」なんて言わないでしょう。エバの心、エバの思いはアダムの心、アダムの思いと一つとなっていました。エバの心はアダムの心です。エバの思いはアダムの思いです。それほど、二人の心と思いは一致して、一つとなっていました。しかし二人が善悪の知識の木の実を食べてしまったために、それまで一つとなっていた二人の心と思いがバラバラに崩れてしまいました。だから、アダムは創世記3:12で神に問い詰められた時に「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と言ってエバに罪の責任を転嫁しました。アダムがエバと初めて出会った時、アダムはエバに「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言ってエバを称賛しました。この言葉は、アダムからエバへのプロポーズでもあります。「あなたは私のすべてです」という意味です。ところがその女エバに対して、アダムは「この女が!」と言って罪の責任をエバに擦り付けて自分の保身を図りました。本来、何があっても自分を守ってくれるはずの男アダムから「この女が!」と言われて蔑視され、けなされ、突き放されたのですから、エバにとってこれほどショックなことはありません。ここで人類最初の男と女の愛の関係が破綻しました。壊れました。その後の人類の男と女の関係は、アダムとエバの罪によって壊れてしまった偽りの男と女の愛の関係を引きずって来ました。夫婦でありながらお互いが信用出来ないのです。
女性の方々には理解しにくいかも知れませんが、よく、男性が「女のクセに!」と言って女性を見下したりしますよね?あの「女のクセに!」というフレーズはアダムがエバに発した「この女が!」という言葉に由来します。しばしば国会でも女性に対する差別的な発言、ヤジが飛ばされて問題になります。「女は早く結婚しろ!」という感じで。あるいは日本の天皇制は天皇は男系継承でなければなりません。大相撲の土俵に女性は上がれません。他にもいろいろありますが、これらの日本文化の伝統的な男性優位をはじめ、人間社会の男性優位は単に差別云々の問題ではありません。男アダムと女エバの役割の違いに由来します。「生きる権利」は男も女も平等です。ただ、生きて行く上での男と女の「役割」が違うのです。パウロは問題の多いコリントの教会に対してⅠコリント人への手紙11章で神と男と女の関係とそれぞれの役割について明確に述べています。
そして男が一番アタマに来ることは「男の面子、男のプライドを傷つけられること」です。特に女性から傷つけられると。男は常に女に対して優位を保っていたいのです。これは、男の魂にはエデンの園での男の使命、男の専権事項を女の過ちによって果たせなくなってしまった女に対する怒り、また、男が自ら神の使命は果たすことが出来なかったことへの自分に対する怒り、無念の情が潜在しているからです。だから男の口から「女のクセに!」という言葉が本能的に出て来ます。

話しを元に戻します。
そしてエバが善悪の知識の木について「園の中央にある木の実について」「それに触れてもいけない。」と言ったのは、アダムがそのように言ったからです。先に述べたように、善悪の知識の木の実は絶対食べてはいけない実です。そして、いのちの木は、実が熟した時に神の命令によってアダムが最初に取って食べます。園の中央に生えているいのちの木と善悪の知識の木を区別するのはアダムが神から与えられた専権事項です。アダムが人類最初のいのちの木の実を取って食べる人です。次に、アダムから渡されたいのちの木の実をエバが食べます。あくまでもいのちの木と善悪の知識の木を区別するのはアダムの役割です。ですからアダムは一々エバに「こっちが善悪の知識の木で、この木から取って食べてはならない」と説明なんかしません。ただ「しかし、園の中央にある木の実について、あなたとわたしは食べてはならない。それに触れてもいけない。わたしたちが死ぬといけないからだ。これは神が仰せになったことです。」と言ってエバを戒めました。死をもたらす善悪の知識の木は神が扱う木です。人類に永遠のいのちを与えるいのちの木は、神の命令によってアダムが扱う木です。アダムは後から造られた女エバに園の中央の木には手を出すな、関与するなという意味で、エバに善悪の知識の木といのちの木の両方を指して「それを食べてはならない。それに触れてもいけない。」と言ってエバを戒めました。エバの役割は黙ってアダムを通して語られた神の戒めを守ることです。
そして、一番大事なことは、エバは何か間違ったことを言ったでしょうか?何も間違ったことは言っていませんよね?。
神が「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言ったので、エバも「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」と答えました。エバの答えに、なにか問題ありますか?なにも問題ありませんよね?。
神が「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と言われたので、エバも「しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。」と答えました。エバの言った「園の中央にある木の実」とは、当然、善悪の知識の木も含まれています。つまり善悪の知識の木も含めて「園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。』」とエバは答えました。ここで言っている「食べてはいけない」と「触れてもいけない」とは警告の言葉としては同類ですよね?むしろ「触れてもいけない」と言った言葉の方が「食べてはならない」と言った言葉よりもより警告が強くなります。エバの答えに、何か問題ありますか?何も問題ありませんよね?。
神が「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われたので、エバも「『あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と答えました。エバが言った「あなたがたが死ぬといけないからだ」の「あなたがた」とは、アダムと自分のことですから、善悪の知識の木の実を自分たちが食べれば自分たちは死んでしまうので、園の中央の木(善悪の知識の木)の実を食べてはいけないのです。と、エバは自覚していました。エバの答えに、何か問題ありますか?何も問題ありませんよね?。要するに、「神の戒めの本質に関わる部分に関しては、エバは間違いなく、問題なく、蛇に答えている」のです。神の戒めの本質に関わる部分とは、繰り返し述べているように
・あなた(人)は、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
・しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
・それ(善悪の知識の木の実)を取って食べるとき、あなた(人)は必ず死ぬ。
エバも
・私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
・しかし、園の中央にある木の実(善悪の知識に木)について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。』(と仰せになりました。)
・『あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

エバの答えから、神が厳命された「Aは食べて良いです。しかし、Bは食べてはダメです。もしBを食べたなら、あなたは死にます。」という図式はまったく崩れていません。エバは善悪の知識の木について、死について、その本質的な意味は分かりませんでしたが、神が厳命された言葉に対するエバの理解に本質的な間違いはありませんでした。

次回に続く

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会」から引用しています。
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2017年07月24日