天地創造と現代に生きる私たちー上巻


 

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     天地創造と現代に生きる私たち
          ー上巻ー
         日本基督道場
         徳恵禎信 著
     ©2018 日本基督道場 徳恵禎信
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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会 許諾番号3-2-461号
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本文の聖書のことばの一部は「日本聖書協会『聖書 新共同訳』」から引用しています。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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本文の聖書のことばの一部は「日本聖書協会『口語訳聖書』」から引用しています。
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目次
はじめに
1.時間と空間
2.天と地
3.神の思考の世界と人間の思考の世界
4.秩序と法則
5.光とやみ
6.光の本質・やみの本質
7.万物はキリストによって造られキリストによって成り立っている
8.光とやみの関係
9.神が万物を創られた証
10.光を創られた目的
11.見える光と見えない光
12.創造の区切り
13.人間の時・神の時
14.万物の不思議
15.神の価値観・人間の価値観
16.完成されている人類の救い
17.神の祝福と呪われた土地
18.人間の創造の目的
19.霊と魂と体
20.神の霊によって生きる人間
21.ちり(塵)から造られた人の体
22.人間の領域・神の領域
23.法則を支配する神と法則に支配される人間
24.男と女
25.個人と社会
26.いのちを支配する人間
27.体の食物と魂の食物
28.動物の魂と体
29.人間だけが持っている霊の世界
30.万象の完成
31.万象の完成といのちの完成
32.偶然か必然か
33.神を真似る人間
34.形と理論
35.科学を創る神
36.真実なる神の言葉
37.万物は一日24時間×6日で創られたのではありません
38.霊的錯誤
39.神が描かれた人体の設計図
40.神が創られた万物を動かすコンピュータ
41.生ける神の言葉

はじめに

本書は2014年9月に出版された「天地創造と現代に生きる私たち」を改訂した「天地創造と現代に生きる私たち・改訂版」に、さらに新しいタイトルを加えて「天地創造と現代に生きる私たち・上巻」として改めて出版するものです。
本書の内容は、聖書の「創世記」の冒頭に書かれている聖書の神による「天地創造」の記録を現代科学と聖書信仰に照らし合わせながら解説したものです。
科学が進歩した現代では、すっかり聖書と科学はお互い相受け入れることが出来ない対峙する関係、構図が出来上がってしまいました。これは、完全な誤りです。 聖書は「科学や物理などの万物の世界は天地創造で『神』と称される存在者が創られた」と主張します。ですから、もし、本当に聖書に書かれていることが事実で、万物は神によって創られたのであれば、聖書と科学が矛盾したり、対峙することなどありません。むしろ、聖書は科学では解き明かすことが不可能な「万物の起源、万物の本質」を科学的に解き明かしています。 本来、聖書の天地創造は、科学も物理もいのち(命)も何も存在しない世界、空間に、神が科学や物理などの物質の世界(万物)を創造された過程、経緯を記録した文書ですから、哲学、文学、宗教の視点よりも、科学、物理の視点から解説した方がとても理解し易いです。それは、本書を読めばお分かりいただけます。また、キリスト教界で議論されている、

A)太陽と月は創造第四日に創られているのに、なぜ、創造第一日から「夕があり、朝があった。」と書いてあるのでしょうか? 各創造の日の末尾に記されている「夕があり、朝があった。」とは、何を意味するのでしょうか?

B)「第一日」から「第七日」とは、本当に私たち人間の世界の「一日24時間×7日」の「日にち」を表しているのでしょうか?

C)植物が太陽より先に創られたのは、なぜでしょうか?

D)なぜ、人間と動物の生き物の創造が二回に分けて書かれているのでしょうか?

E)なぜ、神の天地創造の記録は、創世記1章1節~2章3節までと、創世記2章4節~2章25節の二つに分かれて書かれているのでしょうか?

F)エデンの園とは、具体的にどのような世界なのでしょうか?

といった事柄を、本書は現代科学と聖書信仰の両方の観点から明確な答えを出しています。そして、神の天地創造から、私たち人類の救いについて解き明かす内容になっています。
なお、「天地創造」とは、一つの区切りとして、創世記1章1節から3章24節までとします。また、創世記に出て来る「アダム」という男の呼び名は、創世記3:21に初めて出て来ます。同様に「エバ」という呼び名は、創世記3:20に初めて出て来ます。新改訳聖書では人が「アダム・エバ」と表記される前までは、人は「男」と「女」と表記されています。ですから男=アダム、女=エバなので、便宜上、本書ではまだアダムとエバと表記される前の男と女に関しても男をアダム、女をエバと表記させて頂きます。
以上のことを念頭に、本書を最後までお読み下されば幸いです。
この本は読み終えた後、必ず、みなさんの「聖書観」が変わる本です。
徳恵 禎信(とくえ ていしん) 

1.時間と空間

創世記1:1~2:2
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

聖書は「初めに」という言葉から始まります。「初めに」とは、物事を始めるとっかかり、スタートです。そして、「初めに神が天と地を創造した。」と書いてありますから、神は天と地が創られる前にすでに存在し、その神が天と地を創りました。また、「初めに」とは、私たち人間の世界における「時間の概念」と「空間の概念」のスタートの時です。
神は「永遠」です。
聖書によると、神は永遠の前に居られ、この先の永遠の後にも、存在されるお方です。「永遠」という世界は、時間と空間に縛られる世界に居る私たち人間の感覚では理解出来ません。また、科学で解き明かすことも出来ません。科学は計測、秤量可能な世界でしか通用しません。「永遠」は、計測、秤量が出来ません。ですから神の世界(永遠)と、人間の世界(有限)とは、根本的に次元が違います。私たち人間の「永遠」の概念は、科学によって定義された人間の世界の時間の感覚と空間の感覚がこの先も止まることなく、限りなく、果てしなく、ズ~~~~~~と続く事が「永遠」だと思っています。神の「永遠」は違います。大体、この世に生まれて、やがて死ぬ運命にある有限の人間に、「永遠」なんて分かるはずがありません。神は永遠の先に存在して居られ、これから後も、永遠に存在されるお方です。ですから神においては私たち人間が存在する世界における時間の概念、空間の概念は存在しません。私たち人間は「時間と空間」という次元の中で存在しているので、「永遠」「無限」という世界は理解出来ません。聖書が言っている「永遠」とは、「時間と空間の概念が存在しない世界」です。時間と空間をも創られる神が、私たち人間を時間と空間の世界に置かれました。聖書によると、イエス・キリストを信じる人々の心には、神の霊(御霊・聖霊)が宿ります。世界に何億というクリスチャンが居り、神の霊がクリスチャン一人一人の心に宿り、一人一人の人生に対応しているのですから、神は時間と空間を超越した存在者です。聖書の冒頭の「初めに」の前にすでに存在しておられた永遠の神が、「初めに」という区切りを境に、天と地を創造されました。「初めに」とは、神の無限と人間の有限の接点です。私たち人間が存在する時間と空間の始まりの「印」です。「境」です。神が時間と空間を創った「証」です。神が時間と空間が無い世界に「時間」と「空間」という有限の世界を創った瞬間です。ここから時間と空間の概念がスタートしました。「神」と呼ばれる実体を持ったある「存在者」が、「天」と「地」と呼ばれるある特定の二つの場所、環境、状況、状態を創りました。
私たち人間は、時間と空間に縛られます。常に一つの時間に、一つの場所に居ることしか出来ません。また、肉体においても、精神においても、過去に戻ることは出来ません。未来に進むことも出来ません。私がいくら小学一年生に戻りたくても戻れないし、今すぐ70歳になりたくてもなれません。一秒、一分、一時間、一日、一年と、人間は時間とともに成長し、また、時間とともに老いていきます。新しい出会いは時間の経過とともに過去のものとなります。好むと好まざるとに関係なく、私たち人間は、時間と空間に縛られる存在です。 神は人間を「時間」と「空間」という次元に置かれました。

2.天と地

創世記1:1
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

そして神は天と地を創られました。みなさんは「天」という言葉から何をイメージするでしょうか? 一般的には大空を、あるいは宗教的に考えるなら、時間、空間を超えた超自然的、神秘的な世界を考えるのではないでしょうか? 聖書に書いてある「天」という言葉も、私たちが外に出て見上げると広がっている青い大空や宇宙を指す意味と、神が存在しておられる超自然の世界を指す二通りの意味があります。創世記1:1に書かれている「天」は、「神が存在しておられる超自然的な世界」を指します。ここで注意して欲しいのは、創世記1:6~10の記述を以て「神は天地創造の第二日に大空を創り『天』と名付け、第三日に天の下の水からかわいた所が現われて『地』と名付けました。そして、創造第二日と第三日に創世記1:6~10で創られた『天』と『地』が、創世記1:1に書かれている『天』と『地』である」と解釈される場合があります。しかし創世記1:7で創られた大空(天)は、創世記1:1に書かれている「天」ではありません。創世記1:7で創られた大空(天)は、創世記1:1で創られた「地」という物理的な空間、領域が、これから人間をはじめとする生き物が住む場所として創られて行く過程で、「地」の中に水と水を分けて大空とかわいた所を創り、そして大空を「天」と名付け、かわいた所を「地」と名付けた結果としての、物理的な「天」です。創世記1:7で創られた「天」は物理的な大空であり、創世記1:1に書かれている「天」は物理的な「天」ではありません。神が存在する超自然的な世界としての「天」です。ですから「初めに、神が天と地を創造した。」と書かれている「天」とは、現代の人間の五感(視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚)では感じることが出来ない「超自然的な世界」の実在を表しています。それに対して「地」は「物理的な地上の世界」を表しています。

創世記1:1
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

創世記1:1に書かれている「天」は「神の国、神の世界」を表し、「地」は「私たち人間が存在する物理的な世界」を表しています。物理的な世界とは、人間、地球、宇宙を含めた物質の世界です。聖書に書かれている「天」とは、超自然の世界を指す意味の天と、大空を指す意味の天と、宇宙を指す意味の天と、その意味が複数あり混在して表記されているので混同されやすいです。創世記1:1に書かれている「天」は、ヨハネの黙示録に書いてあるヨハネが霊感によって見た御使いたちが活動している「天の世界」です。ヨハネの黙示録は創世記1:1に書かれている「天」から見た「地」の世界を表しています。神の国から見た人間の世界を表しています。霊の世界から見た物理の世界を表しています。そのように、天地創造の記録は「天から見た地上の世界(地)の創造の過程」が書かれています。「神の国から見た人間の世界(地)の創造」が書かれています。霊(神の思考)から見た科学や物理(地)の創造の記録が書かれています。
私たち人間が生きている世界には、神が住んでおられる「天」と呼ばれる超自然的な世界と、私たち人間の五感によって認識されている「地」と呼ばれる物理的な世界が存在します。その「天」と「地」の二つの世界は、神が万物創造の初めに創りました。時間と空間の概念に縛られない神が、時間と空間の概念に縛られる科学や物理の世界を創りました。その時間と空間に縛られる世界が、私たち人間が実在している「地」なる場所です。そしてこれから展開される神の天地創造は、「地」と呼ばれる物理的な世界の「いのちの創造」の過程を記録した文書です。そしてもう一つ大事なことは、神が天と地を創られたのですから、天そのものは神ではなく、地そのものも神ではありません。天と地は神の創造の結果ですから、神を信じる人にとって天を崇めたり地を崇めたりすることは直接神を崇めることにはなりません。日本人は自然界を神の対象として拝む習慣がありますが、自然界や人間が作ったものを拝んでも、それは神を崇めることにはなりません。

3.神の思考の世界と人間の思考の世界

創世記1:1~2
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

神が創られた「地」について、「地は茫漠として何もなかった。」と書かれています。「茫漠として何も無い場所」とは、理解しがたい、随分おかしな場所です。茫漠として何も無い「地」と呼ばれる場所は、どんな場所でしょうか?

「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」

「茫漠(ぼうばく)」とは、日本語で「広くて、とりとめのないさま。また、ぼうっとしてはっきりしないさま。」(広辞苑より)といった意味があります。それを創世記1:1~2の言葉に当てはめると、地は「曖昧な世界、漠然とした世界、輪郭がはっきりしない世界、おぼろげな世界、不明瞭な世界、不鮮明な世界、ぼやけた世界、まとまりのない世界、秩序のない世界、統率のない世界」になります。ですから、何かはっきりしないけど、でも何かがある世界です。ところが創世記1:2には「地は茫漠として何もなかった。」と書かれています。「地は茫漠として」の後に、「なにもなかった。」と続けて記されて、一節の言葉になっています。さて、この「地は茫漠として何もなかった。・・・」という一節は、何を表しているのでしょうか?
私たち人間が何かを作る場合、まず、「何を作ろうか?」と考え、具体的に作るものを頭の中でイメージします。発想します。想像します。発案します。思考します。計画します。しかし、ここまでは、頭の中で作るものをイメージしただけであって、イメージしたものが目の前に形として在るわけではありません。あくまで頭の中の思考の世界ですから、断片的で、曖昧で、漠然として、輪郭がはっきりしない、おぼろげな、不明瞭な、不鮮明な、ぼやけた形の、まとまりのない、作るもののイメージがあります。そして、たとえば携帯電話の部品を造る場合、頭の中でイメージした断片的ではっきりしないものを目に見える形にするために、頭の中のイメージを設計図や製作図や仕様書として書き出します。頭の中のイメージを設計図や製作図や仕様書として書き出すことによって、頭の中でイメージした世界が視覚化され、実際にこれから造る部品の「形」が見えて来ます。頭の中で描いたものの輪郭がはっきりします。明瞭になります。鮮明になります。焦点がはっきりします。あるいは音楽を作る人は、必ず、頭の中に浮かんだ旋律を音符で楽譜に書き出すことによって音楽の「形」が見えて来ます。次に、材料を選択して、設計図を基に加工して、組み立てて、最後に検査をして、携帯電話が完成されます。製造現場では、物を造る時はすべて図面で情報交換をします。設計者が造って欲しい部品を頭の中で考えながら「設計図」という形でアウトプットして、設計者の思考が誰でも理解出来るように視覚化されます。頭の中の思考が設計図という形で視覚されることによって、設計者は客観的に自分が思考したものを目で見て確認することが出来ます。さらに設計図から不具合を探し出して修正しながら最終図面を完成させます。そして設計図には必ず、誰が、何時、設計して、図面を描いたが、記録されます。部品を加工する人は設計者が描いた設計図面を基にさらに不具合の箇所を変更しながら最終的に完成された部品を造ります。これらの一連の作業は人間が物やシステムを作る時の基本です。人間は神によって創られました。そして、アダムとエバが神が禁じた善悪の知識の木からその実を取って食べ罪に陥った後に、神は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。・・・」と仰せられ人が神のようになったので、人間は神と同じ思考形態を有する存在となりました。だから人間は、本能的に、神と同じことをします。神の真似をします。ですから逆を辿れば人間の行動原理から神の行動原理を見ることが出来ます。この「善悪の知識の木」の「善悪」の意味がキーポイントになります。「善悪の知識の木」については後で詳しく解説します。

「作ることは考えること」です。

頭の中で考える思考の世界は霊の世界です。この霊的な思考の世界が創世記1:2に書かれている「茫漠の世界」です。創世記1:2の「茫漠」とは、天地創造における神の計画、神の思考、神の思いです。神は天の世界と地の世界を創られました。そして、これから地なる場所をどのようなものに創ろうか? 神は考えていました。だから、「地は茫漠として何もなかった。」のです。そこには神の地なる場所への計画、思考、思いがあっただけで、まだ、具体的な創造が始まっていませんでした。地は神の計画、神の思考、神の思いだけがあり、物理的なものは何一つありませんでした。だから地は「茫漠」として「何もなかった。」のです。地は茫漠として何もありませんでした。では、「地は茫漠として」の後に続く「・・・何もなかった。」とは、どういう意味なのでしょうか? 「・・・何もなかった。」とは、どのような世界なのでしょうか?

4.秩序と法則

私たちを取り囲んでいる自然界を見ると、植物にしろ、動物にしろ、あるいは気象においても、宇宙においても、すべてそこに「秩序」が存在していることに気が付きます。たとえば一輪のチューリップの花をとって見ても、発芽から成長して花が開くまで、そこには「いのち(生命)」としての秩序の存在を見ることが出来ます。そして花を形造っている細胞の一つ一つは目的を持っており、一つ一つの細胞が個々の目的を達成させた時、初めて「チューリップ」という完成された花となり、チューリップとしての美しさ、華やかさ、色彩、造形美をかもし出します。生命の秩序と生命の目的が生命の形を造り、美と調和をもたらします。チューリップの花一つとって見ても、そこに神の知恵と、意思と、感性が反映されています。これは自然界だけではなく、私たち人間にも言えることです。私たち人間も、両親の遺伝子の結合から始まって、細胞分裂を経て、母の胎内で人間として形造られて、やがてこの世に誕生します。その過程において、60兆ほどの細胞一つ一つが秩序を持って目的を達成します。私たち人間は、60兆の細胞が個々の目的を達成した結果の現れなのです。私たち人間の細胞も、その生命の誕生、成長の過程において、自然界と共通した生命としての秩序、目的を持っています。60兆の細胞が秩序のうちに目的を達成したとき、「人間」という「形」が完成されます。また、私たち人間の世界においても、私たちは水を容れるために「コップ」を造りました。コップは「人が水を飲む」という必要のためにコップの形に造られました。ですからコップには「水を容れる」という目的があります。同じように、蛍光灯は部屋を明るくするために。時計は時間を知らせるために。ステレオは音楽を聴くために。私たちの周りにあるすべてのものは私たちの必要を満たすために形造られ、目的を持って存在しています。自然界においても、人間の世界においても、形あるものはすべて秩序と目的を持って存在しています。形あるものは秩序と目的を持っており、秩序、目的とは、「形造ること」です。ですから、創世記1章2節の「・・・何もなかった。」とは、秩序の無い、目的の無い、法則の無い、生命の無い、形の無い、地上の世界です。物理の法則、科学の法則、命の法則など、そこには何も存在していませんでした。

創世記1:2
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

神は初めに「地」と呼ばれる、秩序も、目的も、法則も、生命も存在しない「まっさらな場所」を創り、これからどのような世界を創ろうかと、考えていました。

5.光とやみ

そして、「・・・やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書いてあります。そこにはまだ光が存在していません。また、光は熱ですから、光りのないやみは冷たい暗闇の世界です。光のないやみの世界は冷たい、生命のない、活動のない世界です。しかし、そこにはすべての命の源である水が在りました。大水から新しい命の誕生が始まります。「大水(おおみず)」とは、巨大な水の固まりです。私たち人間をはじめとするすべての生命の源です。
私たち人間は哺乳類に分類され、母の胎内に居る時は水の中で育って来ました。人間の体の70パーセント近くは水です。とにもかくにも、生命が誕生、生存するための条件として、水は絶対必要不可欠です。その大水の上を、神の霊が動いていました。神の霊が大水の上を動いていたのは、神の霊(神の思考)によって大水から命が誕生する証です。新しい命の創造のために、まさに神の霊が大水の上で活動していました。そして、『神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』と書かれています。暗闇の世界に光が放たれました。光は神の本質の現れです。光は神の本質を現しています。神の本性を現しています。聖書は最初から最後まで光を神の性質の象徴として啓示しています。たとえばヨハネの福音書には、次の御言葉(みことば)が書かれています。

ヨハネの福音書1:4~9
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

ヨハネの福音書12:44~46
12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

神が天地創造で最初に行なわれたことは、暗闇の世界に神御自身の本質を顕すことでした。そして、「やみが大水の上にあり、」と書かれています。ここに書かれている「やみ」とは「サタン」の象徴です。 聖書はイエス・キリストを光として、サタンとその勢力をやみ(暗闇)として定義しています。それを裏付ける御言葉が、聖書には多く出て来ます。一部だけ抜粋して並べてみます。

ヨハネの福音書8:12
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

ヨハネの福音書12:46
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

使徒の働き26:17~18
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』(ダマスコで神がパウロに語ったことば)

Ⅱコリント人への手紙4:6
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

エペソ人への手紙6:10~12
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

Ⅰテサロニケ人への手紙5:1~8
5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

以上の記述の中から、光とやみを対比した言葉を並べて見ると、光はイエス・キリストとして、暗やみはサタンとして象徴されていることが分ります。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」 
「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」

神は天地創造で物理的な光を創り、光とやみを区別されました。新約聖書では、物理的な光とやみを対比して、光の本質、やみの本質を啓示しています。すなわち、光はイエス・キリストで、やみは神への対抗勢力であるサタンであることを啓示しています。聖書はイエス・キリストを光として定義して、光と区別されたやみ(暗闇)をサタンとして定義しています。そして、イエス・キリストは、ある時、次のように言われました。

ルカの福音書 10:18
10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」

イエス・キリストのこの言葉は、キリストが人間の世界に来られる前の天に居られた時に、キリスト御自身が目撃した光景です。イエス・キリストが天の玉座に居られた時に、サタンが地に落とされる光景をイエス・キリストは見たのです。そのサタンが落とされる光景を思い出して言われた言葉です。イエスははっきりと「サタンが、いなずまのように天から落ちました。」と証言されました。では、サタンは天からどこに落とされたのでしょうか?  答えは、創世記1:1で神が創られた「地」です。そして「やみ」はサタンの象徴です。だから創世記1:2に「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書かれています。地は「やみ」に覆われていました。つまり、地はサタン(やみ)に覆われていました。サタンについては後で詳しく解説しますが、とりあえずかいつまんでお話しします。
聖書に出て来る「サタン」とは、本来、「敵」という意味です。「神に敵対する者」という意味です。サタンの正体は、元は「天の使い(御使い)」です。「天の使い」というのは、文字通り「天(神)に使える者」「神の使い走り」という使命を持った存在として、神に創られた者たちです。その天の使いの一部の軍勢が謀反を起こして神に対抗し自分たちの世界を作ろうとしました。しかし被造物なる御使いたちが創造主なる神に勝てるわけがありません。創造主なる神に反抗した軍勢がもはや天に居る場所はありません。そしてサタンは地に落とされて、追い込まれました。だから「やみが大水の上にあり、・・・」と書かれています。「やみ」はサタンの象徴です。

創世記1:2
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

神は初めに天と地を創り、「地」と呼ばれる場所に新しいいのちの世界を創ろうと計画されました。ところがその地なる場所に天から落とされたサタンの軍勢が逃げ込んで来て、地はサタンの住処となりました。だから地はサタンの象徴である「やみ」で覆われていました。サタンに地を奪われた創造主なる神が、御自身の計画をあきらめたり、変更したりするでしょうか? いいえ、神はそんなことで御自身の計画をあきらめたり、変更されるお方ではありません。人間は自分たちが計画したことに対して「想定外」の事態が起こると、計画をあきらめるか、計画を変更してなんとか当初の目的を達成させようとします。神は御自身が立てた計画に問題が起こったり、邪魔が入っても、そこで立ち止まったり、計画を変更したり、するお方ではありません。問題が起こっても、邪魔が入っても、その問題や邪魔を用いて新しいものを創るのが神の創造です。だから神の霊が水の上を動いていました。「大水」は、すべてのいのちの源です。いのちの源である「大水」の上に、神の霊が動いていました。大水の上に神の霊が動いていたのは、大水から神によるいのちの世界の創造が始まる証です。そして、サタンの住処となった暗闇の地で神が最初に行なったことは、やみの世界に光を放つことでした。光を放つことによって、光とやみの関係、すなわち、神とサタンの関係を表しました。光は実体があって、やみは実体がありません。だからやみが光に打ち勝つことはありません。あり得ないのです。部屋に電灯が点いている限り、暗闇は存在しません。神が暗闇の地に光を放つ前に、すでに「やみ」という現象が存在していました。その「やみ」に相対する物理現象として、神はやみの世界に光を創りました。神は光を創りましたが、暗闇は創っていません。暗闇という実体の無い物理的現象が、どうして発生したのでしょうか? 神は天と地を創造されましたが、神が創った地は、なぜ、初めから、暗闇に支配されていたのでしょうか? 宇宙はなぜ、暗黒の空間何でしょうか? 暗闇が私たち人間の目で認識出来るのは、なぜでしょうか? その答えが、先ほどお話しした「サタン」です。地は「やみ」として定義されたサタンの住処となっていたので、やみが大水の上に在りました。いのちの世界の創造の源である大水の上に、サタンが君臨していました。

6.光の本質・やみの本質

聖書の初めに書かれている「光」と「やみ」について、その本質を物理の世界から解き明かしてみましょう。
人間の物理学よる光の定義では、光は電磁波(波)であり、また、粒子(物質を構成する粒、量子)でもあります。そして、光は物を可視(人間の目に認識させる)する性質を持っています。では、「やみ・闇」の定義はと言うと、これが、実に不思議です。光の無い状態を「やみ(闇)」と言います。当たり前と言えば当たり前ですが・・・。つまり、「やみ(闇)」という物理現象は、光に対する相対現象(そうたいげんしょう)でありながら、その実体がありません。だから、不思議なのです。光は電磁波や粒子という物理的実体がありますが、暗闇は電磁波でも粒子でもありません。暗闇には物理としての実体がありません。科学は測量可能、秤量可能な世界に限ります。暗闇は測量不可能、秤量不可能な現象ですから、「何も存在しない」ということになります。「何も存在しない」ということは、「物理としての実体が無い」ということです。実体が無いものを、その存在を証明することは出来ません。物理的実体が無いのですから、研究のしようがありません。ですから「やみ」という現象は、科学、物理の範疇ではありません。繰り返し申し上げますが、夜中に部屋の灯りを消せば部屋の中は真っ暗闇になります。しかし灯りが点いていれば部屋の中は暗闇に支配されることはありません。また、昼間でも、押入れの中に入り戸を閉めれば押入れの中は真っ暗闇になります。家の外に出れば必ず太陽の光によって自分の影が映ります。物体が光を遮ると黒い影が出来るのは、光は電磁波であり粒子である物理的実体がある証拠です。近年では、宇宙の「暗黒物質」の存在が研究されていますが、仮に暗黒物質なるものが存在しても、それは、聖書が言う「やみ」ではありません。宇宙の果ての暗闇は物質ではありません。暗闇の研究をするならば、何も壮大な宇宙に目を向けなくても、研究室に押入れを造って戸を閉めれば暗闇という現象が出来るのですから、押入れの中に機材を持ち込んで真っ暗闇の部屋の中で研究すればそれで済む事です。「やみ」は物質ではありません。宇宙の暗闇も、押入れの中の暗闇も、同じ「やみ」です。この光とやみについては、また後でお話ししたいと思います。
「光」は電磁波、粒子という物理的実体があります。「やみ」は物理的実体がありません。
さて、話しを創世記の初めに戻します。
初めに神は天と地を創り、地は茫漠として何もありませんでした。「何もない地」とは、「科学の法則、生命の法則、秩序と目的が存在しないまっさらな場所、空間、領域」です。そして、秩序と法則が存在しない地はやみで覆われ、その下に、大水が在りました。神はやみで覆われた地に「光があれ。」と言葉を発してやみの世界に光を放たれました。先ほど述べたように、「やみ(闇)」は実体が存在しない物理現象です。神は「やみ」という 実体のない無の世界、空間に、「光」という実体を創りました。そして、光は「物質の存在を認識させる」という物理的な性質を持っています。光は人間の目に入って来るすべてのものを人間が認識出来るように映し出させてくれます。これは、創造主と被造物の関係を表しています。光とやみの関係は、創造主なる神と被造物なる人間の関係を表しています。
神が天地創造で最初に行われたことは、暗闇の世界に光を放つことでした。暗闇の世界に光を放つことによって、創造主なる神と、これから創られる被造物の関係を表しました。すなわち、神は光であり、被造物は神の光によってその存在価値が見出されます。もし、被造物が光を失うなら、被造物は暗闇の存在となり、実体の無い、虚無の存在となります。また、聖書には、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と書いてあります。これは、神が物理的な光とやみの相対関係を通して、光とやみの力関係、創造主と被造物の力関係を表した言葉です。光には物理的実体があり、やみには物理的実体がありません。ですから、やみが光に勝つことはありません。あり得ないのです。もし、やみが黒色の電磁波や粒子だったら、暗闇が光に勝つことはあるかもしれません。空の太陽も雲が掛かれば光が遮られるように、空間に浮遊している「やみ」という黒い粒子と光の粒子がぶつかりあってやみが優勢になって光を消し去ってしまうかもしれませんが、そもそも「やみ」という現象には物理的な実体が無いのですから、やみが光を消し去ることはありません。あり得ないのです。 聖書はイエス・キリストを「光」として定義しています。イエス・キリストは、御自身を指して「私は光である」と宣言されました。聖書は「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」と言って、キリストの本質は光であることを明示しています。 神は光です。神によって創られた被造物は、神の光によってその存在価値が見出されます。人間は、光によって映し出された物や物事を、自分の目で認識して、その存在価値を見出します。光があるからこそ、すべてのものを自分の目で見て感じることが出来ます。そのように、神によって創られた被造物は、創造主なる神の存在によってその存在価値が見出されます。だから神が天地創造の初めに行われた事は、光を創ることでした。神は最初に光を創り、後に創られて行くすべての被造物は神の光に照らされながらその存在と存在価値が見出されるようにしました。ですからもし被造物が神の光を失うなら、被造物はやみの存在となり、やみ(暗闇)の世界に埋没してその存在も存在価値も失い、「無」の存在となります。サタンは元は光輝く天の使いでした。しかし神から離れた結果、神の栄光の光を失い、やみの存在となりました。やみの存在となったのですから、実体の無い「無」に等しいものとなりました。やみとなり、無の存在となったサタンが落とされた場所が、神が創られた「地」なる場所です。だから「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書いてあります。神が計画されたいのちの世界の場所に、天から追放されたサタンが逃げ込んで来て、自分たちの住処としました。そもそも、神が光を創られる以前の「やみ」がなんで存在しているのかが、天地創造の記録に書いてありません。「やみ」という現象は、いつ、どのようにして創られたのかが、書いてありません。それもそのはずです。「やみ」という現象は、神が創られたのではありません。光輝いていた天の御使いが神から離れた結果、御使いたちは光の輝きを失い、暗闇の存在となりました。それまで「有」の存在だった神に仕える御使いたちが、神から与えられた使命を捨てたので「無」の存在となりました。その「やみ」となり「無」の存在となったサタンが天から落とされた場所が、創世記1:2に書かれている「地」なる場所です。だから「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書いてあます。「光」と「やみ」の関係は、創造主と被造物の関係を表しています。そして、被造物の中に、神の性質、神の本質が啓示されています。パウロがローマ人への手紙で述べています。

ローマ人への手紙 1:20
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

被造物(人間)は神の光によってその存在価値が見出されます。ですから神によって創られた被造物なる人間が、同じ被造物なる人間に価値を付けることなど出来ません。被造物なる人間に価値を付けることが出来るのは、人間を創られた神だけが、人間を評価し、価値を付けることが出来ます。しかし罪によって神から離れてしまった人間は、同じ人間同士でお互いを評価しながら存在価値を見出す社会、世界を作りました。そこに神は居ません。そこで、神は、人類をやみの世界から救い出すために、真(まこと)の光であるイエス・キリストを人類に与えました。

7.万物はキリストによって造られキリストによって成り立っている

ヨハネの福音書1:9
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

「すべての人を照らすそのまことの光」とは、イエス・キリストのことです。キリストの光は、創世記1章3節で神がやみの世界に創られた光です。すなわち、キリストの光を以て、神は「光があれ。」と言葉を発してやみの世界に光を照らされました。そして、地はキリストの光に照らされながら六日の時を経て万物(被造物)は創られていきました。ですから万物はキリストの光に照らされることによってその存在と存在価値が見出されます。だから「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」と続いて書いてあります。神の光はイエス・キリストです。キリストの光に照らされながら万物は創られ、キリストの光によって万物の存在と存在価値は見出されます。もし、キリストの光に照らされなければ、万物は暗闇の存在となり、無に等しい存在となります。だから聖書は「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」と言っています。新約聖書の各書簡に、そのことが書かれています。

コロサイ人への手紙 1:13~17
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

ヘブル人への手紙 1:1~3
1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

ヘブル人への手紙 2:5~10
2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
2:8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

以上の記述の中で、創造主なる神と万物(被造物)の関係が書かれています。
「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
イエス・キリストは光です。そのキリストの光を以て、神は「光があれ。」と御声を発して暗闇の無の世界に光を照らされました。そして、キリストの光に照らされながら六日という区切りを経て万物は創られていき、キリストの光によってすべての被造物の存在価値が与えられました。だから「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」と書かれています。神と万物(被造物)の関係は光とやみの関係です。光の世界(キリストの光)に在った人類は、罪によってやみの世界に陥り、自分たちの存在理由と存在価値を失いました。そこで神は人類を罪(暗闇の世界)から救い出し、再び人類に光を照らして人類にその存在理由と存在価値を与えるために、御子イエス・キリストを人類に与えました。そして、イエス・キリストは、神が天地創造で最初に創られた「光」を以て人間の世界に来られました。だから聖書は「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」と言っています。

ヨハネの福音書 1:9~10
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

聖書に書かれている「世」とは、罪に陥った人間の世界です。暗黒の世界です。やみの世界です。物理的なやみと同じように、実体の無い世界です。虚無の世界です。本来、キリストの光に照らされながら作られていくはずだった光輝く人間社会が、罪によって暗黒の社会が出来てしまいました。しかし「やみ」という実体の無い虚無の世界に在りながら、キリストを信じる者はキリストの光によってその存在価値が見出されます。キリストの光によってその存在価値が見出された者が、世の光として人々の前に輝くことが出来ます。マタイの福音書に書いてあります。

マタイ5:1~3
5:1 あなたがたは、世界の光です。山の下にある町は隠れる事ができません。
5:2また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:3 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

神はイエス・キリストの天における栄光の輝きの光を以てやみの世界でさまよう人類に再び光を照らされ、再び人類の存在価値を見出そうとしました。それが神の救いです。

8.光とやみの関係

そして、神は光とやみを区別されました。光とやみを区別されたのは、物理的実体の無い暗闇の世界に物理的実体が有る光を放ち、光とやみは交わることが出来ない、互いに相容れることが出来ない物理的性質のものとして創られたからです。神はやみの世界に光を放つことによって、創造主なる神と被造物なるサタンの関係を示しながら、神と被造物の関係を表しました。すなわち、光は物理的実体が有り、やみは物理的実体が有りません。物理的実体が無いということは、「無(む)」なんです。なにも存在しないのです。暗闇が物理的研究のしようがないように、サタンは神の前には無きに等しいのです。被造物は創造主が存在して、はじめて被造物として存在しうるのであって、被造物が創造主から離れたら、無きに等しいものとなります。どんなに人間が自分たちの知恵や能力や体力を誇っても、そこに神が居なければ「無」なんです。「無」というのは、もはや価値が云々の問題ではありません。だって何も無いのですから。でも、サタンも人間も、神を無き者としながら自分たちの存在を誇ろうとします。光の神に敵対すれば、被造物は暗闇の存在となり、無き者となります。サタンをはじめとするやみの勢力がどんなに神に反抗して自分たちを誇ろうとしても、神の前には彼らは無きに等しい存在なのです。神が光とやみを区別されたのは、光とやみの物理的現象を通して創造主なる神と被造物なる人間の力関係を示すためでした。創造主なる神と被造物なるサタンとの力関係を示すためでした。だから、聖書は 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と宣言しています。神の創造は単なる物理的な創造だけではなく、光とやみの物理的性質を通して創造主と被造物の関係を表したように、物理的な万物の創造を通して神の国、神の本質を描写しています。そこが神の全知、全能たる所以です。イエス・キリストは御自身の宣教活動の中で、たびたび自然界を指しながら神の国を語っています。たとえば「野のゆりがどうして育つのかよくわきまえなさい。」「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず刈り入れもせず」というように。また、キリストの譬え話は、ぶどうの木のように、自然界を指して神の国を語っています。これは、自然界の中に自然界を創られた神の性質、神の本質をキリストが見ているからです。そのように、天地創造の記録の中に神の性質、神の本質、創造主なる神と被造物なる人間の関係が示されています。

9.神が万物を創られた証

神はやみの世界に光を放ち、光とやみを区別して、光を「昼」と名付け、やみを「夜」と名付けました。おもしろいですね。神様は御自身が創られたものにちゃんと名前を付けました。これはとても大事なことで、名前を付けたのは、光とやみの実体を表し区別するための呼び名として名前を付けたのと同時に、万物の法則は神が創り、神が支配されていることを証明するためです。人間は、自分の子どもに名前を付けることによって親子の関係を証明します。両親は、名前によって自分の子どもであることを、子どもは、名前によって自分の両親であることを証明します。それと同じように、神は御自身が創られたものに名前を付けることによって、万物は神によって創られ、神の所有物であることを証明しています。
私は今まで何回か落し物を拾い、交番に届けて、後から落し主から謝礼を頂いたことがあります。また、自分が落し物をして、後に、警察を通して戻って来たこともあります。もし、私が3万円入った普通の黒革の財布を落としたとしましょう。3万円と一緒に、免許証とかクレジットカードとか診察券とか、何か自分を証明する物が財布の中に一緒に入っていれば、交番に届けて出て財布が戻って来る可能性は十分あります。しかし財布の中身が3万円だけで、財布が自分の所有物であるということを証明するものが何も入っていなければ、戻って来ることはないでしょう。だって財布の中は1万円札が3枚だけで、落し主がどこの誰だかまったく分りませんから。私が「いつ、どこで、黒革の財布を落としました」と交番に届け出て、なおかつ、拾い主が拾った情報と一致すれば、戻って来る可能性はあります。しかし、それだけでは落し物が返却されるには不十分です。なぜなら財布の中に落し物が私の物だと証明するものが何もないからです。だから人は自分の所有物に名前を書いたり、あるいは自分の所有物であることの痕跡をなんらかの形で刻みます。人が自分の物に名前を書いたりするのは、その物が自分の所有物であることの証として自分の名前を書きます。神が「光があれ。」と言葉を発して光の現象を創り、光を「昼」と名付け、やみを「夜」と名付けたのは、光という物理現象は神が創り、神が光の所有者であることの証明です。人間は科学によって光は電磁波であり粒子であることを解明しましたが、では、なぜ、「光」なるものが存在しているのか? という光の本質そのものを解明することが出来ません。聖書は「光は神が創り、神が光に昼と名を付けました。だから光が存在しているのは神が光を創られたからであり、光の本質は神にあります」と証しています。「光の所有者は神であり、光を『昼』と名前を付けたのは神です」と証しています。人間が自分の所有物に自分の名前を書いて自分が所有者であることを証明するように、あるいは自分の子どもに名前を付けて親子の証明をするように、神は御自身が創られたものに名を付けることによって「万物は神の所有物である」ことを証明しました。先ほどの落し物の3万円が入った財布は落し主(所有者)本人が名乗り出ない限り、財布の所有者は誰だか分りません。それと同じように、光はなぜ存在しているのかは、光を創り、光を所有している方が名乗りでない限り、分りません。だから神は光を「昼」と名付けることによって、光の本質は神にあることを証明しました。ですから、人間の科学や物理では分らない光の本質は神にあります。神が光を創られたので光が存在しています。神が万物を創られたので万物が存在しています。

10.光を創られた目的

そして「夕があり、朝があった。第一日。」と書かれています。この「夕があり、朝があった。第一日。」という記述が、その解釈をめぐって神学論争になっています。普通に考えるなら、「朝があり、夕があった。」あるいは「朝があり、夜があった。」と記述されると思います。つまり「夜」の記述がありません。 現代の私たちの時間の感覚からすれば、朝が一日の始まりですから「朝があり、夕があった。」という表記の方が理解出来ます。私たち人間の感覚からすれば、太陽が昇り始める「朝」が一日の始まりで、それから時間が経つにつれて「昼」になり、やがて太陽が沈む頃が「夕」になり、完全に太陽が沈むと暗闇の「夜」になります。サラリーマンの一日は「朝起きて朝食を食べて会社に行き、昼間一生懸命仕事をしてお昼になったら昼ご飯を食べてまた仕事をして、夕方になったら仕事を終えて家に帰り、夜になったらお酒を呑んでご飯を食べて風呂に入って寝る」というサイクルですから、「朝があり、夕があった。」という表現の方が理解し易いです。この記述は、人間の感覚で解釈すれば、「太陽による一日の時間の流れ」と思われるので、「天地創造の第一日の創世記1:3~5の記述は太陽が創られた記録で、太陽に対して地球が自転しているので『夕があり、朝があった。』と書かれている」と解釈されます。ところが実際の太陽は第四日の創世記1:14~19で創られました。太陽は天地創造の第四日に創られたのに、なぜ、第一日から第六日のそれぞれの節の文末に「夕があり、朝があった。」と書かれているのかが謎で、この記述に関していくつかの解釈があり、議論されています。

聖書は神の言葉です。神の霊に感じた人々が書いた書物です。ですから読む側も神の霊に感じて読まなければその意味を理解することは出来ません。「神の霊に感じる」とは、神の視点から聖書を読むことです。神の側に立って聖書を読むことです。神の感性で聖書を読むことです。神の価値観で聖書を読むことです。天地創造の記録は、神の万物の創造の過程を神の視点で書かれたものです。ですから人間の側から人間の視点で読んで理解しようとしても理解出来ません。人間の側に立って人間の感性で理解しようとしても理解出来ません。それを前提にして、私は聖書を読んでいます。では、本題に戻ります。

また、物理的なお話になりますが、地球は球体で、一回転24時間かけて自転しながら、太陽の周りを一周365日かけて回って(公転)います。太陽に対して自転しているので地球には光の加減による「朝・昼・夕・夜」の時間の経過があり、傾きながら公転しているので「春・夏・秋・冬」の季節があります。これは、神が天地創造の第四日目に太陽と月を造り「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。」と仰せられたので、一日の時間の経過、一年の季節の移り変わりが出来ました(創世記1章14節~19節)。 私たち人間は、その神が造られた時間と季節の中で生活しています。神は太陽と月をはじめとした天体によって時間と季節の標を作り、私たち人間はその中で生活をして、また、物理の研究をしています。そして、その人間の時間の感覚で天地創造の記録を解釈しようとするから、混乱します。人間の感性で「夕があり、朝があった。第一日。」との記述を理解しようとするから、辻褄が合わなくなって来ます。では、整理してお話しします。
神は天地創造の第一日に光を創りました。

創世記1:1~5
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

そして第四日に「光る物」を創りました。

創世記1:14~19
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。

神は創世記1:1~5の第一日にやみ(闇)の世界に光を創り、創世記1:14~19の第四日に太陽と月を創り、地球を光で照らされるようにされました。私たち人間は、創世記1:14~19で神が創られた天体の環境の中に存在しているので、当然、天地創造の記録も、創世記1:14~19の環境の中から、創世記1:1~5の世界を理解しようとします。しかし客観的に読めば分るように、神が創世記1:1~5で創られた光は、創世記1:14~19で創られた天体による光ではありません。創世記1:14~19の光は太陽や月や星などの天体による光源であることが書かれていますが、創世記1:1~5では、神は「光があれ。」と言葉を発しただけで、具体的(物理的)にどんな光なのか? この光の光源は何なのか? ということは書かれていません。これは、創世記1:1~5では「やみ」の世界、空間に「光」という「物理」を創るのが神の目的であったからです。神はここで光源の無い光を創りました。そして、その意図は、「光」という物理を創ることによって「やみ」という物理の本質、霊的な実体(やみの勢力の存在)を表わにすることにありました。だから神はやみの世界に光を放ち、光とやみを区別されました。それによってやみの勢力(サタン)は光(神)の前に無の存在であることを神は示しました。神は創世記1:1~5で「光」という物理を創ることによって、霊的な世界における神とサタン、神と被造物の関係を定義されました。

創世記1:3~4
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神の天地創造の記録は、物理的な創造を通して霊的な神の世界を描写しています。これは、聖書全体を理解する上でとても重要なことなので、承知しておいて下さい。

11.見える光と見えない光

さて、私たち人間は、「光」というと、どうしても「光源」をイメージします。光が発生するためには、光が発生するための「光の源」が存在しなければ光は発生しません。光源の無い光なんて存在しません(実際には存在しますが)。ですから、当然、創世記1:14~19で神が創られた天体(太陽と月)を光源とする光をイメージします。その天体による光源のイメージを以て創世記1:1~5の光とやみの世界を理解しようとするから、混乱します。
一般的に、物理的に光を発生させるためには、電気的な方法と化学的な方法があります。電気的な方法とは、たとえば、雷は数億ボルトの電気が数千メートルの上空から一気に地表に向って流れるために電流と空気の間に生じる摩擦熱によって光が発生します。家庭で使われている白熱電球も、フィラメントという抵抗体に電気を流すことによって生じる熱が光となって発光します。あるいはLEDランプ(発光ダイオード)のように半導体素子に電気を流すことによって発光させることも出来ます。化学的な方法では、マッチのようにリンや硫黄といった化学物質を用いて摩擦熱による引火で火を起して光を発光させたり、都市ガス(LNG)やプロパンガスなどで火を点して光を発光させる方法があります。そして、光はある条件によって発生する物理的な性質、現象です。光そのものは電磁波であり粒子ですが、普段は存在しません(実際は存在するのですが)。しかし、今述べたように、電気的にしろ、化学的にしろ、ある物理的条件が揃うと「光」という現象が発生します。創世記1:1~5の時点では、まだ、光る天体は創られていませんでしたから、ここでは神は「光があれ。」と御声を発して光の本質、光という現象を創りました。では、「光の本質」とは、なんでしょうか? 物理の見地から「光の本質」について考えてみましょう。

物理による光の定義では、光は電磁波の性質と、粒子の性質を持った「ある現象」です。そして、電磁波は波長の短いものはガンマ線の10pm(ピコメートル)以下から、波長の長いものは通信電波のように100km(キロメートル)までの波長があり、その波長の中から人間の目で可視出来る(人間の目で感知出来る)光の波長帯を「可視光線」と言います。可視光線は虹やプリズムのように光の屈折によって光の波長による色の区別を見ることが出来ます。私たち人間が見ている世界はすべて色彩(カラー)で成り立っており、色彩の色は光の波長によって決まります。そして、一般に、光の定義は狭義では私たち人間の目で感知している可視光線を「光」と呼び、物理学の世界のように広義では波長の短いガンマ線から波長の長い電波に至るすべての電磁波の帯域を「光」と呼びます。私たちは一般に狭義の意味で「人間の目で可視出来る光」を以て「光」と言っています。しかし物理の世界では人間の目で感知出来ない、可視することが出来ないガンマ線、X線、紫外線、赤外線、電波も含めたすべての電磁波の波長帯を「光」として定義されます。つまり、光には「人間の目で可視することが出来る光」と「人間の目で可視することが出来ない光」が存在します。人間の目に見えない光とは、たとえばテレビなどの家電製品のリモコンは人の目に見えない光である赤外線を発信しています。赤外線の光はデジタルカメラやスマートフォンのカメラで見ることが出来ます。デジタルカメラのCCDセンサーがリモコンから発信される赤外線を感知するので写真やビデオで赤外線が光る様子を見ることが出来ます。部屋を暗くして、フラッシュをOFFにして、リモコンのセンサー部(発光ダイオード)をデジタルカメラのレンズの前に置いて、リモコンがOFFの時とONの時を写すと、ONの時にセンサー部が光っているのが分ります。つまり、「赤外線は光であり、人間の目で感知することが出来ない光である」ということです。昨今は「深海ブーム」だそうで、テレビで謎の深海魚や巨大イカの映像を見ることが出来ます。光が届かない真っ暗闇の世界にも生物が居ます。深海魚の目には何が映っているのでしょうか?  どうやって獲物を感知しているのでしょうか?  一部の蛇やコウモリは赤外線を感知する機能を持っています。「赤外線」とは、人間の目は可視光線の赤色の波長まで感知することが出来ますが、赤色の波長よりさらに長い波長の電磁波は人間の目では感知出来ないので、「赤色の波長から外れた光線」という意味で「赤外線」と呼んでいます。逆に「紫外線」とは、紫色の波長よりさらに短い波長の電磁波は人間の目では感知出来ないので、「紫色の波長より外れた光線」という意味で「紫外線」と呼んでいます。太陽の光には人の目に見えない紫外線が混じっているので、女性の方々は紫外線対策としてお肌にクリームを塗ります。光の本質は電磁波と粒子であり、電磁波の波長帯域によって「目に見える光」と「目に見えない光」に分類されることを知っておいて下さい。
さて、話しを元に戻します。
神が天地創造で初めに行われたことは、暗闇の地に「光があれ。」と御声を発して光を創ることでした。暗黒の何も存在しない「無」の世界に光の本質である電磁波と粒子を創りました。「無」の世界に「有」が創られた瞬間です。そして、創世記1:14で、初めて「光る物」という固体的な表現が出て来て、創世記1:16で、「二つの大きな光る物」を創られ、大きい光る物を太陽として昼を司らせ、小さい光る物を月として夜を司らせました。物理的に光を発する光源は天地創造の第四日に創られました。ですから創世記1:1~5で創られた光は「光源の無い光」です。「光源の無い光」とは、電磁波と粒子です。光の本質です。創世記1:2に「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書いてありますから、太陽のような一点から放つ光ではなく、神の霊に包まれた大水全体に、一斉に光が放たれたと私は理解しています。ですから聖書を基準にして考えるならば、電磁波と粒子が宇宙の始まりということになります。そして、何も無い空間に電磁波と粒子が活動したのですから、そこに熱が生じました。電子レンジのように電磁波の活動によって「大水」が熱を持ち、地球の創造が始まりました。神の天地創造は、何も無い世界に光による電磁波と粒子と熱という物理を創ることから出発しています。そして、光そのものは普段は存在しません。というか、先ほど述べたように存在しているのですが、人間の目で感知出来る光の波長帯域(可視光線)が限定されているので、可視光線より外れたガンマ線、X線、紫外線、赤外線、電波などの波長の光は人間の目で感知出来ないだけのことです。人間の体温の熱からは赤外線が放射していますが、人間の目でそれを見ることは出来ません。しかし赤外線カメラを使えばその様子を見ることが出来ます。光には、人間の目に見える光と人間の目に見えない光があります。大事なことは、電気的にしろ化学的にしろ、ある物理的条件が揃うと人間の目で感知出来る「光」という「現象」が発生します。神は創世記1:3で光を創り、創世記1:14~18で光を放つ光源を創りました。「光」と「光源」とは、その意味は違います。創世記1:3で神が創られた光は可視光線をはじめとするガンマ線、X線、紫外線、赤外線、電波も含めたすべての波長による光です。そして創世記1:14~18で「宇宙空間に恒久的に電磁波と粒子を放つ物体」という意味で恒久的に光を発する太陽をはじめとする「光る物」を創り、創世記2:7で人間の体(目)を造る時に「光る物」が放つ電磁波の波長の中から特定の波長の帯域を可視出来る体のセンサーとして人間の顔にある二つの目玉を造りました。つまり、神の万物の創造は、すべて後で登場する人間をはじめとした「いのちある生き物」を前提にして進められています。「光」と「光る物」とはその意味は違います。「光」と「可視光線」とは物理的な定義は異なります。「可視光線」は光の中の一部の帯域、範囲を定義しています。ですから「光」と「光る物」とは次のような違い、流れになります。
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創世記1:2
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
(秩序も目的も存在しない暗やみに覆われた「無」の世界にいのちの源である「大水」が在った)
   ↓
創世記1:5 「光があれ。」
(「無」の世界に物理的な光の本質である電磁波と粒子と熱が発生する。「無」の世界に「有」の世界が誕生日した瞬間です)

創世記1:14~18
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
(電磁波と粒子を恒久的に放出する個体的な物体を創り宇宙に置いた)
   ↓
創世記2:7
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
(人間の体を造る過程で光の本質である電磁波と粒子を感知することが出来るセンサーとしての人間の目を造り、人間が電磁波を可視出来る範囲を神が定義された)
ですから光と人間の目はセットになっています。太陽が発光部で人間の目が受光部になります。先ほどお話したリモコンと家電製品の関係です。リモコンの発光ダイオードから発信された赤外線を電気製品のフォトダイオードが感知して家電製品は作動します。人間の目は創世記1:3で神が創られた光を感知して認識するために造られました。人間の目は赤外線を感知することは出来ませんが、一部の蛇やコウモリのように赤外線を感知する機能を持った生物もいます。また、デジタルカメラに使われているCCDセンサーは赤外線を感知します。可視光線としての光の定義は電磁波を感知するセンサーの感度の違いで決まります。さらに電磁波の波長帯域によって色彩を認識することが出来ます。
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大事なことは、「光が最初に創られ、人間の体(目)は後から造られた」ということです。テレビとリモコンがセットになっているように、光と人間の体の目玉はセットになっています。創世記1:3に書かれている神による光の創造は、後から造られる人間を前提として進められています。神の創造は行き当たりばったりではありません。すべて綿密な計画を以てなされます。
さて、私たちが聖書を読むとき、創世記1:3で創られた光は「可視光線」としての光として理解しようとします。ですから、当然、「創世記1:3で可視光線を放つ太陽が創られた」と理解します。しかし、今まで述べて来たように、可視光線は人間が居て初めて定義されます。神が人間の体(眼球と視神経)を造る時に、すべての電磁波(光)の中から特定の波長帯(光)の電磁波を以て「可視光線」という定義がなされました。「光の定義」はそれぞれの生き物によって異なります。ですから「まだ人間が存在していない創世記1:3の時点では可視光線は存在していない(定義されていない)」ということになります。創世記1:5で創られた光は「無の世界、空間に、光の本質である電磁波と粒子が放たれた」ということです。私たちが一般的に認識している光は「可視光線」としての光であり、それは「人間の側から見た光」です。創世記1:3で神が創られた光はガンマ線から電波に至るすべての電磁波としての光であり、「神の側から見た光」です。話が込み入って申し訳ありませんが、私の言っていることが理解出来たでしょうか?
私たち人間は、「光」というと、「可視光線」としての光をイメージします。太陽を見ると眩しく感じる光です。もちろん太陽の光は光であることには変わりません。ですから、当然、創世記1:3で創られた光は、人間の目で可視出来る光をイメージします。その結果、神が「光があれ。」と言って創られた光は「太陽を光源とした光が創られた」と解釈されます。そして、それを前提として「その光源に対して地球が自転して光による日陰の変化が出来て『朝・昼・夕・夜』という一日の時間の流れが出来たので、その流れを以て『夕があり、朝があった。第一日。』という記述がなされた」と解釈されます。しかし天地創造の記録を客観的に眺めて見ると、聖書的にも、物理的にも、「太陽が第一日に創られた」という解釈は、どう考えても、無理があります。
そして、光という物質の始まりによって、時間と空間の概念が誕生しました。ボールがA地点からB地点に移動すれば、そこにボールの移動時間と移動距離が生まれます。そのように、物質が動くことによって、そこに時間と空間の概念が誕生しました。
次に、神は光とやみ(暗闇)を区別されました。天地創造の記録は、物理的な世界の創造を通して人の目には見えない霊的な世界を描写しています。光はイエス・キリストの象徴で、やみはサタンの象徴です。すなわち、やみの世界に光を放つことによって、光の神とやみのサタンの関係を表しました。創造主なる神と被造物なるサタンの関係を表しながら、創造主なる神と被造物なる人間の関係を表しました。光は物理的実体があり、やみは物理的実体がありません。サタンのように被造物は自分たちが創られた本来の目的から外れたら、創造主の前に無に等しい存在となります。無きに等しい存在となります。聖書が定義している「罪(つみ)」とは「的外れ」という意味です。被造物が神によって創られた本来の目的、使命から外れることを「罪(つみ)」と言います。サタンは自分たちが居るべき本来の場所から外れて神から与えられた使命を捨てたので、自分たがまとっていた神の栄光を失い、やみの存在となりました。

ユダの手紙1:6
1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

ですから被造物なる人間が、自分たちが神によって創られた本来の目的、使命から外れた行為を行えば、サタンと同様に人間は罪の存在となり、暗やみの存在となります。
さて、ここまで光の本質について、光と光源の違いについてお話しして来ましたが、では、「夕があり、朝があった。第一日。」という記述は、どういう意味なのでしょうか?

12.創造の区切り

創世記1:1~5で神が光を創られた時点では、太陽や月などの光る天体は存在していませんでした。にもかかわらず「夕があり、朝があった。第一日。」と書かれています。しかも、この記述が天地創造の第六日まで書かれています。「夕があり、朝があった。第一日。」という記述の解釈について、大事なのは、要は「物理的な太陽は、何時、創られたのか?」という一点に尽きます。
創世記1:3で神は「光があれ。」と声を発して「光そのもの。光の本質」を創りました。それに対して創世記1:14では「光る物」という言葉が使われ、「光る物」という光を発する物理的な光源、すなわち太陽と太陽の光を反射する月が創られ、太陽と月と地球と星座の関係によって、時間と、季節と、日と、年の、概念が誕生日しました。「しるしのため」とは「時間による印」のことですよね? 「季節のため」とは「地球が傾きながら太陽の周りを公転している」ということですよね?「日のため」とは「地球が太陽に対して自転している」ということですよね? 「年のために」とは「地球が自転しながら正確な軌道と速度で太陽の周りを公転している」ということですよね? さらに「太陽と地球をはじめとする惑星の間には引力が働いている」ということですよね?  これほど地球と太陽の関係が具体的に、物理的に書かれているのですから、太陽は、明らかに第四日に創られました。ですから、少なくとも創世記1:3~5で創られた光は太陽を光源とした光ではありません。さらに、それを裏付ける決定的な記述が、創世記1:14~19に書かれています。

創世記1:14~19
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。

創世記1:18に「・・・光とやみとを区別するようにされた。・・・」と書かれています。あれ? この記述は創世記1:4にも書いてありましたよね?

創世記1:3~4
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

創世記1:4に書かれている「神は光とやみとを区別された。」とは、これは創世記1:2に書かれている「やみが大水の上にあり、」の「やみ」に対する光の区別です。ですから創世記1:4の「神は光とやみとを区別された。」とは「光そのものの固有の性質を、すでに大水の上に在ったやみと区別するようにされた」という意味です。それに対して創世記1:18に書かれている「光とやみとを区別するようにされた。」とは、その前に昼を太陽に司らせ、夜を月に司らせ、その昼と夜を以て「光とやみとを区別するようにされた。」のです。つまり、太陽と月の光に照らされながら地球の自転によって区別された昼(光の世界)と夜(やみの世界)を指して「光とやみとを区別するようにされた。」と書かれています。太陽と月と地球の位置関係と、地球の自転、公転によってもたらされる地球上の昼(光の世界)と夜(やみの世界)を指して「また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。」と記述されています。「光とやみとを区別するようにされた。」とは、「太陽に対して地球が自転を始めた」という意味です。地球の自転によって光(昼)とやみ(夜)が交互にやって来ます。地球の自転によって光(昼)とやみ(夜)が区別された証拠です。だから創世記1:5で神は光を昼と名付け、やみを夜と名付け、その流れを以て創世記1:16で大きいほうの光る物(太陽)と小さいほうの光る物(月)を創り、二つの光る物を天の大空(宇宙空間)に置いて地球を照らしながら地球の自転によって光とやみを区別するようにされました。ヨブ記26章に神による地球の自転の始まりが書かれています。

ヨブ記26:7~11
26:7 神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。
26:8 神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。
26:9 神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、
26:10 水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。
26:11 神がしかると、天の柱は震い、恐れる。

7節の「虚空」とは「宇宙」です。まだ、地球以外の天体は創られていませんでしたから、宇宙は何も存在しない「虚空」の世界でした。虚空の「宇宙空間」に、創世記1:2に書かれているいのちの源である「大水(地球)」に東西南北という空間(方向)の概念を作り、地(地球)を何もない上に掛けられました。宇宙空間に地球の北を上にして置かれました。8節の「神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。」とは、創世記1:6~8に書かれている「大空の上の水」のことです。「・・・その下の雲は裂けない。」と書かれていますから、まだ、地上に雨が降ることはありませんでした。これは、創世記2:4~5に書かれている「それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、」という記述を裏付ける内容です。そして、10節に「水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。」と書かれています。「水の面に円を描いて、」が、地球の自転の始まりです。ちょうどコマを回すように、北極と南極を回転軸として円を描くように地球の自転が始まり、その結果、太陽の光による光の世界とやみの世界が交互に訪れ、神は光とやみの境とされました。「境」とは、光とやみの「時間的な区切りを付ける」という意味です。太陽と月と無数の星々は創造の第四日に創られて、創造の第一日には太陽と月をはじめとする天体や光る物はまだ創られていないのは明白な事実です。ということは、「創世記1:1から1:31に書かれている『夕があり、朝があった。』という記述は、地球の自転による『朝・昼・夕・夜』の時間の流れではない」ということになります。
みなさん、仮に、もし、創世記1:1から1:31に書かれている「夕があり、朝があった。」という文言が無ければ、どうなるでしょうか? 実際に創造の第一日から第六日のそれぞれの末尾に記されている「夕があり、朝があった。」の文言を省いて創生1:1~1:31を読んでみて下さい。全体の流れから、創世記1:3では「光」という物理が創られ、創世記1:16では恒久的に光を放つ宇宙空間に浮かぶ太陽が創られたことが判り、創世記1:3の時点では太陽が創られていないことがハッキリするはずです。そして、創世記1:17~18で、地球の自転が始まったことが分ります。ですから太陽と月は創造の第四日に創られたのであって、創造の第一日には創られていません。
そして、「夕があり、朝があった。」という記述のもう一つの解釈が、「ユダヤ民族の暦は日没が一日の始まりだから『夕があり、朝があった。』と書かれている」という解釈です。しかしこの解釈も「第一日目に太陽が創られた」ということが大前提にあります。太陽が第一日に創られていないとなれば、「太陽が第一日に創られた」ということを前提にした「ユダヤ民族の暦は日没が一日の始まりだから『夕があり、朝があった。』と書かれている」という解釈は聖書の記述と矛盾します。それから、ど~~~も気になってしょうがないのですが、「ユダヤ民族の暦は日没が一日の始まりだから『夕があり、朝があった。』と書かれている」という解釈ですが、これはどういう意味なのでしょうか? つまり、「神の言葉に対してユダヤ暦が優先されて記述されている」ということでしょうか?  「本来、一日の流れを表記する別の神の言葉があって、それに対して夕が一日の始まりとするユダヤ暦がすでにあったので、著者がユダヤ民族が理解しやすいように『夕があり、朝があった。』と書き記した」ということでしょうか? それとも「神様はユダヤ民族が理解しやすいようにすでにあったユダヤ暦に合わせてこのような記述をさせた」ということでしょうか? 真意は分りませんが、だとしたら、これも本末転倒です。神様は人間の都合に合わせて御自身の言葉を曲げる方ではありません。そもそも、創世記1章2章は人間が存在する前の神による天地創造が書かれた文章です。人間が創られる前の記録です。人が罪に陥る前の記録です。そこに、なんでユダヤ暦が出て来るのでしょうか? ユダヤ暦云々というのは人が罪に陥った後の問題です。創世記3章以降の問題です。創世記1章2章はただ純粋に、単純に、神御自身が「私はこのような順番で、手順で、万物を創り、人間を創り、動物を創りましたよ」という証をある特定の人物にストレートに書かせた文章です。人が罪に陥るのを前提に書かれた文章ではありません。ユダヤ人、ユダヤ暦を前提に書かれた文章でもありません。神がユダヤ民族に気を使って理解し易いようにユダヤ暦を用いて書かせた文章でもありません。著者が自分たちの感覚で勝手にユダヤ暦を使って書いた文章でもありません。神とユダヤ民族の順番が逆です。主体があべこべです。私が言っている意味が理解出来るでしょうか?
要するに、これは「神学」の問題です。「聖書観」の問題です。「聖書は神の言葉である」とは、どういう意味なのでしょうか? という問題です。
ただ、問題を「ユダヤ暦」だけに絞って「ユダヤ暦はなぜ日没を一日の始まりとしているのか?」という疑問に対しては、「創世記1:2に書かれている『やみ』を根拠としているのでユダヤ暦の一日は日没から始まっている」という理由なら理解出来ます。「神の初めの創造の業はやみの世界に『光があれ。』と声を発して光を放たれのですから、これを根拠としてやみ(夜)を一日の始まりとするユダヤ暦が誕生した」という考えが成立ちます。「神が書物としての『創世記』を著者に書かせ、それを読んだ当時のユダヤ民族が神の天地創造の手順に従って神と同じようにやみ(夜)が始まる日没を一日の始めとした」ので、ユダヤ暦は日没が一日の始まりとなり、また、聖書に書かれている安息日の規定や人類の六日間働いて七日目に休むという習慣も神の天地創造の記録に由来する、ということになります。
そして、もう一つの解釈が、「そもそも神の国自体が人間の世界と同じ『朝・昼・夕・夜』という一日の光の変化による時間の流れがあるから『夕があり、朝があった。』という記述がされている」という解釈です。神の国も地球のように球体で神の国が太陽のような光源の周りを回っているのでしょうか?  聖書を読む限り、神の国に暗闇は存在しません。暗闇が無限に覆われた世界の中に神の国が在るわけではありません。神の国に暗闇は存在しません。ヨハネの黙示録を読めば分ります。先ほど述べたように、私たち人間は「可視光線」としての光を以て「光」を理解しているので暗闇が無い世界なんてあり得ないと思っています。しかし、もし、人間の目が、ガンマ線から電波まで、すべての電磁波を可視出来るとしたらどうなるでしょうか?  おそらく「夜(やみ)」が存在しません。夜でも実際には目に見えないなんらかの電磁波で地球は包まれているはずです。ですから夜(やみ)が存在しないことになります。また、神の国に時間と空間の概念は存在しません。私たち人間は時間と空間の概念の中で存在しているので私たち人間の世界の時間と空間が無限に、限りなく、終わりなく、続いていることが「永遠」であると思っています。聖書に書かれている「永遠」とは「時間と空間の概念が存在しない世界」という意味です。神は時間と空間に縛られるお方ではありません。
さらに、「太陽は第一日目に創られた」ということを前提に「一日24時間(地球の自転周期)の流れを以て六日間で神は万物を創られた」と解釈する人たちもいます。「神は一日24時間×6日間の時間の中で万物を創られた」という解釈です。しかしこれも聖書の記述と矛盾します。この解釈でいくと、創造の第一日に神が太陽、あるいは何かの光と地球が出来て、光に対して地球を自転させて、後に、その自転周期を1回転24時間に人間が定義したわけですよね?  神は時間と空間を創られるお方です。時間と空間を創られる創造主が、御自身が創られた時間と空間に縛られることなどありません。あり得ないのです。創造主なる神が、御自身が創られた時間と空間という物理的な「被造物の家」に、果たして住むことが出来るでしょうか? 神は永遠の先に居られ、これから後も、永遠に存在されるお方です。アルファであり、オメガです。その神が、御自身が創られた時間の中に入ることなど出来るわけありません。もし、御自身が創られた時間の中に入ったら、神は永遠の存在ではなくなります。つまり、神が神で無くなります。本末転倒です。だから、天の御使いが居るのです。神は御自身が創られた時間と空間の世界に入ることが出来ないので、神の世界と人間の世界の橋渡しをするために天の使いが存在します。新約聖書の黙示録には天に居られる神の命令によって天の使いが地上の世界で事を行われる様子が書かれています。もちろん神は度々この地上の世界に臨んで御自身の業を行われますが、それは、時間と空間を超越した神の霊が臨むのであって、神御自身が時間と空間に縛られることはありません。だから、神は全世界に居る一人一人のクリスチャンの人生に対応することが出来ます。仮に、24立方センチメートルの箱の中に、大人の人間が入ることが出来るでしょうか? 縦24cm、横24cm、奥行き24cmの小さな箱です。そんな小さな箱の中に、大人の人間が入れるわけがありません。神からすれば、一日24時間というのは、人間が住むための一日24時間という時間と空間の箱を創ったに過ぎません。また、人間の体は、一日24時間のリズムで活動するように創られています。一日24時間というのは、神が人間のために設定された物理的な概念にすぎません。神は時間と空間を創り支配するお方です。私たち人間の世界の時間の概念は、創造の第四日に神が「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられて太陽と月と星座を創られたので、地球に住む私たち人間の時間の概念(一日24時間)が誕生しました。そして、先ほどお話ししたように、創造第一日の時点では太陽や月などの光る物は存在していません。ですから「太陽(あるいは何か光るもの)は第一日目に創られた」ということを前提に「一日24時間(地球の自転周期)の流れを以て六日間で神は万物を創られた」という解釈も、聖書の記述に対して無理があります。あの~~~・・・地球上の「朝・昼・夕・夜」という光による日陰の原因となっている太陽と月は第四日に創られたのは紛れもない事実ですよね?  だって創造第四日の創世記1章14節~19節にはっきりと太陽と月を光源とする光る物を神が創られたと書いてあるのですから。ということは、「創世記1章3節~5節で神が創られた光は太陽ではない」ということですよね? 様々な先入観を排除して、素直に、単純に、天地創造の記録を読めばそうなりますよね? にもかかわらず「第一日目に太陽などの光源が創られて、地球の自転が始まって、朝・昼・夕・夜という暦が出来た」という解釈は、どう考えても聖書の記述に対して無理があります。この問題の要点は、「物理的な太陽は、何時、創られたのか? 太陽は、神の創造の第何日に創られたのか?」ということです。聖書にはっきりと太陽(光る物)は第四日に創られたと書いてあるのですから、第一日に太陽は存在していません。ですから「第一日目に太陽が創られた」という前提で展開された解釈論は聖書の記述と矛盾する、ということになります。天地創造における「夕があり、朝があった。第一日。」という記述は、人間の世界における一日の時間の経過を表しているわけではありません。人間の世界の物理的な時間の経過を表した言葉ではありません。神の世界における天地創造の経過を表した言葉です。話が込み入って大変分かりづらいと思いますが、創世記1:1~5をよく読んでみて下さい。

創世記1:1~5
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

神は最初に「光があれ。」と御声を発して、やみの世界に光を放ちました。しかし、これは、物理的な光の本質を創られたのであって、太陽や月のような光源を創られたのではありません。物理的な光の本質とは、電磁波と粒子を以て光の性質を定義されました。電磁波と粒子によって人間の目に物事の存在を認識出来るような仕組みを創った結果、「光」という物理的な性質が出来ました。第一日目のこの時点では、神は光の本質、光の性質を定義され、そして光を「昼」と名付け、やみを「夜」と名付けました。ですから神からすれば、光に「昼」という名前を付け、やみに「夜」という名前を付けただけであって、ここで言う昼と夜は時間の経過を表しているわけではありません。先にお話ししたように、御自身が創られた光に「昼」という名前を付けることによって光の創造者は神であることを証明し、やみ(闇)に名前を付けることによってやみ(闇)も神の支配にあることを証明しただけの、単純な話しです。神は光を「昼」と名付け、やみを「夜」と名付けました。では、「夕」とは何の名前でしょうか? 「朝」とは何の名前でしょうか? 「昼」は光の名前で「夜」はやみの名前ですから、当然、「夕」と「朝」も何かの名前ですよね? でも、何の名前かは書いてありません。ですからますますわけが分からなくなって来ます。「夕」と「朝」は何かの名前ではありません。それは、「神の時の流れ」を表しているからです。「神の時の流れ」と言っても理解出来ないでしょうから、誰でも理解出来るように、ここで、創世記1章1節~5節の状況を物理的に再現してみましょう。
みなさんのお家で、陽が落ちて夜になったら、部屋のカーテンを閉めて、出来れば雨戸も閉めて、外から光が入らないようにして下さい。そして、テーブルの上にコップを二つ置いて、片方のコップだけに水を容れて下さい。さらに、みなさんが神様になったつもりで、部屋の灯りを消して下さい。部屋の中が真っ暗闇になりました。部屋が真っ暗闇な状態で何も見えません。これが、創世記1章2節の世界です。

創世記1:2
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」という世界です。水の上に暗闇が広がる世界です。コップの水の上に暗闇が広がっています。次に、「光があれ!」と声を出して、部屋の電灯のスイッチを入れて下さい。すると、部屋一面が明るくなり、暗闇が消えます。(ここでは便宜上、部屋の電灯による一点からの明かりを付けましたが、実際に神が放った光は部屋全体から発した光です。「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書いてありますから、水の上で活動していた神の霊によって水と周りの暗闇の空間に光が放たれ、また、この時点ではまだ可視光線の定義はなされていません)
これが、創世記1章3節~5節の世界です。

創世記1:3~5
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

灯りを点けたままの状態で、次に、神は第二日に水と水の間に大空を創り、大空の上にある水と大空の下にある水を区別して雲と海を創りました。みなさんは大空と雲と海は創れないので、最初に用意した水が入っているコップの水を水が入っていないコップに半分移して下さい。そして、片方のコップの水をヤカンに移してコンロで沸騰させて下さい。沸騰したヤカンの水がお湯から水蒸気となって空中に消えていきます。すなわち、残されたコップに入っている水が大空の下にある水(海)で、水蒸気となって空気中に消えていった水が大空の上の水(雲)です。これが「第二日」です。

創世記1:6~8
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。

さて、みなさんは気付いたでしょうか? みなさんは第一日に暗闇の部屋に「光があれ!」と叫んで電灯を照らして暗闇を消し去って光の世界を作り、「昼」と名付けました。そして、この時点で暗闇が消滅しました。さらに、第二日に一つの水を二つに分けてテーブルに置いてあるコップの水(海)と空中の水(雲)を作りました。では、みなさんの第一日と第二日の間、部屋の中はどうなっていたでしょうか? 当然、第一日に部屋の灯りを点けて暗闇は消滅されて部屋は光に包まれ、その続きで二日目に入ったわけですから、二日目も部屋の中は光で満たされているはずです。つまり、暗闇(夜)が存在しません。途中で灯りを消せば部屋は暗闇に支配されますが、第一日で点けた灯りがある限り、暗闇が存在することはありません。「夜(やみ)」が存在しません。だから「夕があり、朝があった」のです。最初に在ったやみ(夜)が光(昼)によって消滅してやみ(夜)が無くなったので、「夕があり、朝があった」と書かれているのです。光によってやみ(夜)が消滅したのは、霊的に「地」なる場所が「やみ」の象徴であるサタンから光の神に支配が移ったことを表しています。私が言いたいことがお分かりでしょうか?

創世記1:1~5
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

創世記1:4に「・・・神は光とやみとを区別された。」と書かれています。ここに書かれている「やみ」とは、先にお話ししたように創世記1:2に書かれている「やみ」のことです。つまり、創世記1:2に書かれている大水の上にあるやみに対して「光があれ。」と言って神は光を創り、光とやみを区別しました。「区別」とは、光はやみとは交わることが出来ない、相対する物理として創られました。光は物理的実体があり、やみは物理的実体がありません。私たち人間は「光」というと、どうしても「可視光線」をイメージします。もちろん可視光線も光ですが、神は、創世記1:3では光の本質である電磁波と粒子を創りました。先にお話ししたように、やみの本質は「無」であり、光は「有」です。つまり、神は「無」の世界に光の本質を創ることによって「有」の世界を創りました。暗やみの何も無い世界に「有」を創ることが天地創造の第一日目の目的です。そして、創世記1:14~19で、はじめて太陽による一日の時間の流れと一年の季節の流れが出て来ます。創世記1:1~5はやみの世界に光を創り、光に「昼」、やみに「夜」という呼び名を付けただけの、単純な話です。「昼」は光の名前であって、時間の経過ではありません。同じく「夜」もやみの名前であって、時間の経過ではありません。おそらく、後に「夕があり、朝があった。第一日。」と書かれているので、前後の脈絡から「朝・昼・夕・夜」の流れが出来て、地球の一日の時間の概念が誕生した。と解釈されるのでしょう。しかし物理的な「朝・昼・夕・夜」という一日の時間の流れの根拠となる太陽は第四日に創られました。創造の第一日に光が誕生することによって「夜」と名付けられたやみが消え去りました。だから「夜」の表記がありません。これは、神から見た表現です。「神から見た表現」とは、霊的な世界の表現です。神の国から暗闇の「地」を見た表現です。「神の時」を表した表現です。やみで覆われた地なる場所が、光の誕生によってやみが消え去りました。先ほど実験して真っ暗闇の部屋に電灯を点けることによって暗闇が消え去ったように、やみの勢力であるサタンが君臨していた地から、光の誕生によってサタンが地から追い出されたという意味です。神の光の創造は物理的な創造と同時に霊的な世界を描写しています。神が天地創造の第一日から第六日にかけて行われたそれぞれの創造の業(何を創り、何を行われたか)の記録の後に、同じ「夕があり、朝があった。」という言葉がそれぞれの日の区切りとして書かれています。それぞれの日の創造の業は物理的な創造を表し、文末の「夕があり、朝があった。」という記述は「神の時」を表しています。 
繰り返し述べているように、天地創造の記録は物理的な万物の創造を通して神の国、神の世界、目に見えない霊の世界を描写しています。ですから神がやみの世界に光を放たれたので霊的にやみの象徴であるサタンの住処となっていた「地」がイエス・キリストの光によってサタンの存在が無に帰することになりました。地がやみ(サタン)の世界から光(イエス・キリスト)の世界に変動したので、創造の第一日に「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」と記述され、その光の輝きの下で第六日まで万物が創られたので、それぞれの創造の日の文末に「夕があり、朝があった。第一日~第六日」と書かれています。つまり「やみ(夜)」の記述がありません。「やみ(夜)」の記述が無いのは、サタンそのものが「無」に帰する存在となったからです。「夕があり、朝があった」という記述は物理の世界を表しているのではありません。霊の世界における「神の時」を表しています。

13.人間の時・神の時

私たち人間は、朝起きて、仕事のために朝食を食べて、一日の準備をします。そして、会社へ出勤して、昼の間は仕事します。夕方になって、仕事を終えて家に帰り、夜は家で食事をして、お酒を呑んで、お風呂に入って、寝ます。人間が夜睡眠するのは、体の自律神経の副交感神経の働きによって疲れた体を回復させるためです。私たち人間が夜になると眠くなり睡眠をとるのは、体を休ませながら翌日の活動のための準備をするためです。ご存知のように、人間は睡眠中でも、体の機能はちゃんと活動しています。自律神経による副交感神経が働いて体の栄養補給をして次の朝の準備をします。脳が休んでいるからといって体の機能が停止しているわけではありません。人間の体は次の日の活動の準備をするために睡眠します。ですから人間の創造(仕事)の業は、次のサイクルになります。

人間の創造(仕事)のサイクル
朝(仕事の準備・食事)
    ↓
昼(光の世界・仕事をする・食事)
    ↓
夕(仕事を終える・食事)
    ↓
夜(やみの世界・睡眠・明日の仕事の準備)
    ↓
第一日の終わり
    ↓
朝(仕事の準備・食事)
    ↓
昼(光の世界・仕事をする・食事)
    ↓
夕(仕事を終える・食事)
    ↓
夜(やみの世界・睡眠・明日の仕事の準備)
    ↓
第二日の終り
    ↓
続く ・・・

この人間の創造(仕事)のサイクルが「人間の時」です。人間の創造(仕事)に対して神の創造は、神は第一日に「光があれ。」と仰せられて暗闇の世界に光を放たれました。当然、第一日に放たれた光は継続して第七日まで輝き続けています。そして、神は「光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。」のですから、神の側から見れば、神の視点から見れば、「やみ」と名付けられた「夜」が存在しません。第一日から第七日まで夜が存在しません。だから「夕があり、朝があった」のです。創世記1:1~5で神が「光があれ。」と言った瞬間、大水の上にあったやみ(夜)は消滅しました。霊的なやみ(夜)が消滅しました。そして6日間の光の時(昼)に、神は万物を創造されました。 「夕」というのは、その日(一日の区切)の創造の業を神が終えた証です。「朝」は次の創造の準備の時を表しています。ですから神の天地創造は次のサイクルになります。

神の天地創造のサイクル
やみの世界
  ↓
光があれ。
  ↓
やみが消滅して光の世界が誕生
  ↓
昼(光の世界・創造の始まり)
  ↓
夕(光の世界・創造の完成)
  ↓
朝(光の世界・創造の準備)
   ↓
第一日の終わり
   ↓
昼(光の世界・創造の始まり)
   ↓
夕(光の世界・創造の完成)
  ↓
朝(光の世界・創造の準備)
  ↓
第二日の終わり
  ↓
続く
単純にまとめるなら、
人間の創造(物理から見た創造)
朝→昼→夕→夜(第一日)→朝→昼→夕→夜→(第二日)→ 続く
神の創造(霊の世界から見た創造)
やみの世界→光→やみが消滅→光(昼)→夕→朝(第一日)→昼→夕→朝(第二日)→ 続く
「夕があり、朝があった。第一日。」とは、神の創造の一つのブロックの始まりと終わりの区切りを表した言葉です。神は食事をしません。睡眠をとることもありません。神はやみの世界に光を放ち、やみを消滅させた後に、その光を継続させながら6日間の創造の業を完成されました。これは、物理的な天地創造と同時に、神の世界、神の霊的な創造(万物を動かすソフトウェアの創造)の世界を描写しています。(「万物を動かすソフトウェアの創造」については後で詳しくお話しします。)ですから「夕があり、朝があった。第一日。」という記述は、「神の時」を表しています。神の創造の流れを物理的に表現した言葉です。決して、物理的な太陽の光を表現した言葉ではありません。「夕があり、朝があった。第一日。」という記述は、神の天地創造の一つ一つの区切りとして、文末に記されています。一つの創造の区切り、ブロックとして、「夕があり、朝があった。第一日。」と書かれています。決して、人間の世界の太陽の光による一日の時間の経過を表す言葉ではありません。
結論として、天地創造の記録は、神の「天地創造の日記帳」です。第一日から第六日に掛けてのその日に行われた創造の内容が各創造の日の前半に記録され、最後にそれらが創られた日時が記録されています。最初に触れましたが、人が何か物を設計する場合、必ず、設計図に設計したものの名称と、設計者の名前と、設計した日時を記録します。神は御自身が設計して創られたものに名前と日付を書き記しました。ですから創造の第一日目は、 前半に書かれている「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。」の部分が神が創造された内容の記録で、「夕があり、朝があった。第一日。」の部分が創造された日付になります。日付と言っても、人間の世界の日付ではありません。天に於ける神の世界の日付です。「神の時」の区切りです。みなさんは日記を書くとき、その日に起こった事柄を書いて、必ず日付を記録しますよね? 天地創造の記録は繰り返し述べているように物理的な世界の創造と同時に霊的な世界、神の世界、神の性質、神の本質を描写しています。私たち人間が五感で感じることの出来る物理的な世界の創造を通して神と人間、創造主と被造物の関係を表しています。サタンの正体はやみ(暗闇)です。そして、暗闇の地で神が初めに行なったことがやみの世界に光を放つことでした。光を放つことによって光とやみの関係、すなわち、神とサタンの関係を表しました。光は実体があってやみは実体がありません。だからやみが光に打ち勝つことはありません。あり得ないのです。部屋の電灯が点いている限り、暗闇は存在しません。神は霊の世界においてやみの世界に光を放ちやみを消し去りました。しかし私たち人間が存在している物理的な世界ではやみが現存しています。宇宙は暗闇だし、押入れの中も暗闇です。これは、創造主と被造物の関係を表しています。神はやみの世界に光を創ることによって「被造物は創造主によってその存在理由と存在価値が見出されるのであって、もし、被造物が創造主から離れてしまえば、被造物はやみと同じ無に等しい存在となる」ということを人類に啓示しました。神の創造にはすべて物理的な世界の創造の中に霊的な神から人類へのメッセージが込められています。創世記に書かれている天地創造は神の国から見た人間の世界の物理的な創造を書いた記録です。人間の世界から見た人間の世界の物理的な創造を書いた記録ではありません。ですから後でさらに詳しく述べますが、人間の科学で神の天地創造を解き明かすことは出来ません。
補足として、地球の北極や南極では時期によって夜がありません。地球は傾いて自転しているので太陽の光と地球の緯度の関係で太陽が地平より完全に沈むことがありません。ですから時期によって北極、南極には一日中太陽の光で夜になっても薄明るく暗やみが無い「白夜」という時期があります。逆に、太陽が昇らない「極夜」という時期もあります。つまり、条件によって地球上に夜が訪れない季節や場所があります。
この問題についてはさらに「万物は一日24時間×6日で創られたのはありません」の章をお読みいただければより深い理解が出来ます。

14.万物の不思議

みなさんは、太陽は何で燃えているのか? 考えたことがありますか。ネットで調べてみて下さい。太陽は水素による核融合反応によって膨大な光と熱を宇宙に放出しています。つまり、地球の109倍もの巨大な大きさの核融合炉が、剥き出しのまま、爆発しないで、宇宙空間にプカプカ浮いています。そんなものが偶然に出来るわけありませんよね? そんなことは小学生でも分かることです。人間の知恵で造られた原子力発電所は鋼鉄とコンクリートの要塞で囲まれ、しかも、繊細なコントロールが必要です。一つ間違えたり、今回の大地震など不測の事態でコントロール不能に陥ると核分裂が止まらず、最悪の場合、爆発する危険もあります。一方の太陽は、鋼鉄やコンクリートに囲まれているわけではありません。剥き出しです。しかも、爆発しないで宇宙空間に浮いています。誰が太陽の核融合をコントロールしているのでしょうか? 核融合と核分裂の違いはあるにせよ、偶然に太陽が出来て、偶然に爆発しないで、偶然に宇宙空間に浮いているのでしょうか? さらに第五日に空を飛ぶ鳥と海を泳ぐ魚を神は創られました。
鳥って不思議ですね。鳥が大空を飛んでいる姿を見ていると、ほんとうに自由に飛んでいるって感じがしますよね。飛行機が飛んでいるのとはわけが違います。飛行機はなんだか地球の引力に一生懸命逆らって強引に飛んでいるって感じがします。飛行機は理屈で飛んでいます。鳥は理屈で飛んでいるのではありません。本能で飛んでいます。飛行機が空を飛ぶ原理は機体の推進力と翼に生じる揚力の物理的なバランスによって空を飛ぶことが出来ます。(厳密には飛行機が空を飛ぶ原理は100パーセント解明されているわけではありません)そのために胴体に翼がついたあのような飛行機の形に設計され、飛んでいます。飛行機は無数の物理の法則を基に計算され、設計されています。飛行機は地球の引力の法則に逆らうわけですから、墜落しないようにあれだけの大きな翼とエンジンをつけています。さて、飛行機は偶然に出来たのでしょうか? いいえ、違います。人間が一生懸命考えて、実験して、安全を確認して、飛んでいます。では、鳥は、偶然に誕生したのでしょうか? 違いますよね? 物体が空中を飛ぶためには地球の引力の法則に逆らうわけですから、偶然では飛ぶことは出来ません。引力の法則に相対(そうたい)する別の法則を以てしなければ飛ぶことは出来ません。ですから飛行機は引力の法則に相対するために人間が考えたジェットエンジンの推進力と翼に生じる揚力を以て飛ぶことが出来ます。だったら、当然、鳥に翼が生えているのは偶然ではありませんよね? しかも、鳥にはエンジンはありません。翼が推進力と揚力の両方を兼ねています。つまり、飛行機より鳥の方が合理的で優れているということです。そして、鳥の方が飛行機よりはるかに自由に滑空します。どう考えても鳥が偶然にあのような形、姿に誕生したとは思えません。そもそも、人間が設計した飛行機は、鳥の翼を真似てその飛行原理を発見したのですから、だったら、鳥が偶然に飛んでいるわけがありません。そんなことは、小学生でも分別出来ることです。
蚊は1秒間に500回もの羽ばたきをして飛んでいます。みなさん、信じられますか? わずか、体長10ミリ、体重2.5ミリグラム程度のあの小さな体で、羽根を1秒間に500回以上もパタパタと動かしています。しかも、蚊は人の体温、人の息に含まれる二酸化炭素、人の血管を探知する機能を持っています。あの小さくて微細な体で1秒間に羽根を500回以上も動かすことの出来るメカニズムは偶然に出来たのでしょうか? 人の血を吸うためのセンサーとメカニズムは何万年の進化の過程で出来たのでしょうか? 人間が追いかければ蚊は逃げて行きます。あの小さな蚊でさえ知恵があります。人間は、飛行機を造ることは出来ても、鳥や蚊を造ることは出来ません。飛行機は物理の法則による理論で飛んでいます。一方の鳥や蚊は本能で飛んでいます。しかし鳥や蚊は本能で飛んでいるにしても、そこには物体が空中を飛ぶための物理的理論が働いています。人間が飛行機を飛ばすはるか以前に、鳥や蚊は空中を飛んでいました。人間が飛行機を飛ばすための理論を確立するはるか以前に、鳥や蚊が空中を飛ぶ理論は確立されていました。では、鳥や蚊が空中を飛ぶ飛行理論は、誰が確立されたのでしょうか? 飛行機が空中を飛ぶ飛行理論は人間が確立しました。では、鳥や蚊が地球の引力の下で空中を飛ぶための飛行理論は、誰が確立したのでしょうか?
偶然から理論は生まれません。理論は誰かが意図的に発見して組立てなければ確立することは出来ません。飛行機は偶然から生まれたのではありません。人間が考えて生まれました。だったら、鳥や蚊も、偶然に生まれたのではありません。「人間に替わる誰かが考えて造った」と考えるのが自然です。聖書は「神が鳥や蚊が空中を飛ぶことの出来る仕組み、理論を組立てて確立した」と証しています。神は創造の第二日、第三日、第四日で地球と地球を取り囲む天体の環境、法則を創りました。この時点で宇宙の法則、天体の法則、地球の中のすべての法則を創り、その地球の法則の中から、第五日に、引力の法則に相対することの出来るメカニズムを持った生き物として、空を飛ぶ鳥を創りました。だから鳥は自由に大空を飛ぶことが出来ます。飛行機は理屈で飛んでいます。理論で飛んでいます。鳥は理屈で飛んでいるのではありません。理論で飛んでいるのではありません。本能で飛んでいます。しかし鳥が本能で飛んでいるにしても、鳥が空中を飛ぶためには物体が空中を飛ぶための物理が必要ですから、結果的に、そこに鳥が空中を飛ぶための物理の法則、物理の理論が存在します。しかし鳥が自由に空中を飛ぶための物理の法則、物理の理論を人間の知恵で解明することは出来ません。私たち人間も、理屈で歩いているわけではありません。「右足を前に出して、左手を前に振って、次に左足を前に出して、右手を前に振って・・・・」なんて、頭の中で考えながら歩いているわけではありません。自然に足を出せば手と足がバランスよく自然に交互に動きます。そのように、鳥は考えながら翼をバタバタさせているわけではありません。空中に体を出せば自然に翼が動いて風に乗って飛ぶように体全体が本能としてそのように動きます。鳥が空を飛ぶのに「V1、VR、V2。エレベーターを引いて。フラップを引いて。エルロンを出して。スポイラーを立てて」なんて、飛行機の操縦士のようにいちいち考えていませんよ。人間が無意識のうちに、当たり前のように、手を使って食事をしたりパソコンを使ったりするのと同じように、鳥は本能として、無意識のうちに翼で自然に空中でも体をコントロールしています。鳥だけではありません。海の魚、陸で生きるもの、いのちあるものはすべてその置かれた環境で生きるように完成された体と本能が備わっています。それだけではありません。自然界を眺めて見ると、いのちあるものはすべて繁殖するための生殖機能を持っています。人間は男と女とに、動物はオスとメスとに性別され、子孫を繁殖させるための生殖器官が生まれつき備わっています。植物は雄しべと雌しべを持ち、受粉によって新しい種が造られ、繁殖していきます。いのちの仕組み、いのちの繁殖、いのちの本能は、天地創造の過程で神が創られた「いのちの世界」です。いのちは偶然の産物ではありません。神が意識して、神が意図して創られた産物です。神は御自身が創られた「いのちの世界」をご覧になって、満足されました。もう、これ以上、手を加える必要のない「完成されたいのちの世界」を創り、客観的に見て、納得して、満足されたので、その締めくくりの言葉として、創造の第六日の最後に「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」と書かれています。

15.神の価値観・人間の価値観

さて、神は六日の時を以て万物を創造され、第七日にすべての創造を終えられ、休まれました。ここで、また、一つ気が付いたことがあります。それは、「神は光を見て良しとされた。」という記述です。創造の第一日から第六日まで(第二日にはその記述がありませんが)、その日の創造されたものを見て、神御自身が「神はそれを見て良しとされた。」と書かれています。そして創造を終えられた第六日に締めくくりの言葉として 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」 と書かれています。この「神はそれを見て良しとされた。」という記述について考えてみましょう。
神は、その都度、御自身が創られたものを見て、「良し」とされました。「良しとされた」という言葉は、神が創られたものを御自身が見た時の感情を表した言葉です。神は御自身が創られたものを見て「満足」されました。満足した証として「良しとされた。」のです。神が「もう、これ以上、手を加える必要のない完成されたもの」を創り、客観的に見て自ら満足した結果、「良しとされた」のです。第六日には締めくくりとして「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」と書かれています。
「見よ。それは非常に良かった。」
神が創るものに不完全はありません。中途半端はありません。神の創造はその時点においてすべて完成されています。ですから神による人間や動物などの「いのちの創造」に関しては、いわゆる「進化論」は存在しません。キリスト教界でも、中には進化論を信じている人もいます。「神は進化によって人間を造られた」と主張するグループもあります。聖書と進化論を足して二で割ったような考えです。しかし聖書のどこを読んでも人間の進化は出て来ません。そもそも、神の天地創造を見れば分るように、人間と他の生き物とは全く別々に創られているのが理解出来るはずです。創世記1:1~2:25を読めば、人間の誕生に進化が存在しないのは、歴然とした事実です。これは理屈の問題ではなく、聖書に対する信仰の問題です。 神は御自身が創られた万物すべてをご覧になられて「良し」され、最後に「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」と御自身の創造を結んでいます。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」のは、神は万物のすべてを「完成されたもの」として創られ、満足して完結されたので、「見よ。それは非常に良かった。」のです。ですから神の天地創造に進化論は存在しません。進化論については別の機会にお話ししたいと思います。また、神は万物を六日間に区切って創造されました。神が万物を六日間に区切って創造されたのには、きちんとした理由があります。神は最初に科学の無い、法則の無い、生命の無い、秩序と目的の無い、混沌した「地は茫漠として何もなかった。」と言われる「まっさらな場所、領域、世界」を創りました。そして、六日間という区切りよって「地」と呼ばれるまっさらな場所、領域、世界に、一つ一つの万物の法則、科学の法則、命の法則、万物を統率する秩序を組込んでいきました。六日という区切りの中で、宇宙の法則、宇宙の秩序を創り、地球の法則、地球の秩序を創り、さらに地球の中に海の法則、海の秩序を創り、空の法則、空の秩序を創り、陸の法則、陸の秩序を創り、それぞれの法則の世界に、さらに、様々な生命の法則、生命の秩序を組込んでいきました。ちょうど、街の区画整理をするようなものです。
今、私が住んでいる付近の街で、区画整理事業が行われています。見ていると、今まで建っていた建物すべてを取壊して、一旦、更地にします。次に、何も無い更地の上に道路を整備して、さらに上下水道やガス、電気などのインフラを整備していきます。そして、最後に、それぞれ割与えられた区域に家やビルを建てていきます。そのように、神の創造も、一番初めに「地」という秩序も法則も存在しない「まっさら場所、領域、世界」を創り、そこに一つ一つの秩序と法則を六日に区切って組込んでいき、万物を完成されました。 神が六日間に区切って創られたものには、それぞれ異なる次元、世界、状態、環境があります。宇宙には宇宙の次元があり、地球には地球の次元があり、空を飛ぶ鳥には鳥の次元があり、海を泳ぐ魚には魚の次元があります。そして、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」という言葉には、もう一つの意味があります。それは、「神が創造された被造物(万物)の世界ではすべてにおいてどっちが優れていてどっちが劣っているという優劣は存在しない」ということです。だって神は宇宙から地球で生きるあらゆる生物を創られて、すべてを見て「それは非常に良かった」のですから。神はある一部の特定のものだけを見て良かったのではありません。すべてをご覧になって非常に良かったのです。 神は御自身の創造の業において決して手を抜いたりはしません。第一日目は100パーセントの出来で、三日目はちょっと疲れたので80パーセントの出来で、最後の六日目はさすがの神様も齢のせいか疲れ果てて50パーセントの出来で、「まあ、こんなもんだろう」と言って「非常に良かった」のではありません。「神」という一人の創造主御自身が、創られた万物のすべてを御覧になって「見よ。それは非常に良かった。」のですから、神が創られたものに優劣は存在しません。だって「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」のですから。六日間のすべての日に創られたすべてのものを見て「見よ。それは非常に良かった。」のですから。だいたい創造主なる神は御自身が創られたもの同士を比べたり比較したりなんかしません。人間はなんだかんだと優劣を付けて比べ合って優越感に浸ったり劣等感に陥ったりします。そこが創造主なる神と被造物なる人間の違いです。ただ、被造物にはそれぞれの役割があり、役割に応じた能力が与えられているので、その差はあります。チンパンジーをいくら訓練しても人間のような知能を持つことは出来ません。チンパンジーにはチンパンジーの役割があり、人間には人間の役割があり、被造物は神から与えられたそれぞれの役割に応じた能力が与えられているだけであって、どっちが優れていてどっちが劣っているとかの問題ではありません。それは男と女の関係でも同じです。特別男が女よりも優れているわけではありません。女が男より劣っているわけではありません。男は男から産まれたのですか? 違いますよね? 男は女から産まれたんですよね? 女から産まれた男が、どうして女より優れているのでしょうか? でも男は女より偉いと思っています。男と女の関係は、どっちが偉くて、どっちが優れているとかの問題ではありません。男と女のそれぞれの「役割」が違うのです。このことは後でお話し致します。人間は何だか知らないけど能力の優劣で人間を評価します。知力や体力で競いながら優劣を付けて人間の価値を評価します。自分で自分を造って「どうだ!俺の力は凄いだろう!俺の能力は凄いだろう!」と自慢するなら分りますが、人間は造られた存在なのですから、人間自身には何もありません。「無」なんです。
学校のテストでクラスの30人の生徒が数学のテストをすれば、100点の人、80点の人、50点の人、30点の人と、それぞれ個人の学力差が点数として表れます。その点数がその人の成績になり、その成績によってその人が評価されます。そして100点の人が優れていて両親から喜ばれ、周りの人から褒められます。30点の人は劣っていて両親から怒られて、周りに人からダメな子という目で見られます。
100点の子が優れていて、30点の子が劣っている。
これが人間社会の価値観です。子どもから大人まで、点数によって優越感に浸り、点数によって劣等感に陥ります。では、もし、クラスの30人全員が100点だったらどうなるでしょうか? 全員100点ですから優越感に浸ったり劣等感で落ち込む人はいませんよね? だって全員100点ですから優劣の存在がありません。これが国語、数学、英語のすべてが全員100点だったらどうなるでしょうか? 実際にはあり得ないことですが・・・。神は天地創造で御自身が創られたすべてをご覧になって「見よ。それは非常に良かった。」のです。ですから神が創造された世界はすべて100点満点の世界です。光からお花さんワンちゃんネコちゃん小鳥さんお魚さん人間さんまで、すべて100点満点として創られたのです。だから神が創られたもの同士で優劣など存在しません。これが創造主なる神の価値観です。

創世記1:31
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

神は御自身が創造されたすべてをご覧になって納得されました。満足されました。だから神が創られたものにどっちが優れていてどっちが劣っているなどという優劣は存在しません。それが創造主なる神の価値観です。人間はお互いを比べあって優劣を付けて人間の価値を決めます。それが被造物なる人間の価値観です。

16.完成されている人類の救い

神は天地創造において完成されたものしか創りません。これは人類の罪からの救いについても同じです。
イエス・キリストは十字架刑に処せられた時、十字架の上で最後に「完了した。」と宣言されました。

ヨハネの福音書19:28~30
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けとられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
「完了した。」とは、人類の罪の贖いが、御自身の十字架の死によって完了されたことを宣言された言葉です。イエス・キリストが十字架上で宣言した「完了した。」という言葉と、創世記で神が「見よ。それは非常によかった。」という言葉とは、言葉の意味は違いますが、その言葉の内にある神の本質は全く同じです。イエス・キリストが十字架上で「完了した。」と宣言されたことで、人類の罪の贖いは完了され、私たち人間の救いは完成されました。キリストの十字架によって私たちの救いはすべて完成され、完結されました。ですから神の救いに関しては「進化」も「退化」もありません。神の人類の救いに関してはキリストの十字架以外に付加えるものは何もありません。また、不足しているものもありません。私たち人間は、ただ、神が与えたキリストの十字架による救いを信じて、神の救いを無条件で受取るだけです。もし、教会での献金の額や、どれだけ熱心に伝道や奉仕をしたかで救いの条件が決まるなら、それは、神がキリストの十字架によって完成して完結された「救いの業」に対して、人間自ら神の救いの業を不完全なものとし、神の救いの業を歪曲させようとする以外の何ものでもありません。
神の創造の業は完全で完成されています。神の救いの業も完全で完成されています。

17.神の祝福と呪われた土地

そして、天地創造の過程で、神は御自身が創られたものを祝福されました。第五日に鳥や魚を創り、それらを祝福して「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」と仰せられました。また、第六日には男と女を創り、彼らを祝福して「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられました。「神は彼らを祝福された。」とは、どういう意味なのでしょうか?「祝福」の対義である「のろい(呪い)」とは、どういう意味なのでしょうか?
祝福(しゅくふく)は、祝(しゅく)と福(ふく)ですから、文字通り何かのお祝い事や幸せなことを願う意味として使われます。たとえば、お誕生、結婚、長寿、あるいは人の成功や功績を讃えたりと、人生の節目にお祝いとして祝福の行事を行い祝福の言葉を述べます。同じように、神は御自身が創られた被造物に御自身の思いを込めて祝福されました。御自身が創られたいのちある被造物の幸せと繁栄を願われて祝福されました。そして、神の祝福は単に言葉だけではありません。神の言葉は力です。神の祝福の言葉は具体的に人の目に見える形で現されて行きます。 神は被造物の幸いと繁栄に必要なすべての環境を神の側で用意されました。そして神が創られた被造物が神の言葉、神の意思に従っていけば、被造物は神が与える幸いの中で存在する事が出来る仕組みそのものが、「神の祝福」です。
あの~~~・・・もし、人類が罪に陥らなければ、インターネットや包丁なんてものは存在しませんでしたが、あえて神の祝福を現代にたとえるなら、こんな感じです。
インターネットって便利ですね。いつでも、どこでも、いろいろな情報が手に入り、また、情報発信出来ます。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などのコミュニケーションツールとしても大変便利です。しかし便利な反面、危険もあります。毎日、ネットを利用した様々な犯罪が横行しています。インターネットの仕組みそのものは何も問題ありません。インターネットはただの物理的な道具にすぎませんから。そして、インターネットには意思がありません。だからインターネットが「この人は悪い人だからこの人の情報は受け付けません」なんて言って悪い情報が流れないなんていうことはありません。良い情報も悪い情報もインターネットを通して流れて行きます。便利な反面、危険が伴うインターネットの問題の本質は、「インターネット」という物理的な仕組みにあるわけではありません。インターネットに流れる「情報」に問題があります。そして、インターネットに情報を流しているのは人間ですから、つまり、悪い情報を流したり、インターネットを利用して犯罪を行っている人間に問題があります。もし、罪の無い世界で悪い事を行う人がまったく居なければ、インターネットは便利で人間関係を良くする道具となり、人類に世界的な幸福をもたらす道具となります。地球の裏側に居る人たちといつでも自由にコミュニケーションが出来るのですから。元々は軍事目的で開発が始まったインターネットですが、現代では人々の生活を便利にする道具としてなくてはならないものになりました。一人の幸福がインターネットを通して次から次へと連鎖して幸福が世界に伝わって行き、それこそ全地は神の幸福で満ち溢れていけば、インターネットは「祝福された道具」です。インターネットを通して一人の幸福が世界に広がっていくのですから、インターネットは人と人を結ぶ道具となり、インターネットそのものが「祝福」なのです。しかし現実は生活を便利にする道具(祝福の道具)として開発されたものが、いつのまにか(罪によって)その便利な道具を使って犯罪を行う人たちが出て来ます。 包丁は食べ物を加工するために造られたものが、時には人を殺める道具になることもあります。携帯も然り、スマホも然りです。便利と危険は常に表裏の関係にあり、諸刃の剣です。神の祝福と呪いも同じです。インターネットを罪の無い世界で使えば祝福(幸い)となり、罪の在る世界で使えば呪い(不幸)となります。「祝福」とは、「神が創られたものが被造物にとって幸いをもたらす力の根源」です。「呪い」とは、「神が創られたものが被造物にとって不幸をもたらす力の根源」です。人間に罪が無ければ包丁は調理のための便利な道具です。しかし便利な道具も罪が入って来れば人を殺めて不幸をもたらす道具となります。
神は天地創造で御自身が創られたすべての生き物と人間を祝福されました。神がわざわざすべての生き物と人間を祝福されたのは、「被造物は神に従うことによってお互いの存在が幸いをもたらす世界」を創ることが神の目的だったからです。神の祝福とは、すべての生き物と人間は、お互いの存在が幸福をもたらす原因となり、お互いが幸福をもたらす因果関係となる存在になりうるように、すべての生き物と人間を創られたことが、神の祝福です。ですから神は創世記1章28節で人間を祝福して「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられ、地上の世界は人間社会による幸福の連鎖で満ち、まさに「全地は主をほめ讃えよ」という言葉が成就されるはずでした。ところが人間の罪によって生き物同士も人間同士もすべてが不幸をもたらす原因、因果関係へと変貌してしまいました。だから罪に陥ったアダムに神は「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」と仰せられました。神が祝福された人間関係は、自分に対して安心と、安息と、平和をもたらしてくれる人間関係です。ところが罪によって個人から国家に至るまで、不安と、憂いと、恐怖をもたらす人間関係になってしまいました。国家の関係になってしまいました。その原因は、人類が罪によって神の祝福を失ってしまったからです。そして、人間の罪によって、土地は呪われました。本来、神は創造の第六日に地の上に人間の食物として「全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」を人に与えたので、人間には生活のための労働は存在しませんでした。しかし罪を境に地は呪われ、人は人間関係に苦しみ、生きて行く為の労働に苦しむことになりました。もし、人が罪に陥らなければ、人類は永遠に神の祝福の中で繁栄したことでしょう。また、天地創造の記録を注意しながら読んで見ると、神が祝福された土地と、人の罪によって呪われてしまった土地の違いが見えて来ます。人の罪によって祝福された土地がどのように変貌してしまったのか? 推測することが出来ます。
神は第5日と第6日に空を飛ぶ鳥、海の巨獣や魚、家畜や這うもの、野の獣、最後に人を創りました。そして、神はそれらのすべての生きものに仰せられました。

創世記1:29~30
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

神はすべての「いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」と仰せられました。つまり、すべての生きものは草食であり、現代のような肉食は存在しません。神が祝福してすべての生きものに与えた土地には生きものが食べるためのすべての緑の草が生えていました。そして、いのちある生きものは緑の草を食べて生きるものとなるはずでした。神が与えた祝福の土地には生きもの同士がお互い殺し合って相手の肉を食べるような肉食の世界は存在しません。私たち人間は、生まれつき野生の世界に肉食が存在するので、それが自然の世界の本能であり、当り前だと思っています。また、人間も、家畜を殺して肉を食べます。しかし、本来、神が創られたいのちの世界は、肉食が存在しない平和な世界でした。人が生きる地上の世界はアダムの罪によって地上が呪われた結果、生きものが同じ生きものを殺して食べるという肉食の世界に変貌してしまいました。争いのない生きものの平和な世界が、生きもの同士の命を懸けた闘い、争いの世界へと変貌してしまいました。神が 「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」 と仰せられた言葉が現実となりました。
人間の世界って、本当に面倒臭いですね。幼稚園児から小学生、中学生、高校生、大学生、社会人まで、絶えず人間関係で悩みます。今や、イジメは小学一年生からあります。小学生でも人間関係でうつ病になる子もいます。

人間って、一体、何なんでしょうか?
なんで、こんなに苦しんでまで、生きなければならないのでしょうか?
なんで、こんなに人に怯えながら、生きて行かなければならないのでしょうか?
苦しむために生まれて来たのでしょうか?
悩むために生まれて来たのでしょうか?

神が初めに創られた「地」は次のような状態でした。

創世記1:1~2
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

神が祝福された土地と人の罪によってのろわれてしまった土地を分かり易くたとえると、暗闇の中に浮かぶ一つの風船のようなものです。ここで言う風船とは、創世記1:2に書かれている「大水」の上を動いている「神の霊」です。「大水」は生命の源ですから、私たち人間です。そして、私たち人類は、風船(神の霊)の中に居ます。暗闇の世界で神の息(祝福の言葉)で風船を膨らませて結べば、風船の中は神の空気(祝福)で充満されます。風船の中は神の祝福で満ちた世界です。神の霊に覆われた世界は祝福に満ちた世界です。死も、病も存在しない世界です。しかし神の祝福で満ちた風船(神の霊)にプツンと針(罪)を刺せば、風船は破裂して、神の祝福は消えてしまいます。風船(神の霊)という囲いが消えてしまったのですから、風船の中に居た人類は暗闇の世界に支配されることになります。暗闇の世界は呪いに満ちた世界です。死と病の世界です。サタンに支配される世界です。アダムの罪によって私たち人類は暗闇の世界(のろわれた土地)で一生苦労して生きることになりました。たった一人の罪(針)によって風船は破裂してすべての神の祝福は消えてしまいました。聖書は

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―――それというもの全人類が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)

と言っています。風船が破裂した結果、人類は暗闇に属する死に覆われ、死が全人類に広がりました。
ヨブ記に神とサタンによる次の会話が出て来ます。

ヨブ記1:8~10
1:8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
1:9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

10節でサタンが神に「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。」と言っています。ここで言う「垣(かきね)」とは「神の霊」です。サタンは神の霊を超えることが出来ません。ヨブと、ヨブの家族と、ヨブのしもべと、ヨブのすべての所有物が神の霊によって守られているので、サタンがヨブの人生に介入することが出来ません。「垣」を境に、神の領域は祝福に満ちた世界です。「垣」を境に、サタンの領域は呪に満ちた世界です。そして、神がヨブをサタンの手に渡されたので、それまで神の祝福の中で暮らしていたヨブは、今度はサタンの世界、やみの世界、呪われた世界で生きることになりました。呪われた世界で生きることになったヨブは自然災害で七人の子どもを失い、強盗殺人によってしもべと家畜を失い、さらに自分自身も病魔に襲われ、最後は妻にも見捨てられてすべてを失いました。ヨブの不幸の人生はすべて「呪われた世界」で起こった出来事です。ヨブ記には神に祝福された世界とサタンに呪われた世界が描かれています。ヨブは神に祝福された人生とサタンに呪われた人生を歩んだ人です。
新約聖書のヨハネの黙示録に次の記述があります。

ヨハネの黙示録9:12~19
9:12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。
9:13 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

ヨハネの黙示録9章14節に「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」と書いてあり、続いて15節に「すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。」と書いてあります。そして最後の18節に「これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。」と書いてあります。はあ? 御使いたちが人類の三分の一を殺しにやって来るのでしょうか? 剣を持った御使いたちが天から降りて来て

神の言うことを聞かないで悪いことばかりしているこの人間どもめ! 我ら御使いたちが神に代わって成敗してくれる! バサッ!ブスッ!ビシッ!ドカン!(人類の三分の一を殺して) ハハハハハ 人間どもめ 参ったか!!!


とでも言うのでしょうか? もちろん違います。
この世はサタンが支配しています。サタンの最終目的は、戦争によって人類を自分たちと一緒に永遠の地獄に連れて行くことです。しかしサタンの力に対して神が人類に垣を張り巡らせているので、世界戦争に発展しないだけのことです。個別の民族、国同士の戦争をはじめ、第二次世界大戦のような大戦争はすべてイスカリオテ・ユダにサタンが入ったようにサタンが人類の思考の世界に入って来てやっています。第二次世界大戦以降、今日まで世界戦争が起らなかったのは、ヨブの家とそのすべての持ち物との回りに神が垣を巡らせてサタンから守ったように、神が人類に垣を巡らせてサタンから守っているからです。しかしヨブの家とそのすべての持ち物との回りに巡らせた垣が取られたように、やがて人類の垣も取られる時が来ます。そして、神が巡らせた垣を抜いて行くのが、剥がして行くのが、取り除いて行くのが、御使いの役目です。ヨブ記には書いてありませんが、ヨブの家とそのすべての持ち物との回りに巡らせた垣は神の命令によって御使いが天から降りて来て垣を取り除いて行きます。御使いは文字通り「神の使い」です。百パーセント神の黒子です。天で神の手なり足となり神の命令で様々な活動をしていますが、表には出て来ません。そして垣が無くなればそこはサタンの世界になります。サタンが自由好き勝手にやりたい放題人間を支配する世界になります。だから神の垣が取られたヨブは家族を失い、全財産を失い、自分も苦しむことになりました。同じように人類に巡らせた垣も神の命令によって御使いたちが天から降りて来て取り除いて行きます。ヨハネはその光景を見たので、ヨハネの黙示録9:12~19にその光景を書き記しました。「四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。」とは、「人類をサタンから守るために神が巡らせた垣を取り除くために四人の御使いが解き放たれた」という意味です。決して「四人の御使いが人類を殺しにやって来る」という意味ではありません。また、四人の御使いはサタンのことでもありません。そして四人の御使いによって垣が取り除かれた結果人類に何が起こったかというと、ヨハネの黙示録9:16~19に書いてあります。

黙示録9:16~19

9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

これが、神の垣が剥がされてサタンに手渡された人類に起こる光景です。「騎兵の軍勢の数は二億であった。」と書いてありますから、ここに書いてある光景は「世界戦争」です。私は人類最後の戦争である「世界最終戦争」と呼んでいます。人類の三分の一の人が死ぬというのですから、凄まじい戦争になります。サタンは自分たちの運命を知っています。やがて、神に裁かれ永遠に火と硫黄の池の中で苦しむことをすでに知っています(ヨハネの黙示録20:10)。人間にはイエス・キリストの十字架による救いがありますが、サタンには救いがありません。そして被造物なるサタンが創造主なる神と喧嘩したところで神に勝てるわけがありません。だって自分たちは神によって創られた存在なのですから。サタンもバカではありません。もう、自分たちのこの先の運命を知っています。だからヤケクソになり、自暴自棄の道をひたすら進み、最後の悪あがきとして一人でも多くの人間を自分たちと一緒に地獄に連れて行くために悪の限りを尽くします。ヨハネの黙示録9:16~19の光景は人間の思考の世界(霊の世界)にサタンが入って来てサタンの価値観、感性に感化された人間同士が戦争によって悪の限りを尽くす光景が描かれています。
現在の世界人口は74億人と推計されています。さらに世界人口は増えて行きますが、仮に、世界人口70億人とすると、70億人の三分の一は約23億人になります。つまり、人類最後の世界戦争は23億人が死ぬことになる大戦争になります。第二次世界大戦の犠牲者数が5000万〜8000万人で、当時の世界人口の2.5%と言われていますからwikipediaより)、第二次世界大戦の実に29倍もの人が犠牲になる大戦争になります。当時の兵器に比べれば現代の通常兵器による殺傷能力は格段に増していますが、それでも23億人が犠牲になる戦争となると、どう考えても一発の爆弾、ミサイルで何十万、何百万という単位で人々を殺傷することが出来る核兵器による大戦争になるとしか考えられません。ですから人類最後の世界戦争は世界的な核戦争になります。
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
蛇って不思議ですね。肢体(手と足)が無いにもかかわらず、スルスルと地の上を移動して行きます。なんでも腹筋の力とお腹の鱗によって進むそうです。まるで地の上を這うミサイルのようですね。ICBM(大陸間弾道ミサイル)も手や足は無いけれど、本体のジェット噴射とコンピュータ制御によって目的の場所に到達します(その尾は蛇のようであり)。着弾によってミサイルの弾頭に組込まれた核爆発装置が起爆して何十万、何百万もの人々を殺傷します(それに頭があって、その頭で害を加えるのである)。
9:17私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。
「馬(核ミサイル)とそれに乗る人たち(人間)の様子は」と書かれています。
馬に乗る騎手は自分の体重移動や脚を擦ったり、手綱や鞭によるいろいろな合図によって馬に指示を与えて馬をコントロールしています。そのように、人間が核ミサイルに搭載されているコンピュータに指示を出して核ミサイルをコントロールしながら敵の国を破壊します。今から二千年前のヨハネは自分が今まで見たことも想像したこともない現代の核ミサイルを当時の軍隊の主力である馬と騎兵に置き換えて人類最後の世界戦争を描写しています。ですから人類最後の世界戦争は人間の思考によるコンピュータによってコントロールされた核戦争によって人類の三分の一の人々が犠牲になるということです。人類最後の世界戦争は民族、国家、宗教間の増悪の戦いですから、核兵器だけではなく、化学兵器、細菌兵器、もう何でもありの世界戦争になります。凄いですね。これがサタンの思考に感化された「人間の増悪」です。「世界最終戦争」にはもちろん我日本も参戦します。
戦後の日本の(偽りの)平和と繁栄は憲法第九条で守られて来たのではありません。また、日米安保条約で守られて来たのでもありません。単純に、日本の周りに巡らせた神の垣によってサタンから守られて来ただけの話です。しかし、次第に、少しづつ、日本に巡らせた神の垣が剥がされつつあります。今の東アジア情勢を見れば、いずれ日本も憲法が改正されて核兵器を持つことになるでしょう。この先、日本の政治が右に行こうが左に行こうが関係ありません。そうせらずえない状況に日本が、世界が、追い込まれて行きます。
「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」と書いてあります。ユーフラテス川はトルコの東部山地を源流とする川で、シリアを流れて、イラクでチグリス川と合流してシャットゥルアラブ川となり、ペルシャ湾に流れ出る大河です。つまり、「エルサレム問題」を抱えている今の中東です。

中東の地図

出典元
Wikimedia Commons/Middle East Map

昨年の12月、アメリカ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定しました。アメリカのエルサレム首都認定は、アラブ、イスラム諸国からすれば喧嘩を売られたようなものです。当然、売られた喧嘩は買うでしょうから、この先、中東情勢は益々混迷していくことでしょう。もし、中東で大規模な戦争が勃発して石油の輸入がストップしたら、日本はどうするのでしょうか? 憲法九条を楯に黙って指をくわえながら石油を使わないように産業活動を停止して戦争が終わるのをジッと待つのでしょうか? それとも「存立危機事態」ということで自衛隊を中東の送るのでしょうか? 国家として決断しなければならない状況が必ず来ます。もちろんその前に順番はどうなるか分りませんが、反キリストの登場、(偽りの)中東和平の成立、艱難時代、反キリストによる世界統一、キリストの再臨というプロセスを経て行きます。でもみなさん、安心して下さい。世界最終戦争で犠牲になるのは世界の三分の一の人々です。残りの三分の二の人々は生き残ります。ヨハネの黙示録についてはまた別の機会にお話しします。
話しが大分逸れて申し訳ありません。元に戻します。
アダムの罪によって土地はのろわれました。すなわち、神の霊(垣)に覆われていた万物の世界が、人の罪によって神の霊が消えてしまいました。神の霊である「垣」が取り払われてしまいました。その結果、人類はサタンの象徴である暗闇の世界、呪われた世界で生きることになりました。だから人は病で苦しみ、最後は死ぬ運命にあります。神の祝福とサタンの呪いの意味が理解出来たでしょうか?。

18.人間の創造の目的

次に、人間の創造にスポットを当てて考えてみましょう。
神は創造の最後の第六日に人間を創造されました。
創世記1:26~31
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
神は人間を創造するにあたり、次のように仰せられました。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神が人間を創造するにあたり、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せられ、御自身の写しを人間の設計図としました。ですから人間には神に似ている部分と神と共通する部分があり、神は人間を他の生きものとは違う存在として創られました。神はあらゆるいのちある動物や、巨獣、昆虫、爬虫類、鳥、魚、植物などを創り、最後の六日目に人間を創造され、人間だけに「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せられました。ですから人間と人間以外のすべての生きものとは同じ生きものでもその本質が異なります。さらに「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」と仰せられたので、人間は生きものを支配して、人間以外の生きものは人間に支配されるものとなります。「支配する」とは、生きものの頂点に立って威張ったり命令することではありません。創世記2:19~20に、神によって創られた人間があらゆる生き物に名前を付けて生き物はその名になる、という記述があります。そのように、人間はすべての生きものの中心に在っていのちの世界の秩序を作ることが、人が生きものを支配することです。神が人間を創造された目的の一つは「人間を中心としたいのちの世界」を創ることでした。ここで、一つの疑問として、神は「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と言われて、御自身を複数形で表しています。この「われわれ」という複数形の表現については、後々、お話し致します。
さて、神が「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と言われましたから、人間は神と同じ性質、神と同じ形、神と同じ価値観を持った被造物として創られました。では、人間の何が、神と同じ性質、同じ形なのでしょうか?  聖書から神と人間の同じところと違うところを簡単にまとめてみると

神と人間の同じところ
・神は人間と同じように意志を持っている。(自ら考えて選択して実行することが出来る主体的存在である)
・神は人間と同じように知恵を持っている。(物事の理を解明することの出来る能力を持った主体的存在である)
・神は人間と同じように感情を持っている。(物事によって生じる喜怒哀楽といった心の反応を持った主体的存在である)
・神は人間と同じように言葉を主体とした存在である。
・神は人間と同じように見る(視覚)・聴く(聴覚)・触る(触覚)・味わう(味覚)・嗅ぐ(嗅覚)という五感を持った存在である。
・神は人間と同じように空間を移動することが出来る存在である。

神と人間の違うところ
・神は男でも女でもない。人間は男と女に性別される。
・神は人間のような肉体をもった存在ではない。
・神は人間のように食事をすることはありません。睡眠を取ることもありません。
・神は人間のように時間と空間に制限されない。
・神は無から有を生じさせることが出来る。人間は有から有を生じさせることは出来るが、無から有を生じさせることは出来ない。

19.霊と魂と体

聖書から理解出来ることは、「神も人間と同じように人間の主体を構成している知恵と、意志と、感情を主体とした存在者である」ということです。初めに神が存在して、人間は神によって神に似せて創られたのですから、神の主体である知恵と、意志と、感情といった「神格」の部分が、人間が神に似せられて神と同じように創られた部分です。そして、人間は、神と同じ価値観を共有する存在、被造物として神によって創られました。私たち人間の知恵と、意志と、感情を主体とした人間の本質を、日本語聖書は「魂(たましい)」と表記しています。その魂が宿る住処として、神は人間の肉体を創り(創世記2:7)、さらに、人間と神が交わる場所、領域として、「霊的な領域」であるエデンの園(創世記2:8)を設けられました。霊的な領域である「エデンの園」については、後々、お話ししていきます。
人間は、霊と、魂と、肉体という、三つの要素を一つの主体とした人格的存在です。そして、神は御自身と同じように、人間の魂に五感を与えました。 人間の体には「見る(視覚)・聴く(聴覚)・触る(触覚)・味わう(味覚)・嗅ぐ(嗅覚)」という五感があり、人間の魂は五感を通して入って来るあらゆる情報を感じる事が出来るので、体の五感を通して感じる物理的な満足、幸福を味わうことが出来ます。外部から体の五感を通して入って来た情報を「私」という魂の五感が感じています。同じように、人の魂の五感は霊的な世界を感じることが出来ます。だからエデンの園で人は神と会話をして、園の中央の二種類の木を識別して、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木からその実を取って食べることが出来ました。それによって人は霊的な満足を味わうことが出来ます。エデンの園は霊的な神の世界を描写しています。ここで、神が人間を創られた過程を聖書から整理してみましょう。
天地創造の過程で、人間の創造に関する記事が次の三箇所に出て来ます。

創世記1:26~27
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

創世記2:7
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

創世記2:21~22
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

創世記1:26~27で、神は人間を御自身の形に創造されました。創世記1:26で、初めて「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」と言って、神が人間を創る「動機」が書かれています。「さあ人を造ろう。」の「さあ」とは、その前に創られた万物は人間のために創られたことを証する言葉です。そして、その後に、「われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と書かれています。「われわれのかたちとして、われわれに似せて。」とは、「神と同じ感性と、神と同じ価値観を持った存在」という意味です。神は御自身と同じ価値観を共有し、御自身と同じ感性を持った「人間」という被造物に、御自身が創られたいのちの世界の支配を任せることにしました。続けて創世記1:27に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書いてあり、具体的な人間の創造が書かれています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。」という部分が、人間の魂です。その魂をさらに男と女とに分けて創り、次に、創世記2:7で、土地のちりで人間(男)の体を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた時、人間(男)は生きるものとなりました。そして、最後に創世記2:21~22で、男のあばら骨から女の体を造られました。 人間の本質は霊と魂と肉体の三つの要素から成り立ち、神は順番に、まず初めに人の魂を創り、次に人の肉体を造り、最後に神と人が交わることの出来る霊の世界(エデンの園)を設けられました。知恵と意志と感情を主体とした「魂」を創り、次に神が創られた万物の祝福を魂が感じることの出来る五感を備えた体を造り、それを人間の魂の住処(すみか)とされました。神は最初に人間の魂を男と女とに分けて創り(創世記1:26~27)、次に男の体を造り(創世記2:7)、さらに人間の霊的な領域であるエデンの園を設けられ(創世記2:8)、最後に男のあばら骨から女の体を造りました(創世記2:21~22)。 人間の創造に関する記録で特に気になるのが創世記2:7の記述です。もう一度、創世記1:26~27の記述と、創世記2:7の記述を比べて見ましょう。

創世記 1:26~27
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

創世記 2:7
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

創世記1:27では「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書かれています。「ご自身のかたち」「神のかたち」とは、繰り返し述べているように、知恵と意志と感情を主体とした神の神格の部分であり、その神格の部分の写しを人間の主体である魂としました。そして創世記2:7に「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と書かれています。創世記1:26~27では、初めに神が在って、その神に似せて人の魂が創られました。一方の創世記2:7では、初めに神が創られた「人」という魂が在って、その目に見えない魂を物理的な世界で物理的に具現化する手段として土地のちりを用いて人の体を造りました。神が人の体を造る材料としたものは物質の世界の「土地のちり」です。地球の土地のちりから人間の体が造られました。「人の体」とは、すなわち「五感」です。神は御自身の五感の写しとして人の魂が五感を感じることの出来る肉体を土地のちりから造りました。「見る・聴く・触る・味わう・嗅ぐ」という五感によって、人は物理的な世界を認識することが出来ます。そして「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と書かれています。

20.神の霊によって生きる人間

「いのちの息」とは「神の霊」です。神の霊が人の体に入り込んで人は生きものとなりました。「生きものとなった。」とは、人の魂に体である五感を通して「自分」という存在の意識が始まり、人が物事を考えながら活動を始めました。人間は神の霊によって生きます。創世記6:3には、人が罪に陥り、エデンの園(神と交わる霊的な世界)から追放されたその後の人に対して、神は次のように仰せられました。

創世記6:3
6:3そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

人間の主体である霊と魂と体から神の霊が抜け落ちてしまえば、神とのつながりを失い、魂と肉体だけの存在となります。だから神は「人は肉にすぎないからだ。」と仰せられました。そして、魂と肉体だけの存在ですから、知恵と意志と感情を主体とした魂と、物理的な五感を感じることの出来る肉体だけの存在となります。ですから霊が抜け落ちても、人間は自分で考えて、自分で判断して、自分で意思決定をする能力はあります。しかし、人間を創造された神との関係が絶たれてしまえば、「自分はどこから来て、どこへ行くのか?」が分かりません。「自分は何のために生まれて来て、何のために生きて、死んで自分はどこへいくのか?」分かりません。だから人生が空しく感じます。何か起こると不安を感じます。そして、魂と肉体だけの存在ですから、人の魂は肉体の五感を通して感じる物理的な世界の幸福感、満足感を求めて生きるようになります。現実に人は「肉」の満足を求めて生きています。新約では、イエス・キリストがある時、弟子たちに御自身の息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われました。

ヨハネの福音書20:22~23
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

イエスが弟子たちに御自身の息を吹きかけた行為と、神が人の体の鼻に御自身の息を吹き込まれた行為とは、「人は神の霊によって生きたものとなる」という同じ意味があります。ですからキリストが弟子たちに息を吹きかけた行為は「人の罪によって失った神の霊を、キリストの贖いによって再び神の霊(聖霊)の内住という形で神との交わりを回復させて下さる」という意味があり、それが神の救いです。話が細かくなってしまいましたが、神は人間を霊と魂と体の三つの要素から創り、それぞれの要素は一つ一つ区切りを付けて創られ、最後に神の息を吹き入れることによって三つの要素が一つの主体となり、人間として生きた活動を始めました。神はいきなり「エイッ!」と言って人の霊と魂と体を同時に創られたわけではありません。三つの要素を一つ一つ区切って人間を創りました。だから天地創造の過程で人間の創造に関する記事が三つに分けられて書かれています。 下記の図に人間の主体を成す霊と魂と体の相関をまとめてみました。

人間(魂)を中心に考えるならば、霊は神との接点、肉体はこの世(神が創造された物理的な世界)の接点です。

21.ちり(塵)から造られた人の体

神は人の体を土地のちりから造られました。土地のちりとは「ちり (塵)」です。「埃(ほこり)」です。土地の一番低いところに積もり、人の目から見れば万物の中で一番小さく価値の無いものです。風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまう存在です。「ちり(塵)」とは、ありきたりに言えば「ゴミ」です。「埃(ほこり)」です。土地の一番低いところに積もり散在しています。旧約聖書には神を畏れる象徴として「ちり灰に伏す」という行為が書かれています。神の怒りを恐れたヨシュアが地にひれ伏して頭にちりをかぶったように、あるいはヨブのようにちり灰の中で悔い改めたように、旧約聖書には神を畏れる象徴として「ちり灰に伏す」という行為が書かれています。ですから「ちり灰に伏す」とは「自分は罪を犯すことしか出来ないちりや灰と同等の全く価値の無い者である」という事を神の前に認める行為であることが分ります。悔い改めの行為として「ちり灰に伏す」とは、神が土地のちりから人の体を造られたのですから、「人が神が造られた本来の姿に身を置く」という意味があります。 「ちり(塵)」は万物の中で一番小さく、価値の無いものです。風に吹かれてさまよい続ける、そんな存在です。でも、神は、そのような価値の無いものから、人間の体を造られました。それは、人間の中心は魂にあるからです。人の魂が神に似せて神と同じように創られた部分であり、体は五感によって目に見える外部の世界を感じるための機能です。人が死ねば肉体は腐敗して消滅していきますが、魂は生き続けます。人の脳が人間の本質ではありません。人の体の細胞が人間の主体ではありません。だから神は先に人の魂を創り、万物の創造を完成された後に、人の体を土地のちりから造られました。そして、さらに、人(男)のあばら骨から女の体を造られました。
次に、人の霊と魂と体の関係についてもう少し分かりやすく考えてみましょう。

22.人間の領域・神の領域

人間の体には二つの世界が存在します。一つは自分の意志で動いている世界と、もう一つは自分の意志とは無関係に動いている世界です。
今、私は、自分の意志でこの文章をキーボードで打ち込んでいます。自分で考えて、自分の意志で指を動かしています。自分で考えているのは、魂が考えています。指でキーボードを打っているのは、自分の意志で指を動かしています。しかし、今動いている私の心臓は、私の意志で動かしているわけではありません。私が意識しなくても、心臓は勝手に、オートマチックに鼓動しています。夜、寝る前に、健康な人で「明日までちゃんと心臓は動き続けてくれるだろうか?」などと悩む人はいません。睡眠中でも、心臓は勝手に動き続けてくれます。私が死にたくて「心臓よ止まれ!」と何百回唱えても、私の意志に関係なく心臓は勝手に動き続けます。逆に私が二百歳まで生きたいと思っても、時が来れば私の心臓は私の意志とは関係なく停止します。幸か不幸か、私の意志とは関係なく心臓は動き続け、私の意志とは関係なく心臓は停止します。人間の肉体を構成している60兆ほどの細胞は、人間の意志とは無関係に、勝手に、オートマチックに活動しています。すでにお気づきのように、私の意志、私の知恵、私の感情、「私」という意識とは関係なく、人間の体は成長して、また、老いていきます。そして私の意志とは関係無く、病気になり、苦しみます。誰も病気になりたくて病気になるわけではありません。病気にならないよう日頃から気をつけていても病気になります。人間の体を構成している細胞の活動は自分でコントロールしているわけではありません。だから病気になります。「私」という意識、主体は、人間の本質である魂に属し、私の肉体は、「体」に属します。魂に属する人間の知恵、意志、感情を主体とする「私」という意識、存在は、神に似せて神の形に神と同じように創られた結果です。ですから人間の主体である「魂」は神に似せて神と同じように創られた高尚な価値を持った存在なのです。そして神は魂とは別に人間の体を価値のない土地のちりから造られました。科学や医学の世界では人の「脳」が人間の主体のごとく主張されていますが、脳は体の一部に過ぎません。確かに体をコントロールする機能であり、人間の体の中枢的役割を担っていますが、あくまでも体の一部であり、脳が人間の本質であるわけではありません。脳細胞から「私」という意識が生まれているわけではありません。神が「土地のちり」から人の体を造られたのは、「ちり」は物質であり、物質そのものは人間のような知恵や意志や感情を持っていないからです。つまり物質の活動はすべて神の意志に依存します。ですから「土地のちり」という物質から造られた人の体(細胞)の活動は、神の意志に依存します。だから心臓は自分の意志に関係なく動き続け、自分の意志に関係なく停止します。そして「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」と書かれています。「いのちの息」とは「神の霊」です。神の霊は「神の意志」です。人の体の細胞は神の意志によって活動しています。だから人の体(細胞)は自分の体でありながら、自分でコントロールすることが出来ません。みなさんは自分で自分の髪の毛が何本生えているか、数えたことがありますか?  おそらく、人類史上、自分の髪の毛の本数を指で一本一本正確に数えた人はいないのではないでしょうか? 不思議ですね。何で自分で自分の髪の毛の本数が分らないのでしょうか? 他人ではありませんよ。自分ですよ。自分の髪の毛ですよ。もし、自分の髪の毛が100010本だったら、「私の髪の毛は何本だろう?」と考えて、パッと「100010」という数字が頭の中に浮かんでもいいはずではありませんか? だって自分の髪の毛なんですから。してみると、「自分」って一体何でしょうか? イエスはあるとき

「あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」(マタイの福音書5:36)
「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」(マタイの福音書10:30)

と言われました。人間は自分で自分の体(細胞)の活動をコントロールしているわけではありません。土地のちりから人の体を造られた神が、人間の体(細胞)の活動をコントロールしています。だから神は 「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」(創世記6:3) と仰せられ、それまで何百年もの寿命があった人間が、この時から人の寿命は長くて百二十年程度になりました。 人の寿命は神の意志にあります。私の心臓は自分の意志で動かしているわけではありません。神の意志によって動いています。だから私が死にたいと思っても心臓は動き続け、もっと長く生きたいと思っても時が来れば私の意志に反して心臓は止まります。

23.法則を支配する神と法則に支配される人間

さて、ここで、少し道草をさせてもらいます。神と人間の知恵比べをしたいと思います。
聖書は奇跡のオンパレードです。たとえば、出エジプト記14章では、イスラエルの民がエジプト軍に追われながら紅海を目の前にして逃げ場を失い「もうこれで終わりだ!」と思った時に、紅海が真っ二つに裂けて逃げる道が開かれてエジプト軍から逃れることが出来ました。あるいはイエス・キリストはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという初めての奇跡を行ない、それから人々のあらゆる病気を癒すという奇跡を行っていきました。
科学では解き明かすことの出来ない、理解することの出来ない現象を、一般的に「奇跡」と言います。
神は天地創造ですべての万物の法則を創られました。ですから万物の法則はすべて神が支配しています。そこで、法則を支配する神の知恵と、法則に支配される人間の知恵(科学)を分り易く比較出来るように、数学を使ってお話しします。数学というよりも算数ですね。くれぐれも誤解のないように申し上げます。ここでは数学や化学を議論しているわけではありません。一つのたとえとして、神の知恵と人間の知恵を客観的に分かりやすく比較するために「水」という物質を数式に置換えてみるだけです。ちなみに私は科学や数学に関しては全くの素人なので、それを承知しておいて下さい。

現代科学は水は水素H(原子)二個と酸素O(原子)一個の化合物であることを解明しました。ですから水は水素と酸素の化学物で、化学式は H2O で表記されます。では、ここで、水素を2という数値に、酸素を8という数値に置き換えます。そして2+8=10ですから10を水とします。+は化合です。つまり2(水素)+8(酸素)=10(水)という数式に置き換えます。
2(水素)+8(酸素)=10(水)
ここで、頭を普通の数学の世界に戻してください。問題を出します。

Q:答えが10の数値になる数式は何通りあるか?答えよ。

答えは

A:無限(無数)です。

学校のテストでは必ずいくつかの数値が設定されているので答えが限定されます。たとえば

Q:10=2+□+5
A:3

というように。しかし、ただ単に「答えが10になる計算式」となると、もう無限に近い数になります。+-×÷の組合せから始まって、方程式、因数分解、関数と、数学のすべての数式を組合せた演算で答えが10になる数式の数となると、無限の数になります。何でも良いのです。とにかく答えが10になれば良のです。たとえば

10=1+1+1+1+1+1+1+1+1+1
10=1+9
10=11ー1
10=1000000000000ー999999999990
10=9.5+0.5
10=2×5
10=3÷0.3
10=□+□-□×□÷□





----------------
私は数学がまったく分からないので、これ以上分かりませんが・・・。
さて、話しを元に戻します。
2(水素)+8(酸素)=10(水)という化学的性質は、天地創造の過程で創造主なる神がそのように定義して、定理されたので、2(水素)+8(酸素)=10(水)という数式(分子構造)が確立されています。そして、私たち人間は、神が創られた物理の法則の中に存在しているので、人間の科学(知恵)によって2(水素)+8(酸素)=10(水)という水の分子構造を発見しました。しかし、人間の世界では、2(水素)+8(酸素)=10(水)は、それ以外の何ものでもありません。なぜ、水素と酸素を化合すると水になるのか? 分りません。水素と酸素を化合して水が出来るのに、なぜ、鉄とアルミニウムを化合して水が出来ないのでしょうか? こんなこと言うと、「こいつバカか?」なんて言われるでしょうね。そもそも、元素はなんで118個(程度)なんでしょうか? 元素が1000個あってもいいと思いませんか? 「そんなこと私に聞かれても分かりません」という答えが返って来るでしょうね。そうです。「そんなこと私に聞かれても分かりません」が正解です。そんなこと人間が考えたって分かりません。人間の科学(物理)がやって来たことは、たとえば「水」という物質の構造について、水という分子は水素原子2個と酸素原子1個から出来ていることを解明して、水素と酸素にエネルギー(熱)を加えることによって化学反応が起こり水素原子と酸素原子が結びついて水が生成されるということが分りました。そして、さらに、水素や酸素という原子は陽子・電子・中性子から構成されていて、またさらに陽子や中性子を構成しているクォークの存在を発見しました。しかし「では、なぜ、水と酸素を結合すると水になるの?」と質問されたら、もう、誰も答えられません。「なぜ、物質は原子で構成されているの?」「なぜ、原子は陽子と電子と中性子で構成されているの?」「陽子はどのようにして出来たの?」「いつ頃電子は出来たの?」「なぜ、中性子は存在しているの?」「なぜ?何故?ナゼ?」なんて質問されたら、もう科学者はお手上げです。「そんなこと言われても、水は水素と酸素の化合物なんだからしょうがないだろう」「なぜ原子と陽子と中性子が存在しているのかって? そんなこと俺に言われても分るはずないだろう」 そうです。「そんなこと俺に言われても分るはずないだろう」が正解です。そんなこといくら考えても、人間の知恵で分かるはずありません。ここに科学の限界があります。
科学はすべて「結果論」なのです。
万物は神の創造の結果であり、人間は神の創造の結果(物質の成り立ち)を、自分たちの知恵で解明しただけの話しです。ですから「水は水素と酸素の化合物である」ということは解明出来ても、「なぜ、水素と酸素を化合すると水になるのか?」という疑問に答えられません。なぜ、水という物質が存在しているのか? なぜ、物質には固有の化学的性質を持っているのか? という、物質の本質的な世界が解明出来ません。物質の本質とは、元素の起源や固有の物質の性質が形成される過程です。これは人間にも当てはまります。「なぜ、僕は生まれてきたの?」「なぜ、人間は死ぬの?」「なぜ、人間は戦争をするの?」ということと同じです。人間の知恵では物質の本質の世界が解明出来ないように、同じく、人間の知恵では人間の本質、いのちの本質は解明出来ません。
さて、先ほど水の分子構造を数式に置換えて2(水素)+8(酸素)=10(水)としました。そして「答えが10の数値になる数式は何通りあるか?」との問には、答えは「無限にある」ということでした。人間の科学(物理)の世界では10(水)=2(水素)+8(酸素)であり、10(水)を構成するための数式は2(水素)+8(酸素)という数式以外は存在しません。ところが神は10(水)という値を出すための数式を無限に持っています。先ほど書いたように

10(水)=1+1+1+1+1+1+1+1+1+1
10(水)=1+9
10(水)=11ー1
10(水)=1000000000000ー999999999990
10(水)=9.5+0.5
10(水)=2×5
10(水)=3÷0.3
10=□+□-□×□÷□・・・





と、10(水)=無限の数式です。ここで言う数式とは法則です。+-×÷の組合せから始まって、方程式、因数分解、関数など、数学のすべての数式(法則)を組合せた演算で、答えが10(水)になる数式の数となると、無限の数になります。ですから人間の知恵と神の知恵を比較したら次のようになります。

人間の知恵(科学)
10(水)=2(水素)+8(酸素)
ーーーーーーーーーーーーーーー
神の知恵
10(水)=1+1+1+1+1+1+1+1+1+1
10(水)=1+9
10(水)=11ー1
10(水)=1000000000000ー999999999990
10(水)=9.5+0.5
10(水)=2×5
10(水)=3÷0.3
10=□+□-□×□÷□・・・




神は水(10)を造るために10(水)=2(水素)+8(酸素)という化学式を人間の世界に当てはめて、さらに、それ以外に水(10)を作る化学式(数式)を無限に持っておられます。一つ一つの数値は元素で、+-×÷は化合方式です。 神は無限の方法で水という物質を造ることが出来るお方です。ただ、その無限の方法の中から、神は10(水)=2(水素)+8(酸素)という方法を選び、人間の世界に当てはめて、物理の法則として定義して、定理されました。だから、人間の世界では10(水)=2(水素)+8(酸素)であり、それ以外の水の化学式は存在しません。鉄とアルミニウムを化合しても水は出来ません。(そもそも鉄とアルミニウムは化合出来ないと思いますが・・・)ところが神は鉄とアルミニウムから水を造ることが出来ます。たとえば鉄=11、アルミニウム=21とします。11と21の数値が入った計算式で答えが10になれば良いのですから、10(水)=11ー22+21 あるいは 10(水)=11×3ー21ー2 というように。人間の科学や物理では絶対結び合わせることが出来ない二つの物質も、それを結び合わせる化学式を神は無限に持っています。人間は、神が創られた万物の法則を後追いで発見して、解明して、応用しているにすぎません。ここまで人間の知恵と神の知恵を客観的に比較して理解出来るように水という物質の構造(化学式)を数式に当てはめてお話ししましたが、私が何を言いたいのか? 理解出来たでしょうか。
人間と神の知恵比べは

1(人間) 対  無限(神)

の開きがあります。無限の中の1 は、もう「無」に等しいのです。しかも、そのたった1つの水の化学式も、神が創られたものです。人間は、神が創られたたった1つの化学式を発見して、「どうだ!人間の知恵は凄いだろう!」と誇っています。イエス・キリストが最初に行った奇跡として、ガリラヤのカナでの婚礼の席で水をぶどう酒に変えるという有名な話があります(ヨハネの福音書2章1節~11節)。もちろん神を信じない人たちは「荒唐無稽なあり得ない話~」と笑うことでしょう。水を瞬時にぶどう酒に変えるにはどのような方法、化学式が存在するのか私には分かりませんが、イエスは水がめ六つで500リットルほどの水を瞬時にぶどう酒に変えてしまいました。もちろんただの水をその場所で何か化学変化をもたらすような溶剤を入れたり、あるいは熱処理をして化合させるとか、何か化学変化させるような特別な事を行ったわけではありません。水の化学式を数式に置き換えたように、仮に、水を10の数値にして、アルコールを100の数値に置き換えた場合、
10(水)+(-×÷) 無限の数の数式 =100(アルコール)
ですから、神は無限の方法で水をアルコールに変えることが出来る知恵と力を持っています。創造主なる神は無限の知恵と力を以て万物を創られました。そこが、全知、全能なる神の所以です。神は無限の知恵と力を以て土地のちりから人の体を造られました。
人間の体の内臓の一つである肝臓は、「人体の化学工場」と云われます。肝臓には、人間が食べたり飲んだりして体内に入って来た様々な物質を、化学的に代謝、貯蔵、解毒、排出する作用があります。人間が肝臓と同じ機能の化学工場を造るとなると、東京都の面積に匹敵する大きさの化学工場が必要になるそうです。凄いですね。およそ2187平方キロメートルもの広大な化学工場が、わずか握りこぶし四つ程度の大きさで、私たち人間の体の中に臓器として収まっています。これを奇跡と言わずして、なんと言うのでしょうか? これが、万物を創られた創造主なる神の知恵です。

24.男と女

次に、神が創られた男と女について考えてみましょう。

創世記 1:26~29
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

創世記1:27を注意深く読むと、神は人を二つに区切って創られたことが分ります。
「神は人をご自身のかたちとして創造された。」
「神のかたちとして彼を創造し、」
「男と女とに彼らを創造された。」
神は人を「神のかたちとして彼を創造し、」次に「男と女とに彼らを創造された。」のです。この二つの区切りは人間の魂の創造の過程を表しています。神に性別はありません。しかし人間には「男」と「女」という性別があります。「性別」というのは、男と対(つい)となる女が居て、初めて「性別」が成り立ちます。もし、神が男だけを創り女が居なければ、「性別」という違いは存在しません。性別は一人では成り立ちません。二人が居て、男と女の違いが有り、その違いを区別する意味で、「性別」と呼称されます。

創世記1:27
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

「神のかたちとして彼を創造し、」と書いてあります。ここでいう「彼」とは、神のかたちに創られた「人間」という一つの魂です。「人格を持った魂という存在」です。神と同じように知恵と意志と感情を主体とした「魂」を創りました。そして、神は最初に創った魂を「男」としました。だから「神のかたちとして彼を創造し、」と言って「彼」という言葉が使われています。その「男」という魂から男の対となる「女」という魂を創りました。ですから人間の魂の創造は次の流れになります。

[神のかたちに創られた魂]→[男とした]→[男の魂から対となるもう一つの魂を創られた]→[女とした]

これは、創世記2:7で最初に男の体を造り、後に、創世記2:21~22で男の体の一部であるあばら骨から女の体を造られたのと同じです。神は御自身のかたちに創られた一つの魂を二つに分けて男と女に性別されました。そして、五感である体も一つの体(男)の一部を取って女を造り、二つの体を性別されました。人の魂も、体も、一つのものから異なる二つのものに性別されました。ですから男も女も「神のかたちに創られた」という人間の本質的な部分はまったく同じです。同質です。一つのリンゴを半分に切って二つにしても二つともリンゴであることには変わりません。それと同じです。そして、創世記2:18に、女が造られた動機と目的が書かれています。

創世記 2:18
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

神が女を造られた動機は「人が、ひとりでいるのは良くない。」からです。神が女を造られた目的は「彼のために、彼にふさわしい助け手を造る」ことです。この女が造られた動機と目的については、後々、お話し致します。そして、神は男のあばら骨から女の体を造ることによって、男と女の関係を明示されました。

創世記2:21~24
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

神がアダムに深い眠りを下されたので、アダムは眠りました。そして、アダムのあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさぎました。この記事も、神の物理的な行為と同時に、霊的なある事柄を表しています。神によって女(エバ)が造られて、男(アダム)の前に女が連れて来られるまでは、地上の世界は男が一人でした。地上の世界に人間はアダム一人しか居ません。ですから、この時点では、男と女の性別が存在しません。女が居ないのですから、アダムは全く女を意識することはありません。肉体的にも、精神的にも、性を意識することはありません。地上の世界に女が一人も居ないのですから、当然です。そのような状況で、アダムは神に眠らされ、神はアダムの体を開いて、体の一部であるあばら骨を一本取り、開いた体の部分の肉を元通りふさいで、そしてアダムは目を覚ましました。目を覚ましたアダムは、自分のあばら骨の一本が取られたことを自覚したはずです。あばら骨を取られる前の意識と、あばら骨を取られた後の意識の違いに気がつきました。
「あれ?なにか違うぞ」
と。ここで言う「意識」とは、「霊の意識」です。霊の意識とは、欲求です。渇望です。不足です。
神が創世記2:7で人間の体を造り、神のいのちの息によって人(男)は生きたものとなりました。ここで生きた男は「完成された人」でした。アダムは「完成された人」として造られました。しかし創世記2:21で男のあばら骨が一本が取られたことによって、男の霊に欲求、渇望、不足が生まれました。その男の欲求と、渇望と、不足を満たすための対象として、女が造られました。神は完成されたものから一つのものを取りました。完成されたものから一つのものが取られたら、完成されたものは不完全なものとなります。ですからあばら骨の一本を取られたアダムは不完全なものとなりました。不完全なものとは、霊的な欲求、霊的な渇望、霊的な不足です。その男の霊的な欲求、渇望、不足を補い、満たすために、神が男に与えたのが女(エバ)です。だから男の前に女が現れ時、男は言いました。
「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
アダムは言いました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」アダムはエバを見て「これは男から取られたのだから。」と言いました。男とは、自分です。アダムはエバを一目見て、エバが神によって自分の骨から造られたことを知りました。だから「これは男から取られたのだから。」と言いました。なぜ、アダムは、エバが自分の体の一部から造られたことを知たのでしょうか? それは、深い眠りを境に、一本のあばら骨が取られる前と、取られたら後の、霊的な意識が変わったからです。あばら骨が取られる前のアダムは完成された人間として、男として、満ち足りた人でした。そして女が存在しないのですから、「性」を意識することがありませんでした。ところが、あばら骨を取られることによって、霊的な欲求、霊的な渇望、霊的な不足を意識しました。この霊的な欲求、霊的な渇望、霊的な不足を補うのが、「女」です。つまり、アダムはエバを見て初めて「性」を意識したのです。「自分の対(つい)となる相手」を意識したのです。あばら骨を取られる前までは、性の意識がありませんでした。ところがあばら骨が取られることによって、性に対する意識、欲求、渇望、不足が生まれました。だからエバが目の前に現れた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言って、目の前に現れた人間に「女」と名づけました。ここで初めてアダムは「性」を意識しました。だから自分(男)に対して対(つい)となる存在として「女」と名づけました。そして、

創世記2:24~25
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

と書かれています。これらの一連の記述は、男女の愛、男女の性が作られる過程を表しています。
聖書は愛を四つの意味で表しています。ギリシャ語で、アガペー(神の愛)、フィレオ(すべての人間関係の愛)、ストルゲー(家族の愛)、エロス(男女の愛)です。ここでは神によって男にエロスが与えられ、エロスによって男女が一つとなり、やがて子どもが生まれてストルゲーが形成され、さらに人類が増えてフィレオが形成されて行きます。人類の愛を形成する出発点が、アダムとエバのエロスです。しかし、やがて、アダムとエバが罪に陥り、後々の子孫がエロスがもたらす肉体的な官能と快楽だけを求めるようになり、性を偶像化して崇拝するようになってから、エロスは自己愛や邪悪なものとして扱われるになりました。だから新約の書簡で、パウロはエロスがもたらす罪に陥らないよう警告しています。ですから新約聖書の愛はアガペーとフィレオを中心にして書かれています。アダムがエバに「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言ったのは、エバが自分の性の欲求を満たしてくれる存在として目の前に現れたからです。そして「私の骨からの骨、私の肉からの肉」とは、「神が私(男)の体から取られた骨と肉を補うのはあなた(女)です。」という意味で、アダムからエバへのプロポーズの言葉なのです。現代の人なら「あなたは私のすべてです。(私の骨からの骨、私の肉からの肉)どうぞ結婚して下さい!(私と一体になって下さい)」という感じです。もっとも現代では女から男にプロポーズするケースもありますが・・・(笑)
アダムは「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言いましたが、何を以て「骨からの骨、肉からの肉」と言ったのでしょうか? アダムにしてみれば、自分の骨なんて目に見えないし、直接触ることも出来ませんよね? 目に見えない、直接触ることが出来ない骨は、「本能」です。目に見える肉は、「体」です。骨は、魂の骨格である本能や精神的な欲求です。肉は、物理的な体の欲求(性欲)です。男と女は、お互いが本能や精神的な欲求と肉体的な欲求(肉体の交わり)が満たされることによって充足して、満足します。

創世記2:21
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

男から取られたあばら骨は女の象徴です。男と女が一つとなって人は完成されたものとなります。だから神は 「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と仰せられました。男と女が一体になることによって愛が完成されます。男と女という二人が一つとなって、人類の愛が始まります。神は創造の第六日に男と女の魂を創り、そして彼らを祝福して仰せられました。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」とは、文字通り子孫の繁栄です。その人間の子孫繁栄の根幹を成すものが、男と女の愛です。エロスは天地創造の過程で人類が愛で満ちるために神が人間に与えた至福の愛です。だからアダムもエバも二人とも裸でも恥ずかしいという思いはありませんでした。「私の骨からの骨、私の肉からの肉」とは、神の物理的な創造と同時に、目に見えない男と女の魂の関係を具象した表現です。神が人の目に見えない、触ることの出来ない男の魂から本能と精神を取り、そこから女の本能と精神を作りました。創世記1:21~25の一連の流れは、男女の愛、エロスが作られる過程を表しています。ただ、後の人類歴史の中で罪によってエロスが歪曲され、現代ではストーカー殺人まで起こるようになりました。
私たちが存在している世界には男と女が居て、年頃になれば肉体的にお互い生殖機能が完成され、精神的に男性は女性を、女性は男性を求めて恋愛から結婚して家庭が築かれ、やがて子どもが産まれて家族が増えます。私たちの人生における男と女の関係は、天地創造で神が与えたアダムとエバのエロスに起因します。人類はなぜ男と女に分かれているのでしょうか? そんなこと、科学や医学では分りません。人間がいくら考えたって分るはずがありません。そりゃ~~染色体の組合せによって性別が決まるとか、物理的に男と女に選別される要素はあるでしょうが、物質の起源と同じように、人間の知恵で解明することは出来ません。私たち人間は、一人の男と女が出会って、愛し合って、子どもが生まれるという、子孫繁栄のための精神的、肉体的なメカニズムが、あまりにも良く出来ていて完成されているのに、ただただ驚くばかりです。
そして「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と書かれています。「一体」とは男と女が一つになることによってお互いを補完して社会の基である家庭を完成させることです。一人の男と一人の女の関係は人間社会の最小単位であり人間社会の縮図です。人の体は60兆ほどの細胞によって一人の人間の体が完成されているように、一つの家庭、一つの家族という細胞が完成されて、それが「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と仰せられた神の言葉によって人が増えていき、人間社会が人の体のように完成されていきます。それから、「天地創造」という映画の中にアダムとエバが裸で一緒にエデンの園から現れて来る場面がありますが、あの場面はおそらく「アダムとエバが一緒に創られて、同時にエデンの園に置かれた」という解釈で作られたのであのような流れになったのだと思いますが、実際はアダムとエバが同時に現れたわけではありません。

25.個人と社会

新約聖書でパウロがⅠコリント人への手紙で次のように書いています。

Ⅰコリント人への手紙12:11~27
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

この記事は、パウロがコリント人に書いた手紙の中の一部です。
パウロは「御霊の賜物」についてどうあるべきかを述べています。コリントの教会ではいくつもの御霊の賜物による働きが現れて人々の間で「どの賜物が一番価値があるのか?」という議論や分裂があったので、パウロが御霊の賜物についての教えを述べています。御霊の賜物は、一つの賜物が他の賜物を見下して自己主張するために与えられているのではありません。お互いがお互いを補完しあって、お互いを尊重するために与えられています。ですから御霊の賜物同士で優劣などありません。そして、パウロは御霊の働きを人間の体に重ね合わせて分かり易く述べています。手も、足も、目も、鼻も、耳も、口も、みんなそれぞれ形も働きも役割も違いますが、すべての器官は神が与えた秩序と目的をもって活動しているので、「人間」という完成された「いのち」が成り立っています。ですから人間の体は神によって造られた60兆ほどの細胞が造り上げた「社会」なのです。頭、目、耳、鼻、口、首、肩、腕、手、胴体、腿、足、食道、胃、膵臓、肝臓、十二指腸、小腸、大腸、肛門、神経、リンパと、すべて形も目的も役割も違いますが、それぞれの細胞は神によって定義された目的と秩序をもってその役割を果たしているので、人間の意思とは関係なくいのちとしての秩序と活動を保っています。「社会」は一人では存在しません。複数の人が集まることによって初めて「社会」が発生します。と言うよりも、複数の人が集まれば、そこに、必然的に「社会」が生まれます。イエス・キリストは、あるとき、次のように言われました。

マタイの福音書18:18~20
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

私たちクリスチャンは、キリストの体を造る小さな細胞です。キリストを信じる細胞であり、パウロが言っている体の中の一つの器官です。その細胞であり器官である人々が集まり、一人一人が神の御心に従って行けば、そこにキリストがともに居られて「キリストのからだ」という御霊の愛に満ちた社会が完成されます。しかし私たちが生きている現実の世界は神を信じない人々が集まった社会ですから、そこにキリストは居ません。だから争いと破壊に満ちた世界が出来上がりました。人類は、体中、癌に侵された患者と同じです。癌細胞が正常な細胞を侵食していき、最後は体の死を迎えるのと同じように、争いと破壊に満ちた「人類」という体が、最後は「人類の破滅」を迎えます。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
繰り返し述べているように、人間の目で見ている物理的な世界は、目に見えない霊的な世界、神の世界を描写しています。神は「男」という魂と体から「女」という魂と体を造りました。男と女の関係は、神が「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられ、神が人に与えた使命を果たすために必要な最小単位の社会です。男と女がお互いの欲求と不足を補い合うことによって一つの完成された「家庭、家族」という社会が出来上がり、そこからさらに新しい家庭、家族が生まれ、全地は神の家族で満ちていきます。だから神は「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と仰せられました。また、男と女は体だけではなく、人格としての性質も、気質も、精神も、特徴も異なります。男は男の役割を、女は女の役割を果たすために、それぞれの性質、気質、精神、特徴を持っています。男と女の関係についてはパウロがⅠコリント11章で述べていますが、男と女については、後々、お話ししていきます。それから、神は魂も体も男と女とに性別されて「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と仰せられたのですから、男と男、女と女が結び合う、いわゆる「同性愛」は、神が創られた本来の人間の姿、形ではありません。そして、神が人間に与えたもう一つの使命は、すべての生き物を支配することでした。

26.いのちを支配する人間

創世記1:28
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
「支配」とは、すべての生き物の中心に在っていのちの世界の秩序を作ることです。ですから神はアダムをエデンの園に置き、あらゆる野の獣と空の鳥をアダムのところに連れて来て、アダムが生き物に名を付けて、その名が生き物の名となりました。

創世記2:19
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

神が連れて来た生き物(動物)に人(アダム)が名を付けて、その名が生き物の名と成ったのですから、人間と動物とは、その立場が違います。人間と動物の関係は、人間が「主」で、動物が「従」です。人間の使命は、すべての生き物の中心に在って、いのちの世界の秩序を作ることです。ちょうど、おまわりさんが交通整理をするようなものです。交差点の真ん中におまわりさんが立って車の流れをコントロールします。もし、交差点に信号も無く、誰も車の流れをコントロールする人が居なければ、みんな自分勝ってに走って大混乱になります。交通整理をするおまわりさんには職務上の権限(権力)が与えられているので、一般の人はおまわりさんの指示に従わなければなりません。おまわりさんは職務上の権限(権力)によって交通整理をして、私たちはおまわりさんの指示に従うことによって車が秩序をもって走ることが出来ます。神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」と仰せられ、人にすべての生き物を支配する権威と権力を与えました。そして、神は御自身が創られたものに名を付けたように、神は御自身が創られた生き物を人のところに連れて来て、生き物の名の命名権を人に与えて、人が生き物に名を付けました。人が生き物に「名」を付けるのは、言葉と文字によって生き物を区別するための呼称として名を付けます。また、「名は体を表す」ように、人が付けた名によってその生き物の中身、性質、実体を表します。 犬や猫などのペットを飼っている人は、必ず、自分のペットに名前を付けるでしょう。ペットに名前を付けるのは、他人のペットと混同しないように区別することと同時に、動物からすれば、自分に名前が無いと誰が私の主人なのか分りません。動物は自分に名前が付けられて自分の名前を呼ばれることによってこの人が主人だと自覚します。たとえば私が犬を飼って「ポチ」という名前を付けて「ポチポチ」と呼べば、犬は「ポチ」という言葉(音声)に反応します。私がいつもポチに餌をあげたり散歩に連れて行けば、ポチは完全に私を主人と自覚します。人が生き物に名を付けるのは、生き物の主人が誰か? ということを自覚させると同時に、生き物の所有権は人間にあるという意味があります。神は天地創造で御自身が創られたものに名を付けました。これは、先に述べたように、「万物の著作権、所有権、支配権は、万物を創られた神にある」という意味があります。そして、神は人間にいのちの世界の秩序の創造を全面的に任せました。その最初の仕事が、神が連れて来た生き物に人(アダム)が名を付けることでした。神が創世記1:26で 「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」と仰せられた言葉が現実となりました。ところが人は罪によって神から与えられた本来の使命を忘れて、人が人を支配する世界を作りました。人類の歴史は人が人の上に立って同じ人間を支配しようとするための争いの歴史、戦争の歴史です。人間の使命は神が創られた地上の世界で繁殖して、全地は人で満ち溢れて、すべての生き物を治めて、平和な世界を作る事でした。しかし人の罪によって人が人を支配して人が人を治める世界が出来てしまいました。人が人の上に立って人が人を支配して治めようとするから同じ人間同士で争いが起こります。殺し合いの戦争が始まります。人類は罪によって神から与えられた本来の使命を失ってしまいました。

27.体の食物と魂の食物

神は人を男と女とに創られた後に、次のように仰せられました。

創世記1:29
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。」

神は食事をしません。しかし人間は食事をします。
創世記1:29で、神は「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。」と仰せられ、人間を食物を食べるものとされました。人が食物を食べるのは、神の本質と異なる部分です。神は人間を食物を食べるものとして創られました。そして、人間が食物を食べるのは、いのちとしての体の維持のためであり、その結果として、食事による満足感、幸福感を味わうことが出来ます。しかし物理的な食事をしなくても、魂は死ぬことはありません。人間の体は食物を食べなければ栄養失調になり、体が生命としての機能を維持することが出来なくなり、最後は死に至ります。しかし体は死んでも魂は死にません。体は死んで腐敗していきますが、魂は生き続けます。その魂の食物が、エデンの園に生えている「見るからに好ましく食べるのによいすべての木」です。天地創造の過程で人の食物に関する記事が3回出て来ます。創世記1:29と、創世記2:9と、創世記2:16です。

創世記1:29
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

創世記2:9
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

創世記2:16~17
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

人間の食物となる「実の成る木」に関する記事はこの三箇所です。天地創造の記録には、神は人間が生きる地上に二種類の木を植えたことが書かれています。前の創世記1:29に書かれている「全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」は、地上のすべての場所に生えている木で、後の創世記2:9と創世記2:16~17に書かれている「エデンの園に生えている実の成る木」は、神が特別に設けられたエデンの園に生えている木です。創世記1:29に書かれている「実の成る木」は「全地に生えている木」です。一方の創世記2:9と創世記2:16~17に生えている「実の成る木」は「エデンの園に生えている木」です。「全地」と「エデンの園」は同じ「地」の上にある場所ですが、エデンの園は神が特別に設けられた人間と交わるための霊的な場所です。ですから創世記1:29に書かれている「全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」と、創世記2:9と創世記2:16~17に書かれているエデンの園に生えている「見るからに好ましく食べるのによいすべての実の成る木」は、その性質と目的は、まったく異なります。また後で具体的なお話しをしますが、先に結論だけ申し上げると、創世記1:29で神が人間に与えた「全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」は「人間の体のための木」です。そして、創世記2:9と創世記2:16~17のエデンの園に生えている「見るからに好ましく食べるのによいすべての実の成る木」は「人間の魂のための木」です。「魂のための木」とは「霊的な木」です。イエス・キリストは、御自身を指して「わたしはいのちのパンです。」と言われました。ヨハネの福音書6章で「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と言われて、また 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言われて、最後に 「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」とは、キリスト御自身を人が食べるパンになぞらえて、キリストというパンを食べることによって人の魂は永遠に生きることが出来ることを諭しています。また「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とは、今、目の前の弟子たちに与えようとしている体の空腹を満たすための物理的なパンのことです。キリスト教会で行われている礼拝儀式の一つに「聖餐式」があります。パンを食べてぶどう酒を飲む聖餐式は、キリストのこの言葉から来ています。パウロが第Ⅰコリント人への手紙11章で教えているように、キリストの救いを告げ知らせるためにキリストの体であるパンを食べて、新しい血の契約としてぶどう酒を飲みます。「キリストのパン」とは「霊的な魂のための食物」です。エデンの園で人が食べ損ねた「いのちの木の実」を、キリストを信じることによって神は再び人間に与えました。それが神の救いです。エデンの園は地上の東の方に神が設けられた神(霊)と人(魂)が交わるための特別な世界、領域です。そして、神が人間と交わるために特別に設けられた「エデンの園」で、人類の運命を覆す大事件が起こりました。このことは後でお話し致します。
次に、では、人間以外の生き物はどのような仕組みになっているのでしょうか?

28.動物の魂と体

神が生き物を創られた記録は創世記1:20~25に書かれています。しかし、これも人間と同じように、この時点では生き物の魂を創られたのであって(魂というよりも「魂らしきもの」と言った方が正確です)、人間以外の生き物の体は創世記2:19で造られました。創世記1:20~25で、神は水に群がる生き物、空を飛ぶ鳥、海の巨獣、野の獣、家畜、地を這うすべての生き物の魂を創りました。ですからすべての生き物にはそれぞれの本能や習性があります。カルガモの子どもが親の後をくっついて歩き回ったり、渡り鳥の群がV字編隊(雁行)で飛んでいくのは、それぞれの生き物が持って生まれた本能であり習性です。動物の本能と習性は神が創られた動物の魂に刻まれた行動原理です。動物の本能と習性は偶然ではありません。進化でもありません。動物の本能と習性の中に、自然と調和する絶妙な物理的理論が働いています。そして、動物の魂が宿る住処として、創世記2:19で、神はそれぞれの生き物に相応しい体を造りました。

創世記2:19
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

ここに「神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、」と書かれています。「形造り」とは、生き物の形状や容姿を物理的に具現化することです。これは、人間の体を地のちりから造られたときと同じです。動物の体(細胞)も人間と同じように「土」という地上の物質から造られました。ですから動物の体(細胞)も人間と同じように神の意志に依存して神の支配の中にあります。そして、人間以外の生き物の魂が宿る住処として、創世記2:19で、それぞれの魂にふさわしい動物の体が造られました。だから魚は水中で泳ぐためにエラ呼吸しながらヒレによって泳ぐことの出来る体形をしています。鳥は空を飛ぶためにあのような翼を持った体形に造られています。

29.人間だけが持っている霊の世界

ここで大事なことは、動物も人間と同じように「魂と体を別々に区切って造られた」ということです。動物にも人間と同じように知恵と意志と感情があります。ペットを飼っている方ならよくお分かりでしょう。犬や猫も人間と同じように喜んだり、憂いたり、怒ったり、そのときの状況によっていろいろな気分があり、感情を表します。また、盲導犬のように、訓練をすれば人間が教えたことを理解して行動することが出来る知恵(知能)と意志を持っています。普通の犬でもトイレの躾や「お手!おすわり!」くらいは理解出来ます。ですから、人間以外の動物も、人間と同じように知恵と意志と感情を主体とした生き物です。ただし、人間と人間以外の生き物とは決定的な違いがあります。それが「霊」です。人間を構成する領域には神と交わるための「霊の世界、霊の領域」があります。動物には神と交わるための霊の世界や霊の領域はありません。そこが決定的な違いであり、また、人間は動物とは次元の異なる高尚な存在である証です。人間には神と交わるための霊的な世界がありますが、動物には神と交わるための霊的な世界はありません。だから、神は人間に動物の支配を任せました。人間が死ぬと神が言われた通りに肉体は腐敗して土に帰りますが、魂は生き続けます。人間の魂が生き続けるのは、人間の魂に神と交わるための霊的な世界、霊的な領域があるからです。魂の霊的な世界、霊的な領域が生き続けます。しかし動物の魂には神と交わるための霊的な世界、霊的な領域がありません。神は創世記1:26で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」と仰せられ、そして、人を御自身のかたちとして創造され、人を神のかたちとして創造されました。神は人間だけに「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せられたのであって、他の生きものには「われわれのかたちとして、われわれに似せて」とは仰せられていません。また、「彼らが(人間)、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」と仰せられましたから、人間は動物を支配する立場にあり、動物は人間に支配される立場にあります。人間と他の生きもの、動物とは、その存在の次元が違います。動物が死ねば肉体は腐敗して魂も同時に消滅していきます。そこが人間と動物の違いです。 人間は、体は死んでも魂が生き続けます。その魂を救うために、神は人類にイエス・キリストを与えました。動物の魂は体の死と同時に消滅します。だから動物には魂の救いは必要ありません。そして、神が人を土地のちりから造られた時、神は人の鼻からいのちの息を吹き込まれました。この「いのちの息」が「神の霊」です。一方の動物は、人間と同じように神は土からあらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造られましたが、しかし動物には神のいのちの息は吹き込まれていません。神の霊が吹き込まれていません。ですから人間以外の動物も人間と同じように知恵と意志と感情を主体とした魂の存在ですが、神と交わる世界、領域は在りません。神が人に「いのちの息」を吹き込まれたのは、人間には神の息を受け容れる世界、領域があるからです。人が風船に息を吹き入れて風船を膨らますように、人間には神の霊を受け容れる世界、領域が在り、その世界、領域に、神は御自身の息である霊を吹き込まれました。そして御自身の息である神の霊を人の体に吹き込まれた時、人は生き物となりました。すなわち、神の霊によって人間の「いのちの活動」が始まりました。人間のいのちの活動とは「神との交わり」です。人間の体に神の霊が吹き込まれることによって人と神が交わる世界、領域が出来ました。神と交わる世界、領域とは、「ことば(言葉・文字)」です。神と人間が交わるための唯一の手段が「ことば(言葉・文字)」です。言葉は人間だけが持っており、人間以外の生き物には言葉がありません。ヨハネの福音書の冒頭に書かれています。

ヨハネの福音書1:1~3
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

ヨハネの福音書1:14
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と書かれています。
「ことば(言葉)」って不思議ですね。目の前に相手が居なくても、人間には言葉があるので、電話を使って言葉による会話で相手が何を考えているのか、理解出来ます。あるいは文字によるメールで自分の考えを相手に伝えることも出来ます。二人の人が遠く離れていて直接会うことが出来なくても、言葉があるから意思の疎通がはかれます。この文書も、文字による言葉によって私の聖書の情報をインターネットを媒体として世界に伝えています。読む方も言葉によって私の聖書の情報を受け取り、文書を読みながらいろいろなことを感じているはずです。パウロは二千年前にすでに死んでこの世には居ません。しかしパウロが残した言葉は今でも普遍的な神のメッセージとして私たちの心に迫って来ます。神は目に見えなくても言葉によって人と交わることが出来ます。神が創られたすべての生き物の中で人間だけが自己表現する手段として言葉を使います。人間の頭の中には常にいろいろな思考が言葉で湧いて来ます。朝の通勤ラッシュの電車の中で、口でしゃべらなくても、車内を見回しながら頭の中でいろいろなことを考えています。

「あ~あ眠い。座りたいな」
「どこか席が空かないかな」
ドアが開いて「あっ!席が空いた!」
ドタドタドタドタ
「なんだよ!せっかく座ろうと思ったら、先に取られちゃったよ!クソ~」
「今日もまた部長に怒られるだろうな・・・憂鬱」
「そういえば、昨日のテレビは面白かったな」
「うわっ!混んで来た!」
「おい!そんなに押すなよ!!!」

もちろんこんなこと、口に出してしゃべったりしません。すべて、頭の中での会話です。混雑している電車の中でいろいろなことを考えたり、思いにふけったり、あるいはスマホでゲームを楽しみながら、頭の中でいろいろな思考や感情が「言葉」として湧き出て来ます。「自分」という意識の中に、いろいろな思考や思いが「言葉」として湧き出て来ます。電車の中で周りの状況や自分の思いをいちいち声を出して話す人はいないでしょ。一人でベラベラ声を出して話す人が居たら、周りから 「この人大丈夫?」なんて、奇異な目で見られることでしょう。 言葉は音声として口で発表しなくても、常に、自分の意識の中で自問自答しながら次から次へと湧き出て来ます。それが人間の「思考」です。人間の思考は「言葉」として、私たちの魂に意識されます。人間の思考が言葉として魂に意識される世界が「霊の世界」です。 人間は言葉によって知恵を働かせ、言葉によって意志を表し、言葉によって感情を伝えます。 聖書は 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 と言って、言葉そのものが神であると言っています。「神=ことば」です。神の実体は「ことば」です。神は「光よ。あれ。」と言葉を発して光を創り、その後も、神は言葉を発して万物を創られていきました。そして、神は人間を神の形に、神に似せて創り、その人間に神の霊を吹き込まれたので、人間は神と同じように「言葉」によって自分の実体を現すものとなりました。ですから「神=ことば」であるように、人間も「人間=ことば」となり、人間だけが神と同じように言葉を実体とした被造物として創られました。言葉を実体とする神と交わることが出来るのは、同じ言葉を実体とする人間だけです。だからエデンの園で神は人間だけに言葉で厳命されて、人間だけが神の言葉に応答しました。動物には言葉が無いので、神が連れて来た動物に人間が言葉を以て名を付けました。よく「動物も人間の言葉が理解出来るのか?」という議論がありますが、動物は言葉を実体とした生き物ではありません。ですから動物には人間の言葉は理解出来ません。たとえば犬は「ワンワン」と鳴き、猫は「ニャオ~」と鳴きますが、あれは聖書が言っている「言葉」ではありません。「ワンワン」や「ニャオ~」は、いわゆる「擬声語」というものに分類され、人間の言葉とはまったく違います。違うというよりも、次元の異なる性質のものです。確かに犬は「ワンワン」、猫は「ニャ~」と鳴くことによって動物同士の意思の疎通をはかっていますが、私たち人間の実体である「言葉」ではありません。私たち人間は、喜怒哀楽を顔の表情と言葉で表現します。楽しいときはニコニコしながら「今日は楽いよ!」と叫び、頭に来たときは怒りの顔で「バカヤロー」と怒鳴り、哀しいときは愁いの顔で「切ないな・・・」と沈み込みます。しかし犬や猫はいつも同じです。そのときの感情によって鳴き方や表情は違いますが、楽しいときも「ワンワン」怒ったときも「ワンワン」哀しいときも「ワンワン(クウン・・クウン・・)」。猫も同じです。動物は鳴き声(擬声語)と顔の表情と仕草で自分の感情を表現します。動物は「鳴き声」であって、「言葉」ではありません。一般に、動物の「鳴き声」と人間の「言葉」が混同されがちですが、「鳴き声」と「言葉」はまったく次元の異なる性質のものです。動物は人間の言葉の感覚を感じて反応しています。言葉に付随する音声と言葉の感覚で人間の意思や感情を感じ取っています。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

神は言葉を実体とした霊的存在です。それと同じように、人間も言葉を実体とした霊的存在です。「霊的存在」とは、正確に言うならば「神と交わるための霊的な世界、領域を持った存在」ということです。その神と交わるための霊的な世界、領域が、ことば(言葉)です。私たち人間の思考は言葉によって成り立っています。いろいろな思いや感情が言葉となって魂から湧き出て来ます。その言葉が湧き出て来る思考の世界が「霊の世界」です。
イエス・キリストの弟子の一人だったイスカリオテ・ユダがイエスを律法学者、パリサイ人たちに銀貨30枚で売る前に、ユダにサタン(悪魔)が入ったことが福音書に書かれています。

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。」(ルカの福音書22:3)

「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、・・・」(ヨハネの福音書13:2 )

『彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」』(ヨハネの福音書13:27)

イエスの弟子の一人であったユダにサタンが入りました。サタンはどこからユダに入ったのでしょうか? 口からでしょうか? 鼻の穴からでしょうか? 耳の穴からでしょうか? それとも肛門からでしょうか? ユダに入ったサタンはどこに居るのでしょうか? 肺でしょうか? 胃でしょうか? 腸でしょうか? 人に入ったサタンはレントゲンやCT検査で映るのでしょうか? お医者さんがCT画像を見せて「ここに黒い影が映っているでしょう、これがサタンですね。ではこれからこのサタンを取り出す手術をします。当病院には『神の手』と呼ばれているサタンを取り出すための優秀な外科医が居るので安心して下さい。この外科医は失敗しないので」とでも言うのでしょうか?
ユダにサタンが入った世界、ユダにサタンが思いを入れた世界が「霊の世界」です。サタンは霊の存在です。ですから人間の思考領域である霊の世界、霊の領域に入って来て、サタンの思いや言葉を入れて来ます。そのサタンの思いや言葉が私たち人間の思考として意識されます。サタンの思いや言葉が人間の思考として人間の行動に現れる時、そこから人間関係の崩壊が始まります。愛の崩壊が始まります。

30.万象の完成

ここで、天地創造の記録で誤解されて解釈され易い(実際にキリスト教界ではほとんど誤解されて解釈され、その誤解された解釈が当然のように教会で教えられ、信じられています)記述の一つである「万象の完成」についてお話しします。
神の天地創造は、創世記1:1から始まって、創世記1:31の第六日で天地のすべての万象が完成されました。だから創世記2:1に「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」と書かれています。神が完成された万象の中には、創世記1:20~27に書かれている人間(男と女)と、他のすべての生き物も含まれています。そして、創世記2:2~3で神は第七日目を祝福して、聖別して、創造の業(わざ)を休まれました。ところが後の創世記2:7から、また神が人の体を造り、エデンの園を設けて、動物の体を造り、女の体を造る記録が書かれています。神の創造は創世記2:1で「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」と言ってすべてが終わったはずなのに、その後、また、人間や動物の創造の記録が出て来ます。ですから「はあ?これは一体どうなっているの?なんで?なんで?」という疑問が当然湧いて来ます。また、創造の第三日の創世記1:11~12で地に植物や草木を生えさせたのに、万象が完成された地上の世界には一本の灌木もなく、一本の野の草も芽を出していませんでした。その理由として、神が地に雨を降らせず、土地を耕す人がいなかったからだと書かれています。つまり、創世記1章と2章の記述は整合しない、一貫性のない、矛盾がある記録で、それが、神の天地創造を否定する根拠の一つとなっています。そこで、この問題を考えたいと思います。しかし、その前に、この問題の結論を先に申し上げます。この問題の答えは、

「聖書を読む『視点』が違うから、矛盾しているように見えるのです」

では、創世記1章と2章の整合しないような、矛盾するような記述について、具体的に考えて行きましょう。
まず、創世記1:1~2:3の記述をA-description(Aの記述)、創世記2:4~2:25の記述をB-description(Bの記述)として、A-descriptionとB-descriptionの特徴と辻褄が合わないような記述を整理します。

1.A-descriptionは神の創造の手順が順番に、箇条的に、整理されて書かれています。それに対してB-descriptionは具体的な地上の世界の様子と、人間(男と女)と他の生きものが造られる過程と、神と男の会話と、エデンの園の様子が書かれています。文体の特徴と内容がそれぞれ異なっています。

2.「神」の表記がヘブル語原典ではA-descriptionはエロヒーム、B-descriptionはヤハウェと記述されています。だから新改訳聖書はA-descriptionでは「神」と表記され、B-descriptionでは「神である【主】は」と表記されています。

3.A-descriptionの創造第一日に光が創られて「夕があり、朝があった。」と書いてあるのでこの時点で太陽が、あるいは何かの光が創られたと解釈されます。ところが後の創造第四日にまた太陽が創られています。

4.A-descriptionの創造第三日に地の上に植物が生えました。ところが植物の光合成に必要な光と熱を与える太陽は創造第四日に造られています。科学的に考えるならば順番が逆です。また、一般に科学では太陽が先に出来て、地球は太陽の後から出来たと考えられています。しかし聖書が示す順番は、地球が先に出来て、太陽や他の天体は地球の後から出来ました。

5.A-descriptionの創造第五日に鳥や動物や魚が造られて天と地とそのすべての万象が完成されたはずなのに、またB-descriptionで野の獣とあらゆる空の鳥が造られています。

6.A-descriptionの創造第六日で人間である男と女が造られました。そして、すべての万象が完成されて神は第七日目になさっていたわざの完成を告げられ、すべてのわざを休まれました。ところがまたB-descriptionで男と女が造られています。

7.A-descriptionの第三日に植物が生えて、さらに第六日に植物や食物としての緑の草が生えて人が造られ、人に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられました。ところがB-descriptionの冒頭には「地にはまだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出しておらず、雨も降らず、土地を耕す人もいなかった」と書いてあります。

8.A-descriptionの創造第三日と第六日に植物や食物として緑の草が生えました。ところがB-descriptionでは神がさらにエデンの園というところに見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせました。

さて、これら一連のA-descriptionと B-descriptionが整合しない、一致しない、一貫性のない、一見矛盾するような記述は、どう理解すれば良いのでしょうか? この問題の答えとして、いろいろな解釈がなされていますが、キリスト教界では大きく分けて二つの解釈が示されています。まず、一つ目の解釈が、

「創世記1:1~2:3(A-description)の記述はアウトライン(輪郭)で、創世記2:4~25(B-description)の記述はアウトライン(輪郭)を補足する意味でのディテール(細部)を記したもので、二つに分かれている記述は同じ一つのグループです。このような文法は聖書ではよく用いられている手法です」

という解釈です。この解釈を仮に「二重補足説」とします。そして、もう一つの解釈が、「文書資料説」という創世記が編纂された経緯を示す一つの仮説です。「文書資料説」とは

「創世記1:1~2:3(A-description)と創世記2:4~25(B-description)は著者が別人で書かれた年代や背景も違います。だから創世記1:1~2:3と創世記2:4~25では文体の特徴や内容が異なって書かれています」

という解釈です。いずれの解釈も、共通していることは、「A-descriptionと B-descriptionの間には、辻褄が合わない記述、矛盾する記述が存在していることを暗に認めている」ということです。矛盾を認めた上で、「いやいや、これはこうだからこうですよ」と後から辻褄合わせのための論理をはめ込んで「弁明的」に、「釈明的」に、解釈しています。私の理解は冒頭で申し上げたように「天地創造の記録は神が創造された物事を事の起こった順番に羅列しながら記述してある」ということを前提としているので、「二重補足説」も「文書資料説」も私の解釈とは異なります。私の解釈は「弁明」ではありません。「釈明」でもありません。「辻褄合わせの論理」ではありません。最初から「Adescriptionと B-descriptionの間に矛盾など存在しません。一貫性のある、まとまった、一つの文章です」と言っているのです。
創世記1章2章の記述は「神の側から見た天地創造の記録」が書かれています。「神の視点」で書かれた天地創造の記録です。人間の科学、物理の視点や人間の論理で書かれている記録ではありません。神が既に在った既存の科学、物理を用いて万物を創られた記録ではありません。科学や物理やいのちも何も存在しない「無」の世界に既存の科学、物理、いのちの世界を創る過程が書かれた文章です。私が言っている意味が理解出来るでしょうか?  だから創世記1章と2章の記述は最初から私たち人間の科学、物理とは整合しません。合理しません。一致しません。
ところがキリスト教界も無神論、進化論の科学、物理の研究者に挑発されて一生懸命既存の科学、物理をベースにして創造論を組み立てようとします。人間の科学、物理の論理で天地創造を解釈しようとします。しかしどう考えても百パーセント辻褄が合う、整合する、相手を納得させるような論理は出て来ません。
話しを元に戻します。

創世記1章1節から2章25節までを客観的に眺めて見ると、ご存知のように神の天地創造は二段階に分けられていることが分ります。創世記1章1節から創世記2章3節(A-description)までの前半と、創世記2章4節から創世記2章25節(B-description)までの後半です。前半は創世記1:1の「初めに、神が天と地を創造した。」から始まって、創世記2:3の「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」のところまでです。後半は、創世記2:4の「これは天と地が創造されたときの経緯である。」から始まって、創世記2:25の「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」のところまでです。読んでみて分りますが、前半の創世記1:1~2:3までは、神の創造の手順が順番に、箇条的に、整理されて書かれており、後半の創世記2:4~2:25までは、具体的な地上の世界の様子と、人間(男と女)と他の生きものが造られる過程と、神と男の会話と、エデンの園の様子が書かれています。そして、このような文章構成の中で、人間の創造に関する記述で先ほど言いました「創世記1:26~27の記述はアウトライン(輪郭)で、創世記2:7と創世記2:21~22の記述はアウトライン(輪郭)を補足する意味でのディテール(細部)を記したものであり、三つの記述は同じ一つのグループである」という解釈が生まれました。ここで「二重補足説」の矛盾について考えて見ましょう。
二重補足説の根底にあるものは「創造第六日の創世記1:26~27の時点で神はすでに霊と魂と肉体を主体とする人間を完成されたものとして創られ、この時点ですでに人間の活動が始まった」という前提です。つまり、創世記1:26~27に書かれている「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」という記述を以て、「人間はこの時点で霊と魂と肉体を主体とした被造者として完成され、生きたものとなった」と解釈します。さらに、ここで神が人間を創られた過程をディテール(細部)として書かれたものが、創世記2:7と創世記2:21~22の記述である、と解釈します。ということは、創世記2:4から創世記2:25に書かれているエデンの園での出来事は、創造第六日の出来事なのでしょうか? あるいは神がすべての創造を完成されて休まれた第七日以降ということでしょうか? また、神は創造第三日に地に植物を生えさせて(創世記1:11~13)創造第六日に人を創られたのに(創世記1:27)、神が完成された地には一本の野の灌木もなく、一本の野の草も芽を出しおらず、人も居ませんでした(創世記2:5~6)。いずれも天地創造で一番大事な神によるいのちの創造のポイントがぼやけてはっきりしません。話が込み入って私もどう書いていいのか分らないですが、要するに、モーセであれ誰であれ、神の霊によって一人の人が創世記1章と2章を書いたとするなら、もう少し一貫性のある合理的で辻褄の合う文章が書けるはずです。創世記1章2章3章は宇宙の始まり、地球の始まり、人類の始まり、そして人類が罪に陥るという、聖書の根幹を成す一番大事な記録が書かれています。そのような大事な記録を、神がわざわざ人間が理解しにくいように難しく書かせるはずがありません。では、なぜ、創世記1章と2章が矛盾しているように見えるのでしょうか? それは、聖書を読む「視点」が違うからです。解釈する「入口」が違うからです。間違った視点で見れば、間違った世界が見えて来ます。間違った入口から入って解釈すれば、当然、間違った出口から出て来た間違った解釈が生まれます。細かいことを追究したら切りがないのでここで議論は止めますが、二重補足説は「あっち(A-description)を立てればこっち(B-description)が立たない。こっち(B-description)を立てればあっち(A-description)が立たない世界」をループしているような状態です。ある人は「創世記1章2章は神の天地創造の大きな概念が書かれているだけで、そんなに細かいことに拘る必要はない」と言います。果たしてそうでしょうか?
みなさんは旧約聖書のレビ記を読んだことがあると思いますが、レビ記を読んで何を感じたでしょうか? 私の感想は「神様って、随分、随分、随分、細かい方だな~~~しつこい方だな~~~」と思いました。正直、レビ記を読みだすと眠くなって来ます。(^^; この無限の宇宙を創られた壮大な方が、人が神と会うために会見の天幕に来る時のささげ物や服装や手順や諸々の規定をこれでもか!これでもか!これでもか!と言うくらい事細かに神が定めています。当時の人々はレビ記に書いてあるあの規定を一つも漏らさずに行っていたのですから、ユダヤ民族って凄いですね。敬服します。今の恵みの時代に生まれて来てほんとうによかった!(^^;
これほどまでに事細かにしつこいくらいレビ記に書いてある規定を定めレビ記を書かせた神が、果たして御自身の天地創造を大雑把に、大まかに、書かせるでしょうか? 人類の始まりと人類が罪に陥る記録を神がわざわざ人間が悩むように、理解出来ないように書かせるでしょうか? いいえ、神はきちんと、人間が理解出来るように、創世記1章2章を書かせました。創世記1章と2章は何も矛盾しません。きちんと整合する、一貫性のある文章です。矛盾しているように見えるのは、整合していないように見えるのは、聖書を読む「視点」が違うからです。
「文書資料説」については本文の後半に書きましたので、そちらをお読みいただければ理解出来ると思います。

31.万象の完成といのちの完成

ここからは、私が理解している「天地創造の記録は神が創造された物事を事の起こった順番に羅列しながら記述してある」について、お話しさせていただきます。

天地創造の記録を客観的に眺めて見ると、創世記2:1~3で神がすべての万象を完成されて創造のわざを休まれた記述を境に、前の創造の記録と後の創造の記録の二つに分かれていることに気が付きます。先に述べた前半(A-description)と後半(B-description)の記録です。前の創造は創世記1:1~31で、後の創造は創世記2:7~2:25です。そして、神が万象を完成された地上の世界の具体的な状態が創世記2:4~6に書かれています。この創世記2:4~6の記述が重要なポイントです。
前の創造の記録
(創世記1:1~31)
     ↑
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すべての万象の完成
創世記2:1~3
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
     ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーー
神が万象を完成された時の地上の世界の具体的な状態
創世記2:4~6
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
     ↓
後の創造の記録
(創世記2:7~2:25)

前の創造の記録は「初めに、神が天と地を創造した。」と始まって、第一日、第二日、第三日、第四日、第五日、第六日と順番に整理されています。記述の内容が「地」という何もない世界に順番に万物が創られていく様子が書かれています。それに対して後の創造の記録は神が創られた地上の世界でさらに人間の体が造られて、エデンの園が設けられて、生き物の体が造られて、女の体が造られて、具体的な地上の世界での出来事や様子が書かれています。そして、神と人、男(アダム)の女(エバ)に対する言葉が重要なポイントになっています。神の創造のわざは創世記2:1に「 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」と書かれていますから、この時点で神の天地創造は完成され、終了しています。そして、次に、創世記2:4~6に「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。」 と書かれています。ここにはっきりと「神である【主】が地と天を造られたとき、」と書かれていますから、神の万物の創造はすでに完成されて終了しました。しかし、地上には、まだ一本の灌木や野の草が芽を出していませんでした。その理由は、「神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」と書いてあります。神が万物を創造された出来たてホヤホヤの地上の世界は樹木(灌木)や野の草花もなに一つ芽を出していませんでした。人間も一人も居ませんでした。創世記1:26~27で神は人を男と女とに創られたのに、神が完成された地上の世界には誰一人存在して居ませんでした。あれ? 創世記 1:26~27で創られた男と女はどこに行ってしまったのでしょうか? そして、創世記2:7で、神は土地のちりから人を形造りました。あれれ??? 神は創世記1:26~27で人を創られたのに、なんでまた、人を造る記事が出て来るのでしょうか?  さらに、創世記1:20~25であらゆる生き物を創られたのに、また、創世記2:19に、「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、」と書かれています。これは、一体どうなっているのでしょうか??? 神は創世記1:11~12で植物と野の草木を生えさせたのに、完成された地上の世界には創世記2:4~5に書かれているように一本の植物も草木も生えていませんでした。また、創世記1:26~27で男と女を創られたのに、完成された地上の世界には人が一人も居ませんでした。これらの辻褄が合わないような記述はどう理解したらよいのでしょうか?
神は創世記1:1~31で万物の創造を完成されました。これは紛れもない事実です。ただ、神がここで完成されたものは、すべての「万象」を完成されたのです。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

神は創世記1:26~27で人を男と女に分けて創りましたが、おそらく、「この時点で人間は霊と魂と肉体を持った完成されたものとして造られた」と解釈されるので、その後の男と女の体が造られる記事と整合しない、辻褄が合わないという疑問が出て来ます。そして、整合しない部分や辻褄が合わない部分は「著者が重複して書いた」とか、あるいは先に述べたように「アウトライン(輪郭)とディテール(細部)を区別して書かれた。」という解釈で全体を合理化しようとします。しかしそれは違います。 神は創世記1:26~27で人を御自身の形と同じように創りました。しかし神は人間のような肉体を持った存在ではありません。ですから人間の肉体は神の形とは異なる部分であり、従って、創世記1:26~27の時点では、人間を魂として創り、人の肉体は後の創世記2:7で造りました。同様に、人間以外の生き物も創世記1:20~25でその魂が創られて、創世記2:19で生き物の体が造られました。創世記2:1で「すべての万象を完成された。」後に、人間と動物の体は造られましたから、人間と動物の体は「すべての万象」には入っていないということになります。では、「すべての万象」とは何でしょうか?
創世記2:1で神のすべての創造のわざは完成されましたが、完成されたばかりの地上の世界は次のような状態でした。

・地には、まだ一本の野の灌木もなく、一本の野の草の芽を出していなかった。
・雨が降らなかった。
・水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。(霧が中から立ち上がり土地の全面を潤していた。地上は霧に覆われ、地表に太陽の光がまだ届いていなかった)
・人が一人も居なかった。

2章6節に「ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。」と書かれています。「水が地から湧き出て」と書いてあるので、地面からボコボコと水が噴水のごとく湧き出ていて地表の全面が沼地のように水で覆われているようなイメージを持ちますが、そうではありません。この「水」について、聖書によっては「霧」と翻訳されています。本文は新改訳聖書(第3版)を使用していますが、新改訳聖書(第2版)では、「ただ、霧が地から立ち上がり、土地の全面を潤していた。」と訳され、口語訳では「しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。」と訳されています。

「ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。」 (新改訳聖書・第3版)
「ただ、霧が地から立ち上がり、土地の全面を潤していた。」(新改訳聖書・第2版)
「しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。」  (口語訳聖書)

原典には「霧(mist)」を意味する語句が記されているので、地下水が地表の全面に流れていて、地表は深い霧で覆われていたと、私は理解しています。もともと霧は水そのものです。そして地表の全面が深い霧で覆われていたので、太陽の光がこの時点ではまだ地表まで届いていませんでした。さらに「まだ一本の野の草も芽を出していなかった。」と書かれています。「芽を出していなかった。」とは、芽を出すための植物や樹木の根は地面の下に植えられていましたが、まだ、根から芽が出ていなった、ということですよね? つまり、創世記1:11~12で神は地に植物を芽生えさせましたが、この「芽生えさせた」とは、神は「植物の源である根や種を地面の中に植えた」だけであって、「地面から植物の芽が出て成長した」ということではありません。ですからこの時点ではまだ地から植物の芽は出ていませんでした。ならば、なぜ、『「地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。』と書かれているのか? という疑問が残ります。しかし創世記2:5には「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」と書いてあります。これでは何が何だか分かりません。これは神の天地創造を理解する上でとても重要なことなので、この疑問の答えは「34.形と理論」「40.神が創られた万物を動かすコンピュータ」のところでお話し致します。また本書を最後まで読んでいただければ、創世記1章に書かれている神の言葉の意味が理解出来ると思います。

創世記2:1~6
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。

さて、これらの記録から分ることは、神は「すべての万象」を完成されましたが、地上の世界にはまだ「いのちの活動」がありませんでした。つまり、神が完成された「万象」とは、「いのちの本質(生き物の魂)」と「いのちが活動するために必要な環境」です。
神は創世記1:1~31の六日間の区切りの中で人や動物をはじめとするいのちある生き物の本質である魂と、いのちある生き物が活動するために必要な環境を創り、完成されました。その「いのちの本質(魂)」と「いのちが活動するために必要な環境」が、「すべて万象」です。神は創世記1:1~31の六日間の万物の創造の中でいのちある人や動物が活動するために必要なすべての環境を創り、整えられました。しかし、それは、いのちの活動に必要な環境を創り整えられただけであって、そこにはまだ具体的な「いのちの活動」がありませんでした。だから「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」と書かれています。そして、創世記2:7以降で、人間や動物をはじめとする「いのち(魂)」に神が物理的な体を造り、着せて、人間の体に神の息を吹き込むことによって人は生きたものとなり、具体的ないのちの活動が始まりました。同じように、創世記1:11~12で、神は「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」と仰せられましたが、完成されたばかりの地上には創世記2:5~6に書かれているようにまだ一本の野の灌木もなく、一本の野の草も芽が出ていませんでした。雨も降らず、霧(水)が地から立ち上がり、土地を耕す人も居ませんでした。これは、神は創造の第三日の創世記1:11~12で植物や草木を創りましたが、この時点で神が創られたものは「植物や草木の仕組み」を創られました。種や根から発芽して、成長して、やがて枝から実を結ぶまでの一貫したシステムを設計して創りました。ですから完成された地上には植物や草木の種や根は大地の中に植えられていましたが、雨が降らず、太陽の光もまだ届いていなかったので、地上の世界に芽を出すことが出来ませんでした。(これは本書を最後まで読めば理解出来ます)だからすべての万象が完成された後の地上の世界はまだ一本の野の潅木もなく、また一本の野の草も芽を出していませんでした。創世記2:1~3を境として、前の創造は「いのちの本質といのちの活動のために必要な環境の創造」で、後の創造は「具体的ないのちの活動の創造」です。
繰り返し申し上げているように、天地創造の記録は神の創造の過程を事の起こった順番に羅列して記録されています。決して重複して書かれたり輪郭と細部を区別して書かれたわけではありません。神の天地創造を演劇にたとえることが出来ます。

「前の創造は役者(人と動物)と役者が演技をするための舞台 (万象)を造り、後の創造はその舞台で演じる役者に衣裳(体と神の霊)を着せて舞台に立たせて、やがて演劇(いのちの活動)が始まりました」

理解出来たでしょうか? この解釈は、後で述べる「神を真似る人間」「形と理論」「神が創られた万物を動かすコンピュータ」を読んでいただければ「なるほど!」と理解出来ると思います。

32.偶然か必然か

先に少しお話ししましたが、物体が空中を飛ぶためには地球上の引力の法則に相対(そうたい)する飛行力学、飛行理論が必要です。ですから鳥や昆虫は引力の法則に相対する飛行力学によって空中を飛んでいます。飛行機は何億年という進化の過程で胴体から翼がニョキニョキと生えて来て、ある日、突然変異で、翼からジェットエンジンがモコモコと出て来て、空を飛ぶようになったわけではありません。人間の頭脳によって精密に計算されて、設計されて、造られた結果、あのような飛行機の形が出来上がり、空を飛ぶことが出来るようになりました。鳥や昆虫が空中を飛ぶことが出来るのは、飛行機と同じように、そこに物体が空中を飛ぶための物理、飛行力学が働いているからです。そして、空中を飛ぶ生物は様々な鳥をはじめ、蚊や、蝶や、蝉や、ハエなどの昆虫も、空中を飛びます。鳥は1万種類居るとされ、羽根(翅)の有る昆虫は数十万種類も居るとされています。そのすべての鳥と昆虫は地球の引力の下で空中を飛んでいます。どんな鳥や昆虫も、生物が空中を飛ぶことが出来るのは、そこに物体が空中を飛ぶための科学的で合理性のある飛行力学が働いているからです。飛行機は人間が計算して、図面を描いて、それぞれの部品を造って、組み立てた結果、あのような形状になり、人間が計算した通りに引力の法則に相対する飛行力学が働いているので、空を飛ぶ事が出来ます。では、鳥や昆虫が空中を飛ぶための飛行力学は、誰が計算して、誰が図面を描いて、誰が部品を造り、誰が組み立てたのでしょうか? 進化論はこの問に何と答えるのでしょうか?「何億年という歳月をかけて進化してきた結果、それが偶然にも引力の法則に相対する飛行力学を持ったあのような形状、容姿、メカニズムになり、空中を飛ぶようになった」と答えるのでしょうか? 鳥が空中を飛ぶことが出来るのは、鳥の物理的な形の前に、鳥という生物には地球の引力の法則に相対する飛行力学が生まれつき存在し、確立されているから、空中を飛ぶことが出来ます。鳥が空中を飛ぶための「理論」が先に存在して、物理的な鳥の「形」は後から出来たのです。だから創世記1:20~23に

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」 夕があり、朝があった。第五日。

と書かれて、創世記2:19に
「神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
と書かれています。創世記1:20~23が、神が、鳥が空中を飛ぶための「理論」を創られた部分であり、創世記2:19の部分が、先に創られた鳥が空中を飛ぶための「理論」に重ね合わせて鳥の「形」が創られた部分です。神のいのちの創造はすべて「理論」が先に創られて、「形」は後から造られました。「いのちの理論」が先に創られて、「いのちの形」は後から造られました。これは、先にお話しした「人間が物を造る工程」と同じです。最初に頭の中で造る物の構想を練り、次に構想を視覚出来るように設計図を描いて作る物の「理論」が先に作られます。そして、後から造る物の「理論」に重ね合わせて部品加工して造る物の「形」が造られていきます。人間は神によって創られましたから、人間が物やシステムを作る工程は、本能的に神による天地創造と同じ手順を踏襲します。偶然から理論は生まれません。だって偶然ですから。ましてや、物体が空中を飛ぶための飛行理論は、いろいろな法則が絡みあって成り立っています。しかも、生物には電気や燃料を必要とするエンジンは有りません。「進化論は科学的な実証が有る」と主張するなら、鳥や昆虫が空中を飛ぶための飛行理論の実証が100パーセント出来るはずです。しかしそれを100パーセント実証した科学者は未だに居ません。あの、1種類の鳥ではありませんよ。数十万種類も居るすべての鳥と昆虫の飛行理論の実証ですよ。進化論を信じる科学者は、本当に、「何十万種類もの鳥や昆虫も、単細胞から何億年という進化の歳月を経て羽根や翼が生えて空中を飛ぶようになった」と考えているのでしょうか? 数十万種類もの空中を飛ぶことの出来る鳥や昆虫の飛行理論も、進化の過程で偶然に確立されたと思っているのでしょうか? 飛行機は偶然に飛んでいるわけではありません。ライト兄弟の初飛行以来、人間が実験に実験を重ね、考えに考えた結果、飛行機が空中を飛ぶための飛行理論が確立され、何百人もの人を乗せて空を飛んでいます。偶然や突然変異から、物体が引力の法則に相対して空中を飛ぶことの出来る飛行理論が生まれることはありません。それは科学を研究している人たちが一番分っているはずです。だったら、鳥や昆虫が空中を飛ぶ飛行理論は、誰が考えて、誰が確立させたのでしょうか? しかも、いろいろな種類の鳥と昆虫がいます。同じ空中を飛ぶにしても、カラス、スズメ、モンシロ蝶、蚊は、大きさも、羽根の質や形状やメカニズムも、飛び方や飛ぶ距離やスピードも、まったく違います。しかし、同じ引力の下で飛んでいます。数十万種類もの空中を飛ぶ生き物が居て、その種類によって形や飛び方も違いますから、当然、その鳥や昆虫の種類による、それぞれの飛行理論が存在します。聖書は鳥や昆虫が空中を飛ぶことの出来る飛行理論は神が確立されたと言っています。天地創造の過程で神が考えて、神が設計して、神が部品を造り、神が組み立てて、神が完成されたから、生物が空中を飛ぶことが出来ると教えています。地球の引力や風という条件を基として、それに相対する生き物が空中を飛ぶための機能、システム、仕様を創りました。それが、生き物の「設計図」です。神は天地創造の第一日から第四日にかけて宇宙と天体と地球を創り、生物が住む場所と環境を創りました。そして、第五日から第六日にかけて、水の中で生きる生き物、空を飛ぶ生き物、地で生きる生き物を創りました。水の中で生きる生き物と、空を飛ぶ生き物と、地で生きる生き物を創られる過程で、当然、空を飛ぶ生き物は、先に創られた地球の物理的環境(風や気圧や温度や引力)を基にその飛行原理を計算して、設計して、創られました。引力の法則を創った創造主が、それに照らし合わせた合理的なそれぞれの種類に適した飛行理論を設計されました。だから多種多様の空中を飛ぶ生物が、それぞれ適した合理的な個性ある飛び方をします。神は地球の引力の法則に照らし合わせながら鳥や昆虫が空中を飛ぶための飛行理論、メカニズム、生命の法則(本能や習性)を計算した設計図を描きました。その「いのち(生き物)の設計図」が「生命(いのち)の万象」です。生命は万物のあらゆる法則と相互関係にあり調和して適合しなければなりませんから、「生命の万象」は創世記2:1に書かれている「すべての万象」に含まれています。そして、創世記2:19で、先に「生命の万象」として設計された空中を飛ぶ生き物に、具体的に目に見える物理的な形状と容姿を被せた結果、カラスはカラスの形と本能に、鳩は鳩の形と本能に、蝶は蝶の形と本能に、ハエはハエの形と本能に、蚊は蚊の形と本能に造られました。それぞれの生き物にはそれぞれの本能や習性があります。だから創世記1:20~25に

1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。

と書かれています。ここに「その種類にしたがって」という言葉が何回も出てきます。同じ鳥でも1万種類もの多種多様な鳥が空中を飛び、同じ昆虫でも数十万種類もの多種多様な昆虫が空中を飛んでいます。神の言葉によって数十万種類もの多種多様なそれぞれの鳥や昆虫の本能や習性、飛行理論が確立されました。仮に、ハエや蚊を捕まえて、羽根を半分に切ったら、果たして飛ぶことが出来るでしょうか? おそらく、飛ぶことが出来ないでしょう。つまり、生物は、すべて神の言葉によってその「形」と「理論」が完成されています。神が創造の第五日に「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられ、神の思考である神の言葉によって鳥が空を飛ぶ飛行理論が確立されたので、鳥として生まれた生物はみな雛から成長して当たり前のように空を飛ぶことが出来ます。天地創造の神の言葉によって鳥や昆虫は空を飛ぶように完成されています。そしてその完成された鳥を祝福して「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」と言われたので、鳥は太古の昔から子孫繁栄しながら永延と空を飛び続けています。ですから神の天地創造に関しては「進化論」は存在しません。

33.神を真似る人間

神の天地創造は、コンピュータが組み込まれたロボットにたとえることが出来ます。ロボットは、コンピュータの命令によって動きます。コンピュータには、あらかじめ、ロボットに命令を出すための「ソフトウェア」が組込まれています。ソフトウェアというのは、ロボットに仕事をさせるための命令や手順をプログラムとしてまとめたもので、いわゆる「物体」ではありません。目に見えない「人間の思考(命令・手順・定義)」を電気(デジタル信号)よって視覚化、物体化されたプログラムをハードウェア(物体)に送ってロボットは動作します。ですからロボットは目に見えない「人間の思考」が記録されたコンピュータのソフトウェアによる命令や手順に従って動作します。そのように、神が創られた万物も、ハードウェアとソフトウェアから成り立っています。人間の目に見える、人間の科学や物理で測定したり観測したり計算したり出来る世界が「ハードウェア」です。人間の科学や物理は神が天地創造で創られた「ハードウェアの世界」を研究しています。ハードウェアの研究によって物質の構造や物質固有の運動、物質の性質を理解します。ですから「水は水素と酸素の化合物である。水の沸点は1気圧のもとで100℃である。水の融点は1気圧のもとで0℃である」というのは、万物のハードウェアの世界です。しかし繰り返し述べて来たように、「では、なぜ、水素と酸素に熱エネルギーを加えると水という物質に変化するのか? なぜ、水は100℃で沸騰するのか? なぜ、水は0℃で凍るのか?」という、万物の根本的な疑問に人間の科学は答えられません。なぜ、そのような物質が存在し、なぜ、そのような性質を持っているのかが分かりません。万物の本質の世界が分かりません。物質を含めた万物の本質は「ソフトウェア」の世界です。つまり、万物は神の命令、神の指示、神の思考に従って活動しています。ロボットがコンピュータのソフトウェアのプログラムに書かれている命令や手順や定義に従って動作するように、万物は神の命令、神の指示、すなわち神の言葉に従って活動しています。その神の命令、神の手順、神の定義が、ヨブ記38章33節に記されている「天の法令」です。霊的な神の世界です。人間の五感では分らない世界です。だから水素と酸素に熱エネルギーを加えると水が生成されるのは、神が天の法令としてそのように定めたから水素と酸素を化合すると水になります。天上で神が水素と酸素に熱エネルギーを加えると水が生成されるようにプログラミングして天の法令として定めたので、人間の科学の世界で水素と酸素に熱エネルギーを加えると水が生成されます。物質の運動や物質の固有の性質は天地創造で神が定められた「天の法令」に従って活動しています。私たち人間が認識している科学や物理の世界は神が創られたハードウェアの世界を研究しているにすぎません。ですから物質や法則の構造や仕組みや性質を解明することは出来ても、個々の物質や法則などの万物がどのようにして創られて、なぜ、そのような構造や性質を持っているのかが分かりません。物質や法則の本質の世界が分かりません。ロボットを分解して一つ一つのパーツを研究すればロボットの構造や仕組みは解明出来ます。しかし、「では、なぜ、このロボットは自らこのような動作をするのか? なぜ、自らこのように反応するのか?」というのは、ロボットに組み込まれているコンピュータのソフトウェアに書かれている動作原理のプログラムを解析しない限り知ることは出来ません。

ヨブ記38:33
38:33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。

万物は天地創造で神が定められた「天の法令」に従って活動しています。神の国の「天の法令」が万物のソフトウェアで、地上の世界の「法則」が万物のハードウェアに相当します。ですから聖書は人間の世界の物質や法則の原因、起源は、神の言葉により神が定めた「天の法令」にあると教えています。「神の言葉」は「神の思考」です。その「神の思考(命令・手順・定義)」が万物のソフトウェアとして「天の法令」に定められています。だから

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル人への手紙11章3節)

と書かれています。 見えるもの(ハードウェア)は見えないもの(ソフトウェア)によって活動しています。見えるもの(ハードウェア)だけを研究しても、見えるもの(ハードウェア)の本質を解明することは出来ません。
人間は神によって創られました。そして、人が罪に陥った後に、神が「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と仰せられましたから、人間は、本能的に、神と同じことをします。人間が物や社会システムを作る工程は、神の天地創造の工程を踏襲します。神が目に見えない御自身の思考であるソフトウェア(天の法令)によってハードウェア(物質と法則の万物の世界)を動かしているように、人間も神と同じようにソフトウェアとハードウェアという概念によるコンピュータによって今日のIT(Information Technology)社会を作りました。

34.形と理論

先にお話しした繰り返しになりますが、人間が何か物を造る時は、まず、どのような物を造るのかを頭の中で構想します。次に、頭の中の構想を視覚出来るように設計図やフローチャートや仕様書として書き出すことによって具体的な造る物の「形」が見えて来ます。そして、設計図から造りたい物を材料加工して具現化して行きます。物を造る時はいきなり加工するわけではありません。必ず頭の中の構想を設計図として書き出します。造る物が複雑で高度なものほど、なおさらです。神は創造の第五日と第六日にすべての生き物と人間を創られましたが、第五日と第六日に書かれている動物と人間の創造は「動物の設計図」「人間の設計図」を描かれました。物理ではない、目に見えない動物の魂、人間の魂を「いのちの設計図」として描かれ、この「いのちの設計図」が「いのちの形」であり、「いのちの万象・いのちの本質」です。そして、「いのちの設計図」を基に、それまでに創られた「いのちが活動するための環境(天地の万象・創世記1:1~19)」と調和するように人間の体と動物の体を土地のちり、土(創世記2:7、2:19)を素材として加工して出来上がった物が、物理的な人間の「体」です。そして人間の鼻からいのちの息(神の霊)を吹き入れた時、人間をはじめとした「いのちの活動」が始まりました。ですから先にお話ししたように創世記1章2節は「神の思考の世界」を表しています。

創世記1:2
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

神は何も無い「地」に、「これからどのようにして万物を創っていこうか?」と、考えていました。思考していました。思案していました。その神が考えている様子、有様を表現した世界が、創世記1:2に書かれている「地は茫漠として何もなかった。」という世界です。「地は茫漠として何もなかった。」とは、地なる場所に何か在るのですが、その何かがはっきりしない世界です。曖昧な世界です。漠然とした世界です。輪郭がはっきりしない世界です。おぼろげな世界です。不明瞭な世界です。ぼやけた世界です。焦点されない世界です。秩序のない世界です。統制のない世界です。これは、「地」なる場所が「神の思考、神の構想」で満ちていることを表しています。地なる場所は神の思考、神の構想で満ちていましたが、まだ、具体的な創造が始まっていません。「地」は暗闇に覆われ、そこには「大水」が在るだけで、他には一つの万物も、物理も、存在していません。だから「・・・何もなかった。」と記されています。そして、「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書かれていて、生命の源である水の上を、神の霊が活動していました。
次に、神は御自身が構想された天地創造を物理的に具現化するための設計図を描かれました。神は御自身が思考された万物の世界を具現化するために「万物の設計図」を描かれました。その万物の設計図を具体的に物理化した世界が、私たち人間の体である五感が感じている物理的な世界です。「万物の設計図」とは神の構想が確定したことを表します。ですから神の天地創造を見ると、あることに気が付きます。たとえば創世記1:3には、神の思考から光の設計図が描かれて光が創られる様子が書かれています。

創世記1:1~5
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。

1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

「神は仰せられた。」とは、神の思考(ソフトウェア)から描かれた光の設計図から物理的な光(ハードウェア)が生まれる瞬間です。茫漠とした世界から光が誕生した瞬間です。神の思考から光の設計図が完成されたので、「光があれ。」と御声を発して、次に、物理的な光が誕生しました。だから「すると光があった。」と書かれています。
・「地は茫漠として何もなかった。」
(神の天地創造の構想の世界)
       ↓
・神は仰せられた。「光があれ。」
(光の構想が設計図として完成され、御自身の言葉によって光の完成を宣言された)
        ↓
・すると光があった。
(物理的な光が誕生した瞬間)
       ↓
・神は光を見て良しとされた。
(神は御自身が構想して、設計図を描いて、誕生した物理的な光を見て、御自身の構想通りの光が出来たので、良しとされた)

同様に、茫漠とした世界に
      ↓
・神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。
(大空の構想が設計図として完成され、御自身の言葉によって大空の完成を宣言された)
      ↓
・そのようになった。
(物理的な大空が誕生した瞬間)
同様に、茫漠とした世界に
     ↓
・神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」
(海と陸地の構想が設計図として完成され、御自身の言葉によって海と陸地の完成を宣言された)
      ↓
・そのようになった。
(物理的な海と陸地が誕生した瞬間)
      ↓
・神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
(神は御自身が構想して、設計図を描いて、誕生した物理的な海と陸地を見て、御自身の構想通りの海と陸地が出来たので、良しとされた)
     ↓
    続く

1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。 1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

神の天地創造は次のような流れになります。
――――――――――――
茫漠とした世界(思考の世界)
  ↓
神は仰せられた。(設計図の完成)
  ↓
そのようになった。(神の思考が物理的な実体として現れた)
  ↓
第一日
  ↓
茫漠とした世界(思考の世界)
  ↓
神は仰せられた。(設計図の完成)
  ↓
そのようになった。(神の思考が物理的な実体として現れた)
  ↓
第二日
  ↓
 続く
――――――――――――
神の天地創造は、創造の第一日から第六日にかけて「神は仰せられた。」―「すると」―「そのようになった。」―「神は仰せられた。」―「すると」―「そのようになった。」が繰り返されています。「すると」「そのようになった。」のは、神の言葉(神の思考・神の構想)が設計図としてまとまったので、その設計図が物理的に現れた証です。「すると」の前に、神の思考・神の構想によって完成された「万物の設計図」が在ります。なんか、しつこいくらい同じようなことをゴチャゴチャ書いて「こいつ、頭おかしんじゃねえか?」と思われるかもしれませんが、ここはとても大事なところなので、もう少し分かり易くお話ししましょう。

仮に、精密に複製した鳩のぬいぐるみを造ったとします。羽根から胴体からすべてを精密に等倍して精巧に出来た羽毛の鳩のぬいぐるみです。では、その鳩のぬいぐるみを着て、50階のビルの屋上から、「よし!これから、ここから身を投げ出して鳩のように羽根をパタパタさせて空を飛ぶぞ!」と言って、実際に身を投げる人が果たしているでしょうか? まずいませんよね? なぜいないのでしょうか? 答えは「人間が鳩の形をしただけでは人間が鳩のように空中を飛ぶことは出来ないことを知っているから」です。大人から幼稚園の子どもまでが知っているように、人間が鳥のように羽根を付けて一生懸命両腕を振って羽根をパタパタさても空中を飛ぶことが出来ないのは科学以前の常識中の常識です。だからビルの屋上から鳩のぬいぐるみを着て飛び降りる人などまずいません。まあ、飛び降りたら、二三回羽根をパタパタさせながらそのまま真っ逆さまに落下して死ぬことになるでしょう。仮に、人間が一秒間に10回羽根をパタパタさせることが出来たとしても、それで空中を飛ぶことが出来るのでしょうか?
鳥が空中を飛ぶことが出来るのは、物理的な鳥の形の前に、鳥には地球の引力の法則に相対する飛行力学が生まれつき存在し、確立されているから、空中を飛ぶことが出来ます。同じように、リンゴの実が木から落ちるのは、そこに万有引力の法則が働いているからです。リンゴは単なる物体です。しかし、そこには目に見えない物体と物体の間でお互い引っ張り合っている力の存在をニュートンは発見しました。(ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発想したわけではありません)リンゴが先に出来て、引力の法則が後から誕生したのではありません。最初に引力の法則が在って、その後からリンゴが出来たのです。「万有引力の法則」という「理論」が先に出来て、後から「リンゴ」という「形」が出来ました。
万物は「理論」が先に誕生して、「形」は後から出来たのです。 最初に神による「目的」があって、その目的に合わせて「秩序と形と理論」が形成されました。
実際に神の天地創造はそのような順番になっていますよね? この「理論」とは、先に述べた「万物のソフトウェア」です。「形」は「万物のハードウェア」です。
鳥が空中を飛べるのは羽根があるからだけではありません。羽根が生じる前にすでに鳥が空中を飛ぶための飛行論理が確立されているから鳥が空中を飛べるのです。遺伝子は生命の「形」を造るための物理的な情報にすぎません。ですから鳥の「形」の情報はすでに鳥の遺伝子に組込まれていて、受精によって遺伝子から鳥の「形」が造られていきます。そして、鳥には「形」の上に目に見えない「飛行理論」が重なっています。だから、卵からかえった雛鳥が成長してやがて空を飛ぶようになります。鳥には遺伝子による鳥という「形」が誕生する以前に、すでに神が創世記1章20節で「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と言って神の言葉である神の思考(ソフトウェア)による「飛行理論」が確立されているので、雛鳥が成長してやがて当たり前のように大空を飛ぶことが出来ます。空中を飛ぶことが出来る生物は生まれつき「形」と「理論」が重なり合っているので、それぞれの生きものが自由に、個性ある飛び方が出来ます。大空を飛ぶ鳥や海を泳ぐ魚や地を這うあらゆる生きものは、神がその生きものの種類にしたがって「理論(ソフトウェア)」を創造の第五日から第六日にかけて完成され、そしてその理論に相応しい「形(ハードウェア)」を創世記2:19のエデンの園で造られて生きものの「理論」と「形」が重なり合って完成されたので、その遺伝子を受け継いで来た多種多様な生きものが私たち人間と同じ世界で生きています。進化論を信じている人々は、鳥は進化の過程で羽根が生えて来て、ある日、羽根をパタパタさせたら、偶然にも空を飛べるようになったと、本当に考えているのでしょうか? 一種類の鳥の話ではありません。カラス、スズメ、蝶々、ハエ、蚊に至るすべての空中を飛ぶ生物の話です。単に羽根が生えてパタパタさせれば物体が空中を飛ぶことが出来るのなら、先ほどの鳥のぬいぐるみを着た人間も空を飛べるはずです。私たち人間は、この世に生まれて幼い時からすでに鳥が空を飛んでいる姿を日常的に当然のように毎日見て育って来たから、鳥が生まれて成長してやがて空を飛ぶのが当たり前だと思っています。同様に進化論を信じる科学者も鳥が進化して今の姿になって空を飛んでいるのが当たり前だと思い込んでいます。だから「鳥はなぜ空を飛ぶことが出来るのだろう?」なんて疑問も持たず、鳥の飛行原理を科学的に解明しようともしません。「何だか知らないけど、とにかく空を飛んでいるのだから、進化の過程で羽根が生えて空を飛んでいるのだろ」と思い込んでいます。人間として生まれて来た私たちは何かの道具を使わなければ空を飛ぶことが出来ないのは疑問の余地が無いほどに当たり前の話です。そのように、鳥が空を飛ぶことが出来るのは鳥として生まれて来たから空を飛ぶことが出来ます。「形」だけでは物体が空中を飛ぶことは出来ません。「理論」の上に「形」が重なり合って、初めて物体が空中を飛ぶことが出来ます。飛行機という「形」に物体が空中を飛ぶための「飛行理論」が重なり合うから飛行機は空を飛ぶことが出来ます。飛行機は、まず、「飛行理論」が先にあって、その「飛行理論」を満たすために、後から飛行機の「形」が設計されました。「飛行理論」は人間が飛行機を設計する前に、すでに潜在していました。ただ、人間が飛行機を飛ばすための実験の中で、潜在している「飛行理論(物理の法則)」と飛行機の「形」が一致したので、飛行機が空を飛ぶようになりました。ですから、もし、鎌倉時代でも、現代のような科学技術と工業技術があったなら、鎌倉時代でも飛行機を飛ばすことが出来ました。ただ、人類歴史の流れの中で、20世紀に入って急速に科学と工業が発展して「飛行理論」の解明と飛行機の「形」が出来るようになったので、現代の私たちは当たり前のように飛行機を飛ばして利用しています。
「万有引力の法則」はニュートンが発見するはるか以前にすでに存在していました。同じように、飛行機が空を飛ぶ「飛行理論」は人類が飛行機を飛ばすはるか以前にすでに存在していました。万物はすべて「理論」が先にあって、「形」は理論を満たすために後から造られました。科学に携わる人々ならそのようなことは十分分かっているはずです。そして、先ほどお話ししたように、「形」の部分がハードウェアで、「理論」の部分がソフトウェアに相当します。科学の本来の目的は「理論」を追究することにあります。「形」から導き出される「理論」を解明することによって「理論」と「形」の結びつき、合理性を発見します。「進化論」の不思議なところは「形」だけの研究であって「理論」の世界が全くと言っていいほど研究されていません。それでいて「進化論は科学である」と謳っていることが私には理解出来ません。進化論は「生きものの形が単細胞から何億年の時を経て現代の形に変化していった」と主張します。しかしそれは「形の変化」の研究であって、「理論」の研究ではありません。何億年前、何千万年前、何百万年前、何十万年前、何万年前の地層から発掘されたと主張する鳥の化石を並べて「形の変化」を比べて「だから鳥はこのように進化して来たのです」と主張します。しかし生物が進化して羽根が生えたからといって単純に生物が空を飛べるわけではありません。もう一度言います。
生物が進化して羽根が生えたからといってそれで単純に生物が空を飛べるわけではありません。
私たち人間は毎日鳥が空を飛ぶのを見ているから、それを進化論に当てはめて「生物に羽根が生えてやがて空を飛ぶようになった」と思い込んでいます。しかし生物が進化して羽根が生えたからといってそれで単純に生物が空を飛べるわけではありません。そんなことは科学に携わる人たちなら分かりきっているはずです。ロボットは目に見えないコンピュータのソフトウェアによって動いています。コンピュータにソフトウェアが無ければロボットはハードウェアだけのただのガラクタ箱でしかありません。 物体が空中を飛ぶためには地球上の引力の法則に相対することが出来る物体が空中を飛ぶための飛行理論が確立されていなければ絶対に物体が空中を飛ぶことは出来ません。それは、カラス、鳩、スズメ、蝶々、ハエ、蚊に至るまで、すべての空中を飛ぶことの出来る生きものに言えることです。みなさん、暇なときに、外に出て、よ~~~~~~~~~く鳥が空を飛ぶ様子を観察してみて下さい。あるいは蚊やハエをじっくり観察してみて下さい。どう考えてもあの飛び方は理屈で飛んでいる飛び方ではありません。飛行機よりはるかに高度で自由に当たり前のように本能的に飛んでいます。しかし本能的に飛んでいるにしても、そこには目に見えない物体が空中を飛ぶための飛行理論が働いています。万物は「理論」が先に誕生して、「形」は後から完成されました。そして万物は「理論」と「形」が重なり合って初めて活動します。この「理論」の部分が神が描いた「万物の設計図」です。そして「形」の部分が神が後から造られた目に見える「物体」です。だから「すると」「そのようになった。」「すると」「そのようになった。」 が繰り返されています。
そして、人間と動物は知恵と意志と感情を主体とした「いのち」ですから、「物質だけの世界」とは異なります。だから人間と動物の創造に関しては、創世記1:20~28で人間と動物の設計図を描かれて、その設計図から生きものの魂を創られました。この魂の部分が生きものの「理論」の世界です。そして、創世記2:7、2:19、2:21~22で、人間と動物の「形」である体が造られました。だから創世記1:1~31に書かれている神の天地創造は機械的に、順番に、箇条的に、ロジカルに、書いてあり、創世記2:1以降は、具体的な人間と動物の体の創造と、エデンの園について書かれています。

創世記1:20~21
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。

1:20の「・・・鳥が地の上、天の大空を飛べ。」の部分が鳥が空を飛ぶための理論(設計図)の完成です。

創世記2:19
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

創世記2:19の「神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、・・・」の「形造り」の部分が、鳥が空を飛ぶための「形」です。だから聖書の天地創造は創世記1:1~31の前半と、2:1以降の後半に分かれていて、書き方が前半は機械的で箇条的に順番に書いてあり、後半は神の言葉と神の感情が書かれています。神の天地創造は「理論(設計図)」が先に完成されて、後から「形(物体)」が造られて、「理論」と「形」が重なり合った時、万物の活動が始まりました。神の天地創造は実に理に適っています。あの~~~・・・神は何も考えないでいきなり「光があれ。」と言ったら暗闇にパッと光が輝いたわけではありません。何も考えないでも何でも出来るのが全知全能の神だと勘違いしている人たちが居ます。繰り返しになりますが、人間は神によって神に似せて神の形に創られました。ですから先ほどお話ししたように、人間は本能的に神と同じことをします。神の真似をします。人間が物やシステムを作るのは、本能的に神と同じ事をする証です。人間が物やシステムを作る時は、必ず、頭の中で考えます。構想を練ります。思考します。思索します。思案します。しかし頭の中の構想は曖昧で、漠然として、輪郭がはっきりしない、おぼろげで、不明瞭で、不鮮明で、ぼやけた、なんとなく作る物のイメージがあるだけです。茫漠とした頭の中で描いた構想を具体的に目に見えるように設計図やフローチャートや仕様書として表した時、これから作るものの「形」が見えて来ます。見えて来た「形」を物体化するために、素材を選んで設計図に沿って加工して頭の中の構想を製品化します。人間の物や社会の創造の工程は、人間を創られた創造主なる神の天地創造の工程を踏襲します。私たち人間が作った現代のIT社会は人間が考えに考えた末に出来上がった社会です。システムです。そしてIT社会をもたらした現代科学や物理が証明したものは、「万物は秩序の集積である」ということです。万物が秩序の集積であるということは、万物は神の思考によってもたらされたものであることの証左です。偶然から秩序は生まれません。偶然から生まれるものはどこまで行っても偶然です。永遠に偶然です。だって偶然ですから。秩序は誰かが考えて意図的に組み立てなければ生まれません。聖書の冒頭に書かれている神の天地創造は、万物の秩序は神の思考によってもたらされたことを証しています。神は天地創造の第五日と第六日に空を飛ぶ生き物、地を這う生き物、海を泳ぐ生き物、そして、最後に人間を創りました。ここで神が創られたものは「いのちの設計図」です。「いのちの設計図」とは、「いのちの習性、いのちの本能、いのちの本質」である「魂」です。そして、人間の魂の住処として、物理的な人間の体を創世記2:7で造り、動物の魂の住処として、物理的な動物の体を創世記2:19で造りました。
それから、植物は太陽が創られる前に創られましたが、これは、植物の起源である種と根が創られて大地の中に植えられただけであって、実際に芽が出て成長したわけではありません。だから創世記2:5に書かれているように完成されたばかりの地上の世界は神の意思によって雨が降らず、霧によって太陽の光が地表に届いておらず、地にはまだ一本の野の潅木もなく、一本の野の草も芽を出していませんでした。つまり、神の天地創造は、先にお話ししたように、創造の第一日から第六日は「いのちの活動のための準備」であって、神が男の体にいのちの息を吹き込んだ時から、すべてのいのちの活動が始まりました。私たち人間は科学の下に居て科学に支配されていますから、どうしても科学の論理で万物の起源を考えようとします。ですから科学の論理でいくと「太陽の光が無いのに植物が存在するのはおかしい」となります。神が第三日で創られた植物はいのちの活動がある完成された植物を創られたのではありません。しかし人によっては第三日で創られた植物は芽が出て成長して完成された植物が創られて、この時点で地は緑に囲まれた世界が完成されたと解釈され、さらに科学的論理で「植物が成長するためには太陽の光による光合成が必要だから、第一日に創られた光は太陽による光である」と解釈され、「だから一日の時間の流れとして『夕があり、朝があった。第一日。』と書かれている」という結論になります。ところが聖書の記録によると植物は太陽が創られる前の第三日に創られています。また、一般的に、人間の科学では太陽が先に誕生して、太陽の後に地球が誕生したと考えられています。しかし聖書の記録では読んでお分かりのように、神は地球を最初に創り、地球の後に太陽が創られています。人間の科学の論理で天地創造を解釈しようとすると、どう考えても、どう並べ替えても、矛盾の無い、一貫性のある、合理的な答えは出て来ません。その理由は、天地創造の記録は人間の科学の視点から書かれたものではありません。まだ人間が存在しない無の世界に神が科学や物理を創造される視点から書かれものだからです。神によって創られた科学に支配される人間の視点と、何も存在しない世界に科学を創られ科学を支配する神の視点とは、その論理の次元が違います。
創世記1:1~1:31に書かれている六日間の創造の記録はいのちが活動するための「スタートライン」です。そして、後に、アダムが神のいのちの息によって生きたものとなりました。神のいのちの息による「号令」によって、すべてのいのちの活動が「スタート」しました。

35.科学を創る神

「聖書に書いてある天地創造を人間の知恵(科学)で解き明かすことは出来ません」
今まで述べて来たように天地創造の記録をそっくり科学に当てはめて解明しようとするといろいろな矛盾が出て来ます。神を信じない科学者はその矛盾を指摘して「だから創造論はおかしい」と結論付けます。それに対して神を信じる科学者は進化論の矛盾を指摘しながらなんとか創造論を科学的に合理化しようと腐心します。創造論は進化論に対して「宇宙から地球の生命に至るまで、万物の世界はすべて秩序の集積であり、あまりにも合理的で、良く出来ていて、システムとして完成されています。こんなにも完成された合理的で良く出来た世界が、偶然に発生して出来たとは思えません。『神』という知恵を持った創造者が、万物を創られた、と考えるのが自然です」「あまりにも良く出来た人間の体が、偶然に出来るはずないでしょ?」 と主張します。それに対して進化論は「じゃあ、あなたがたが主張する人間を創った神様を、今直ぐ、目の前で見せて見ください」と反論しながら、お互い不毛の議論の世界に入って行きます。でも、結局、お互い相手を100パーセント納得させるような科学的論拠は出て来ません。それもそのはずです。
「科学を以て科学を創られた神の存在を証明することは出来ません」
また、
「科学を以て科学を創られた神の存在を否定することも出来ません」
科学から分ることは、科学(物質と万物の法則)を創られた神の性質や神の本質を科学(物理)の世界から論理的に学び取ることです。万物には万物を創られた創造主の性質が反映されていますから、万物や万物の法則を研究することによって神はこのようなお方、このような性質を持ったお方であることが理解出来ます。だから聖書はイエス・キリストを光として定義して、光の性質はキリストの本質を表しています。しかし、光は、あくまでも、イエス・キリストの本質を神が物理的に投影した結果であって、物理的な光はあくまでも物理としての光でしかありません。ですから光の性質からイエス・キリストの本質を学びとることが出来ますが、物理的な光がイエス・キリストではありません。科学や物理はあくまでも論理的に神の存在を証明するための補足手段であり、科学や物理から直接神に出会うことはありません。聖書は「神が天地創造で科学(物質と万物の法則)を創りました」「神が無の世界に有(科学・物理)を創り、科学は神によって創られた世界です」「人間や動物も神が創られました」と主張しています。そして、創られたもの(人間)が、自分が創られた起源や過程を知ることは出来ません。だって創られたのですから。万物の起源は生命と科学を創られた神だけが、万物の初めと人間を創られた過程を知っています。繰り返し申し上げますが、神は「無」から「有」を創りました。それに対して人間の科学は「有」から「有」を造ります。人間の科学はすでに存在している物質の構造や仕組みや物理の現象を人間の知恵で発見して、応用して、別の物質を造ったり、別の物理の現象を発見します。「法則」というのは人間が発見する前にすでに存在していました。万有引力の法則はニュートンが発見する前にすでに存在していました。ニュートンが万有引力という物理現象を創ったわけではありません。たまたまなのか、偶然なのか、何かの摂理なのか、運命なのか、神の思し召しなのか、知りませんが、万有引力の法則を発見したのがニュートンだったから「ニュートンの法則(ニュートン力学)」になりました。オームの法則はオームが発見する前にすでに存在していました。(法則自体はすでに別に人に発見されていました)オームが電流を創り、電圧を創り、抵抗を創り、電流は電圧に比例するように定め、抵抗に反比例するように定めたわけではありません。オームが念力で「電流よ、流れよ!」「抵抗よ、電流に反発しろ!」と言って電気を動かしているわけではありません。雷はフランクリンが生まれる前から電気でした。フランクリンが生まれたから雷が電気になったわけではありません。人間が物理の法則、万物の現象を創ったわけではありません。物理の法則や万物の現象は人類が誕生する前からすでに存在していました。人間は、自分たちが誕生する前にすでに存在していた物理の法則や万物の現象を自分たちの知恵で後から発見したに過ぎません。そんなことは小学生でも分かる科学の常識中の常識です。では、なぜ、物質と物質の間には互いに引っ張り合う力が発生するの? 電気の性質はどうやって出来たの? なぜ、電気には+と-があるの? なんで、水素と酸素を化合すると水が出来るの? なんて質問されたら、進化論を研究している科学者も創造論を研究している科学者も誰も答えられません。そして、人間は、宇宙の誕生、地球の誕生、いのちの誕生を、既存の科学、既存の法則から解明しようとします。しかし既存の科学や既存の法則を用いて万物の起源やいのちの起源を解明することは出来ません。神はすでに在る科学や法則を用いて万物を創られたのではありません。何も無い世界に科学や法則、いのちの仕組みを創られたのが神です。何も無い世界に引力の法則を創られたのが神です。何も無い世界に電気を創られたのが神です。何も無い世界に水素と酸素を化合すると水という物質が出来る仕組みを創られたのが神です。神が無から有を誕生させました。それに対して人間はすでに存在している神が創られた有(科学・法則)を用いて有(宇宙、地球、生命)の起源、誕生の過程を解明しようとします。あれ? これはなんかおかしくありませんか? 有を用いて有の誕生、起源を解明することなど出来るはずありません。法則や物質の構造や原理、性質を解明することは出来ますが、なぜ、法則が存在しているのか? なぜ、物質はそのような固有の性質を持っているのか? という万物の起源、万物の本質の世界を既存の人間の科学や物理で解明することは出来ません。
私たち人間は、どうしても、神の天地創造を人間の感性、人間の常識、人間の科学、人間の物理で解釈しようとします。しかし実際に神の天地創造を人間の感性、人間の常識、人間の科学、人間の物理で解釈しようとすると、聖書の記述と矛盾したり、科学に適合しません。神は神です。人間は人間です。神は人間ではありません。また、人間は神ではありません。万物を創られた神と、その神に創られた万物とは、その存在の次元が違います。創造主と被造物とは同列ではありません。しかし私たち人間は、人間の感覚で神を理解しようとします。神と同列の立場で神を理解しようとします。「自分の考えがこうだから、神もそうなんだ」と。「人間の科学がそうだから、神の天地創造もそうなんだ」と。神の天地創造は人間の知恵や科学には当てはまりません。そして、何よりも、進化論にしても、宇宙の起源にしても、

「実験で進化論を証明することが出来ません」
「実験で宇宙の起源を証明することが出来ません」

進化論や宇宙論はあくまでも「科学を装った推論、想像論」でしかありません。
神はー270℃の宇宙空間にユリの花を咲かせようと思えば咲かせることが出来るお方です。1500万℃という燃えたぎる太陽の中にバラの花を咲かせようと思えば咲かせることが出来るお方です。それが「創造主なる神」「全能なる神」です。神は人間の科学を用いて万物を創られたのではありません。何も無い「無」の世界、空間に、「科学」を創られたのが神です。そもそも、私たち人間は、神が科学を創られる前の「無」の世界が分かりません。理解出来ません。「無」の世界って、どういう世界でしょうか?「何も無い」って、どういうことでしょうか? 科学は常に「有」を前提にして進んで行きます。「この先に何か有る」ことを前提にして、科学者は研究をして、新しい発見をしていきます。目の前の物理的な「結果」を確認して、その結果をもたらしている原因、因果を発見していくのが科学です。そうやって科学は物質には分子構造があり、さらに分子を構成している原子核と電子を発見し、陽子や中性子の存在を発見しました。では、「何も存在しない世界」を科学で発見することは出来るでしょうか? 答えは「出来ません」。「有の世界」を研究するのが科学です。「無の世界」は科学では研究出来ません。研究のしようがありません。だって何も無いのですから。「何も無い現象」を、どうやって計測、秤量するのでしょうか? どうやって「無の存在」を証明するのでしょうか? そんなこと出来っこありません。ここに人間の科学の限界があります。
物質の起源というのは、無の世界から始まります。無と有の接点が、有の始まりです。無のところから有が始まる時点が、物質の始まり、物質の起源です。だから聖書の天地創造の初めに「地は茫漠として何もなかった。」と書かれています。「地は茫漠として何もなかった。」とは、先にお話ししたように、物理的な秩序も法則も存在しない「無の世界」です。無の世界に神は御自身の思考によって「有の世界」を創りました。物質の起源を証明することは、無の世界を証明することなのです。しかし、人間の知恵では無の世界を解明することは出来ません。無いものを、どうやって証明するのでしょうか?「神は存在しない」と信じている人々は、神は存在しないことをどうやって証明するのでしょうか? 口でただ「神は存在しない!」と何万回唱えても、「居ないものは居ない」と何百万回唱えても、神が存在しないことの証明にはなりません。私は本書でいろいろ神について科学的に書いていますが、これは、決して、科学を用いて神の存在を証明しようとしているわけではありません。聖書に書かれている天地創造は何も無い世界に神が科学と物理を創られた記録ですから、神の言葉である聖書と科学、聖書と物理の関係を客観的に証明しようとしているだけです。科学や物理から直接神に出会うことはありません。ですから私は科学を根拠にして聖書の神を信じているわけではありません。
先ほどお話ししたヘブル人への手紙11章3節は信仰と科学について明確に述べている聖句でもあります。

ヘブル人への手紙11:3
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

繰り返し述べているように、科学は「結果」です。すべての科学現象や物理現象、法則は、人間が誕生する前からすでに在ったものです。私たち人間は、後から、神が創られた「科学」という「結果」の中に誕生して、科学や物理の研究をしています。ですから、もし、クリスチャンが「科学」という「結果」をもたらしている「原因」を追究していけば、当然、「『科学』という『結果』をもたらしている『原因』は、神である」という答えが出て来ます。だから、ヘブル人への手紙11章3節に、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」と書いてあります。 神を信じる人は「物質、科学、物理は神の言葉から造られて、見えるもの(物質や物理現象)は、見えるもの(物質や物理現象)から出て来たのでない」ことを前提にして、科学、物理の世界を見ています。それに対して神を信じない人は「見えるもの(物質や物理現象)は、見えるもの(物質や物理現象)から出て来た」ことを前提にして、科学、物理の世界を見ています。神を信じる人と神を信じない人は科学、物理をはじめとする物事を見る前提条件が違います。 神を信じる人は、見えるもの(物質や物理現象)の根源、本質は、見えない神に在ると信じています。神を信じない人は、見えるもの(物質や物理現象)の根源、本質は、見えるもの(物質や物理現象)に在ると信じています。ですから神を信じない人は、見える物質の世界をどこまでも研究していけば、いつかは物質や物理の本質、すなわち、物質や物理は、いつ、どのようにして誕生したのかを解明出来ると思っています。ところが実際には人間の科学や物理では物質や物理の本質は解明出来ません。神を信じる人は万物(ハードウェア)は神の思考(ソフトウェア)で活動していると信じています。神を信じない人は万物(ハードウェア)の活動の根源は万物(ハードウェア)自身に在ると信じています。あれ??? ハードウェアはハードウェアによって活動しているとは、どういうことでしょうか? コンピュータはハードウェアだけで動いているのでしょうか? ソフトウェアは必要ないのでしょうか?
科学や物理における新しい発見は、次の疑問や謎への入口にすぎません。新しい発見をすれば、「では、この先はどうなっているのだろう?」という次の疑問や謎を解くために、さらに次の研究が進んでいきます。科学や物理の研究は、新しい発見とそれに付随する次の疑問や謎を解くためのイタチごっこです。新しい発見をすればさらに新しい謎が生まれます。人間の知恵でこのイタチごっこを果たして終焉させることが出来るのでしょうか?

36.真実なる神の言葉

先ほど引用した旧約聖書のヨブ記の中に、次の記述があります。

ヨブ記37:9~11
37:9 つむじ風は天の室から吹き、寒さは北から来る。
37:10 神の息によって氷が張り、広い水が凍りつく。
37:11 神は濃い雲に水気を負わせ、雲が、そのいなずまをまき散らす。

ヨブ記37:9~11はまるで現代の気象予報ですね。暑い季節に北から寒気が流れ込んで来て日本上空の大気が不安定になり、積乱雲が発達して雷雲となり雷が発生します。雷は暖かい上昇気流によって発生した積乱雲の中の氷の粒と水滴の摩擦による静電気が原因で発生します。「濃い雲に水気を負わせ、雲が、そのいなずまをまき散らす。」とは、正に雷のメカニズムそのものです。
また、やはりヨブ記38章には次の記述があります。

ヨブ記38:33~35
38:33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。
38:34 あなたの声を雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。
38:35 あなたはいなずまを向こうに行かせ、「私たちはここです」とあなたに言わせることができるか。

34節の「あなたの声を雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。」とは、現代科学で云うころの「電波(電磁波)」に相当します。電気信号に変換された自分の音声や映像を電波に乗せて空中に向かって雲が浮かぶ空高くまで発信すれば、地球を覆っている世界の海(みなぎる水)のどこにでも自分の音声と映像が乗った電波が行き渡り、地球のどこの場所に居てもラジオやテレビ、携帯電話や無線で自分の声を聴いたり自分の姿を見たりすることが出来ます。つまり「みなぎる水」に自分をおおわせることが出来ます。そして35節の「いなずま」とは雷で、雷は「電気」です。
現代科学は雷の正体は電気であることを突き止め、さらに、電気と電波の特性を利用して宇宙から、また地球のどの場所からでも「私たちはここです」とラジオやテレビによって自分や他人に向かって言わせる事が出来るようになりました。つまり、34節、35節は、神が天地創造で創られた電気や電波の法則を示しています。だから前の33節で神がヨブに「あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。」と問いかけています。
現代に生きる私たちが当然のように使っている携帯電話やインターネットも、ヨブの時代には想像することさえも出来なかったことでしょう。現代科学がもたらしたテクノロジーの根幹にあるものは、神が天地創造で創られた万物の法則です。人間の科学がやって来たことは、すべて神が天地創造で創られた万物の法則を後追いで発見して、応用して、製品化しているにすぎません。科学(法則)は「結果」であり、科学(法則)をもたらした原因は、「神」にあります。その「科学(法則)の原因」を描写した世界が、創世記に書かれている神の「天地創造」です。
ヨブ記は神とヨブの人生を懸けた会話の記録です。それまで神を畏れながら何一つ不自由なく家族に囲まれて幸せな生活を過ごしていたヨブの人生に、ある日を境に奈落の底へと転落する人生に変わっていきました。それでヨブは神に対して「なぜですか。なぜですか。なぜですか。」と、必死に訴えかけます。「自分は神を畏れて神の前に誠実に生きて来たのに、なぜ、こんな不幸のどん底に落ちなければいけないのか」と、必死に訴えかけています。ヨブの訴えに対して、神は御自身の天地創造の業を書き並べて「あなたには出来るのか。あなたには出来るのか。あなたには出来るのか。」と言って、創造主なる神と被造物なる人間を対比させています。ヨブ記については別の機会にお話しすることにしますが、ヨブ記38章をはじめヨブ記には具体的な神の天地創造の記録が多く書かれています。万物の創造の過程で神が定められた様々な物理の法則が列挙され、神はヨブに「おまえに私が行った天地創造の業が出来るのか。人間のおまえが万物の法則を創ることが出来るのか。」と迫っています。その神が創られた万物の法則の中の一つに、先ほど記した「電気」と「電波」があります。ですからヨブ記38章に書かれている一つ一つの神の言葉はそれに対応する万物の法則を表しています。ヨブ記には神の天地創造に関する記述がたくさん出て来ます。私は科学者でも物理学者でもありませんから具体的なことは分かりませんが、聖書に書かれている科学や物理に関すると思われる一つ一つの神の言葉を精査して科学者や物理学者が調べていけば、神の言葉と電気と電波の法則が符合したように、他の神の言葉と他の何らかの物理の法則とが符合するのではないでしょうか? あるいは未だ発見されていない新しい法則を発見出来るかもしれません。神を信じる信じないは別にして、世界の科学者さん、物理学者さんたちに、ぜひ、聖書に書かれて神の言葉と万物の法則との結びつきを研究して欲しいものです。
これも余談ですが、コペルニクスが登場するまでは宗教(ローマカトリック)の影響もあって天動説が常識になっていました。宗教の影響というのは、「地球は固定されており、周りの天体が地球を中心に動いている」という、地球中心論的な考え方です。ただ、天動説には、天動説では説明出来ないいくつかの天文的な矛盾がありました。しかし、後に、コペルニクスの地動説とニュートンの万有引力の法則、慣性の法則、ガリレオによる木星の衛星の発見などによって地動説が科学的に実証されて地動説が広く受け入れられるようになりました。もし、当時の科学者と宗教界が一緒になって地球は太陽を中心に動いているという前提で創世記1:14~18に書かれている神が定められた天体の現象から、太陽、月、地球、星座の動きを模型で忠実にシュミレーションすれば、もしかして、正確な地動説が導き出されたかもしれません。もちろんそれは今だから言えることですが。
さて、先にお話ししましたが、人間は時間と空間に縛られる存在ですが、神は時間と空間に縛られる存在ではありません。そして、イエス・キリストは十字架刑で処刑され、三日後に新しい体で復活(甦り)されました。復活のキリストの体は時間と空間に縛られることはありませんでした。聖書から、それらを裏付ける記事を引用してみます。

ヨハネの福音書20:16~31
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしを も、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

弟子たちは、キリストが十字架刑で処刑された後、自分たちもやがてキリストの一派として捕まり処刑されるのではないかと、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて隠れていました。彼らは隠れるという目的で戸を閉めていたのですから、当然、外から人が入られないように、鍵(かんぬき)を掛けていました。そこへ、処刑されて死んだはずのキリストが現れました。弟子たちはもうびっくり仰天です。ここで注意して欲しいのは、「戸が閉めてあった」という事実です。普通に考えれば、戸が閉まって鍵が掛かっているのですから、外からイエスが戸を叩いて、家の中から弟子たちがイエスだと確認した後に、鍵を外して戸を開けて、イエスが家の中に入って弟子たちの前に立って話された、となります。しかしここではイエスは戸を叩いて弟子たちの隠れ家に入ったわけではありません。戸を通過して彼らの中に立ったのです。忍法通り抜けの術です。キリストの体が物体を通過して部屋の中に入ったのです。もちろん神を信じない人々は「荒唐無稽なバカな話」と一蹴することでしょう。
弟子たちにしてみれば、自分たちがすべてを捨てて従いついて来た先生が十字架で処刑されたのですから、弟子たちは失意のどん底に落とされてすべての希望を失いました。後は自分たちがいつ捕まりキリストと同じように処刑されるのか、恐怖のどん底にありました。そんな心境の弟子たちが、復活のキリストが戸を叩いて「私は死んで甦ったキリストだよ。さあ、戸を開けなさい」と言っても、おいそれと信じるわけがありません。「なに? 死んで甦ったキリストだと? ほんとかよ。もしかして、ユダヤ人たちが俺たちを捕まえるための罠じゃないのか?」と疑うことでしょう。そこでキリストは、物理的に密閉された部屋に超自然的な方法で通り抜けて弟子たちの中に立ちました。弟子たちは驚愕と仰天と同時に、有無も言わずに「本物のキリストだ!」と確認させられたのです。弟子たちは、処刑される前のキリストとの三年半の生活の中で、キリストが行なう様々なしるしや奇跡を目の前で見て来ました。人間には不可能なキリストが行なうしるしや奇跡が弟子たちの信仰の根拠でした。キリストが行なうしるしや奇跡によって「この人は人間ではなく神の子だ!」と信じていました。だから弟子たちはキリストが行なう奇跡にびっくりしても、キリストが語る神の国についてはほとんど理解していませんでした。逆に、復活したキリストが奇跡を行えば、弟子たちは「本物のキリストだ!」と信じることが出来ます。だから死から甦ったキリストが超自然的な方法で目の前に現れたからこそ、「この方は死から甦った本物のキリストだ!」と信じることが出来ました。そしてキリストが「平安があなたがたにあるように。」と弟子たちに語りかけたとき、それまでの弟子たちの恐怖は一気に消え去り、心に平安と希望が湧いて来ました。復活のキリストの体は物体を通過出来る体でした。

Ⅰコリント人への手紙15:3~6
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今もなお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

Ⅰコリント人への手紙には、復活したキリストが「五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」と書かれています。「同時に」とは「同日」の「同時刻」という意味です。パウロは迫害によってあちこちに散らされた五百人以上の兄弟たちの証言から、同じ日の同じ時間帯に、居場所が異なるそれぞれの場所にキリストが同時に現れたことを知り、書簡にその事実を書きました。忍法分身の術です。復活のキリストは、時間と空間を超越した体に変貌していました。だから五百人以上の兄弟たちに、同時に現れることが出来ました。 使徒の働きには復活のキリストが天に昇られる光景が書かれています。

使徒の働き1:1~9
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、
1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

復活のキリストは、やがて天に上げられて、雲に包まれながら見えなくなりました。キリストの体が地上から浮き上がって空中に上げられました。忍法空中浮遊の術です。キリストの体は引力の影響を受けることのない体に変貌していました。
以上のことから、復活のキリストは、時間と空間を超越した存在になっていました。そして現代科学はイエス・キリストが復活して時間と空間を超越した存在であることを証明しました。
電波(電磁波)って、不思議ですね。ビルのオフィスやマンション、アパートの閉め切った部屋の中からでも、携帯電話を使って遠く離れた人と会話が出来るのは、電波の特性(回折、反射、透過)があるからです。条件にもよりますが、電波は閉め切った部屋の中でも木やガラスを透過して部屋の中に入って来ます。だから家の部屋の中に居ても携帯電話で外部の人と会話が出来ます。同様に、ラジオやテレビは人の音声や映像を電気信号に変えて電波に乗せて送信所から送信して、送信されて来た電波に乗っている電気信号を今度はラジオやテレビで受信して元通りの音声や映像に変えて聴いたり見たりすることが出来ます。電波と電気はヨブ記に書かれているように天地創造で神が創られた法則であり、物理的特性です。だったら、復活したキリストが、弟子たちが隠れていた閉め切った部屋のドアや壁を通過して部屋の中に入ることなんて朝飯前ですよね? 電波と電気を応用したラジオやテレビや携帯電話と同じ原理を用いて閉め切った部屋の中に入ることが出来るはずです。キリストの体を電気信号に変換して電波に乗せれば、ドアを開けなくても閉め切った部屋の中に入ることが出来て、再び、瞬間に、電気信号化されたキリストの体を元通り再生すれば、鍵を掛けて閉め切った部屋の中に居る弟子たちの前に立つことが出来ますよね? それが面倒臭ければ、キリストの体をX線に変換すればそのままドアや壁を通り抜けることが出来るはずです。また、一つの送信所から送信された電波を500台のラジオやテレビがあれば同時に異なる場所に居る500人の人が同じ放送を聴いたり見たりすることが出来ます。ということは、キリストの体を電気信号に変換して電波とラジオやテレビの原理を使えば居場所が異なる500人の弟子たちの前に同時にキリストが現れることも可能ですよね? まるでSF漫画の世界のように思えますが、ほんとうに活ける神が居られて、その神が万物の法則を創られ、支配されているのなら、キリストが物体を通過したり、異なる場所に居る500人以上の弟子たちの前に同時に現れたり、地上から浮き上がって天に帰ることも可能ですよね? 先ほど書いた聖書に書いてあるキリストの忍法通り抜けの術も、忍法分身の術も、忍法空中浮遊の術も、万物の法則を用いれば出来ますよね? 聖書は「一人の創造主が、万物の法則を創られた」と証しています。聖書に書いてある神によって行われた数多の奇跡の背後には、目に見えない「神の科学」の存在があります。そして、神の奇跡は「神の科学」によって行われています。ただの水をぶどう酒に変えたり、わずかなパンと魚で大勢の人のお腹を満腹させたりした奇跡の背後には、目に見えない「神の科学」の存在があります。神は人間の世界に存在する法則に対して、さらに別の法則を持って来て事を行われます。そして、人間は神が創られた科学と法則の下に居るので、科学と法則の上に居られる神の新しい科学と法則の存在が分からないのです。「科学と法則の上に居られる神の新しい科学と法則」とは、ヨブ記38章33節に記されている「天の法令」です。「万物のソフトウェア」の世界です。そして、私たち人間は、神が立てた「地の法則」の下に居るので、「天の法令」の存在が分かりません。だから聖書の奇跡を否定します。

ヨブ記38:33
38:33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。

ただの水を瞬時にぶどう酒に変える奇跡も、神は人間の世界には存在しない別の法則を用いて瞬時に水をぶどう酒に変えます。人間は、自分たちが解明した科学と法則が、万物のすべてだと思っています。しかし科学と法則を創られる神は、人間が解明する事が出来ないまったく別の新しい科学と法則で人間の世界に介入して事を行われます。ですから人間の側からすれば、神による新しい科学や法則によって行われたキリストの奇跡や癒しを自分たちの科学や物理で解明して理解する事が出来ないので、人間の世界ではそれを「奇跡」と言います。そして、人間は自分たちが解明して理解出来た科学や物理がすべてだと信じていますから、思い込んでいますから、自分たちが解明出来ない、自分たちが理解出来ないキリストの奇跡を否定します。人間の側からすれば「奇跡」でも、神の側からすれば「奇跡」でも何でもありません。新しい別の科学と法則を用いただけのことです。イエス・キリストが行われた数多の奇跡やしるしの背後には、神による新しい別の科学と法則があります。先にお話ししたように、人間の一つの知恵に対して、神の知恵は無限にあります。これが万物の法則を創られる神と、万物の法則に縛られる人間の違いです。無から有を創る神と、有から有を造る人間の違いです。 本来、科学は神の全知、全能を人間の目で確認する事が出来る唯一の手段であり証のはずが、誰かが聖書と科学は対立するという構図を作り、いつの間にか科学は神を否定する道具にすり替わってしまいました。

37.万物は一日24時間×6日で創られたのではありません

ここで先に申し上げた「万物は一日24時間×6日で創られたのではありません」というその内容の根拠について、もう少し詳しくお話しさせていただきます。

まず、初めに、誤解の無いように申し上げます。

1)私は聖書を信じていますから、明確に進化論を否定します。その根拠は、創世記1章から2章にかけての神による人間の創造の記録に進化論的な要素が存在しないからです。神は人間を「完成された存在」として創られました。

2)神は万物を一日24時間×6日で創られたのではありません。創世記1章に書かれている「夕があり、朝があった。第一日。」の「第一日」は、一日24時間という人間の世界の時間の概念を表した言葉ではありません。ですから、神は万物を「一日24時間×6日」で創られたのではありません。

3)私は「天地創造には進化論のように長い年月が必要だから、創世記1章に書かれている第一日は一日24時間ではありません」と言っているのではありません。単純に「創世記1章の一日の意味は聖書全体を読めば一日24時間という人間の世界の時間の概念でありません。だから、神の天地創造は一日24時間×6日で創られたのではありません」と言っているのです。

4)人類の歴史は創世記2章7節の「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」との記述を以ってアダムの誕生が人類の始まりであり、その後の聖書に出て来る人物の年代の歴史から七千年前後である。人間以外の生き物の歴史も七千年前後である。

5)では、生き物以外の物質の創造はいつ頃なのでしょうか? 宇宙の起源、地球の起源はいつ頃なのでしょうか? その答えは分かりません。だって聖書に書いてありませんから。

6)宇宙の起源、地球の誕生の起源を科学で解き明かすことは出来るのでしょうか? それも分かりません。ただ、元々聖書は地動説を裏付けており、現代科学によって地球は自転しながら太陽の周りを公転していることが証明されたので、正確な何らかの年代測定方法を見つけ出すことが出来るなら、科学で宇宙の始まりや地球の起源の年代を知ることが出来るかもしれません。

そして、繰り返し述べているように、私の本文の内容は「神の天地創造は物理的な創造を通して霊的な世界、神の世界を描写している」ということと、「創世記1章1節~31節は人間の科学の世界から見た神の万物の創造が書かれているのではありません。神の世界から見た神による万物の創造の経緯が書かれています」というこの二つの観点から成立っており、その二つの観点から導き出された結果、「万物は一日24時間×6日で創られたのではありません」という結論に至り、そのように本文をまとめました。初めに、このことをみなさんの心に留めておいて下さい。
では、本題に入ります。

ヨハネの黙示録に次の記述があります。

ヨハネの黙示録21:22~27
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

ヨハネの黙示録22:5
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

さて、みなさんは、ヨハネによるこの記述から何を感じたでしょうか? 何を思ったでしょうか?
ヨハネの黙示録21章に書かれている世界は、ヨハネの黙示録21章1節に書いてある通り「新しい天と新しい地」です。

ヨハネの黙示録21:1
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

神が人間のために用意された神の世界、神の国です。私たち人間が今存在している世界は「古い天と古い地」です。「以前の天と、以前の地」です。罪の下に在る「古い天と古い地」は、やがて消え去り、神は人間のために「新しい天と新しい地」を用意されました。「新しい天と新しい地」は「古い天と古い地」に対する表現ですが、元々神の国には太陽も月も夜もやみも存在しません。太陽も月も夜もやみも無い神の国の中に、神は人間のために「新しい天と新しい地」を設けられました。現在私たちが存在している世界は「古い天と古い地」です。「古い天」とは「やみの勢力であるサタンが支配する霊的な世界」です。だから創世記1:2に「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書かれています。「古い地」とはアダムの罪によって呪われた物理的な地上の世界です。私たち人間が存在している地上の世界です。この「古い天と古い地」が、創世記1:1に書かれている「天と地」です。

創世記1:1
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

この「古い天と古い地」は、やがて消え去り、いのちの書に名が記されている者たちのために、神は「新しい天と新しい地」を用意されました。そして、ヨハネの黙示録21章25節に「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」と書かれています。ここに書かれている「一日中」とは、字義としてはギリシャ語で文字通り「一日24時間」の一日です。では、ヨハネが見た新しい天と新しい地は、地球の自転周期である「一日24時間」という時間で区切られているのでしょうか?「一日24時間」という日の単位がズ~~~と、永遠に続いているのでしょうか? ヨハネの黙示録全体を読みながら、ここに書かれている「一日中」の時間の概念をじっくり考えてみて下さい。
字義としては「一日24時間」という人間の時間の概念のギリシャ語で書かれていますが、まず、ほとんどの方は、直感的に、「この一日は人間の世界の24時間じゃねえよな~」と思われるのでないでしょうか? そして、ヨハネの黙示録21:23に「都には、これを照らす太陽も月もいらない。」と書かれていますから、新しい天と新しい地には太陽と月は存在しません。また、ヨハネの黙示録21:25には「夜がないからである」と書かれています。「夜がない」とはどういうことでしょうか? 理解出来ますか? ですから、新しい天と新しい地は、太陽も、月も、夜も、存在しない神の世界です。つまり、私たち人間が今存在している霊の世界、物理の世界とは全く次元の異なる世界です。結論として、ここでヨハネが指している「一日中」の「一日」とは、字義としては一日24時間の一日の意味ですが、その実質は、一日24時間の一日でないことは明白です。人間のものさしと神のものさしは次元が違います。そして、
ここにヨハネが書いた「太陽」が、創世記1:16に書かれている昼をつかさどらせた「大きいほうの光る物」です。
ここにヨハネが書いた「月」が、創世記1:16に書かれている夜をつかさどらせた「小さいほうの光る物」です。
ここにヨハネが書いた「夜」が、創世記1:5に書かれている「やみを夜と名づけた」の「夜」です。
お分かりいただけるでしょうか? もちろんへブル語とギリシャ語の違いはありますが、言葉の意味は創世記1章に書かれている同じ太陽と月と夜を指していることは聖書を読めば理解出来ることです。さらに、新改訳聖書のヨハネの黙示録21:23の欄外注に引用句としてイザヤ書60章19~20が注記されています。イザヤ書60章19~20は次のように書かれています。

イザヤ書60:19~20
60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。

イザヤ書60:19~20とヨハネの黙示録21:23〜25を読み比べてみて下さい。

イザヤ書60:19~20
60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。

ヨハネの黙示録21:23〜25
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

どうですか? ピッタリ合いましたね。イザヤの預言に対して、それを裏付ける答えが、ヨハネの黙示録に書いてあります。つまり、イザヤの預言は来たるべき現実となる新しい天と新しい地を、人間が存在している物理的な世界を通して描写した言葉です。お分かりいただけますよね? ほんの一例としてイザヤ書とヨハネの黙示録の記述を引用しましたが、聖書は旧約聖書と新約聖書が常にリンクしています。旧約時代と新約時代は表裏一体の関係にあります。
そして「9.神が万物を創られた証」でお話ししたように、創世記1:5で神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられました。これは、光をはじめ万物の著作権、所有権はすべて神に有ることを示すのと同時に、もう一つの意味があります。それは、ヨハネが見て記録したように、神の国には物理的な太陽がありません。暗闇がありません。夜がありません。ですから、本来、神がこれから創ろうとした創世記1:1の「天と地」は暗闇がありませんでした。ところがその「地」なる場所に闇であるサタンが逃げ込んで来たので、地は暗闇で覆われました。だから創世記1:2に「・・・やみが大水の上にあり・・・」と書かれています。そして、その暗闇(サタン)と対峙する象徴として、光を創り、神は光と闇を区別されました。
一般に、人間の世界では「昼」は太陽の光に照らされている時間帯を指し、「夜」は太陽の光が照らされない暗闇の時間帯を指します。つまり昼と夜は「時間帯」を表します。しかし神の国には太陽も、月も、昼も、夜もありませんから、私たち人間の世界における「時間の概念」がありません。そこで、人間が住む「地」なる場所に「時間の概念」を創る必要がありました。だから、神は光に「昼」という名を付けて、闇に「夜」という名を付けて、創世記1:14~18で物理的な太陽と月を創り、人間のために「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」という目的で地球の自転と公転による時間の概念を創りました。つまり、神が光に「昼」、闇に「夜」と名前を付けたのは、時間の概念が無い神の国に対して人間が住む「地」なる場所に「時間の概念」を創る必要があったからです。人間の世界における時間の概念を創るために、神は創世記1:14~18で「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。」と言って太陽と月を創り、地球を照らすように宇宙空間に置きました。
以上のことを踏まえながら、ですから創世記1章1節に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」の「天」は、ヨハネの黙示録でヨハネが見て記録した「古い天」のことを指します。ヨハネの黙示録21:1に記されている「以前の天」です。そして創世記1章1節に書かれている「地」とは、神の国(霊の世界)と対比された宇宙、地球も含めた物理的な地上の世界のことです。ヨハネの黙示録21:1に書かれている「以前の地」です。よく、誤解されて解釈され易いですが、「初めに、神が天と地を創造した。」の「天」は、物理的な宇宙や地球の大空ではありません。詩篇19章1節に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」と書かれているように、「天」は神の国、神の世界、霊的な世界を表しています。「大空」は物理的な地上の世界の空間を表しています。そして、創世記1章に書かれている神の天地創造は、ヨハネの黙示録に書かれている神の国(天)の中心に座したもう神の目線から見た神御自身による万物の創造の経緯が記された記録です。ですから、初めの創世記から終わりのヨハネの黙示録に至るまで、聖書は霊に感じて聖霊によらなければ正確に理解することは出来ません。
さて、では、創世記1章に書かれている「夕があり、朝があった。第一日。」の「一日」とは、「人間の世界の一日24時間の一日」なのでしょうか? それとも、ヨハネの黙示録に書かれている「神の国の一日」なのでしょうか? まず、「天地創造一日24時間×六日説」について考えてみましょう。(以降「天地創造一日24時間×六日説」を「一日24時間説」と記します)
一日24時間説の最大の根拠となっているものが、「創世記1章1節から31節に書かれている『夕があり、朝があった。第一日。』の『一日(日)』は、へブル語でヨームと書かれており、これは、ほとんどの箇所で字義としては人間の世界の一日24時間の概念による一日の意味として使われています。ですから、創世記1:1~31を以って神は一日24時間×6日で万物を創られたのです」という論理です。しかし、この論理をそのまま創世記1:1~31に当てはめると、一つの大きな矛盾が生まれます。それは、太陽と月とその他の天体は創造の第4日に創られたのに、創造の第一日に「夕があり、朝があった。第一日。」という記述が物理的に合いません。合致しません。合理しません。ここの部分が、みなさんが聖書を初めて読み始めると必ずぶつかる意味不明な、わけの分からない、理解出来ない箇所です。「よし!今日からがんばって聖書を全部読むぞ!」と意気込むのですが、読み始めたらいきなり「なんじゃこりゃ!!!これどうなっているんだよ!!!」と躓きます。それからなんかスッキリしないモヤモヤした思いでとりあえずここの箇所はスキップして聖書を読んでいくことになります。そして、一日24時間説では、この分からない部分を「神は創造第4日に太陽と月と天体を造りましたが、その前に創造の第1日に地球を照らす光を造りました。『光があれ。』というのは地球を照らす光のことです。(あるいはこの光はイエス・キリストであると主張する人も居ます)そして、その光に照らされて地球が一周期24時間で自転を始めたので、それを以って『夕があり、朝があった。第一日。』と書かれています」という論理で「だから神は一日24時間×6日で万物を創られた」と主張します。この論理の問題点は、誰もが疑問に思う分からない意味不明な箇所を「聖書に書かれていない人間の想像、推論で辻褄の合うよう論理を展開して全体を合理化しようとしている」ということです。問題は、「何らかの光(光源)を神が『光があれ』と言って光を創り、地球が自転を始めたので『夕があり、朝があった。第一日。』と書かれています」という部分です。

「何かの光」って、何ですか???
「何かの光」って、何ですか???
「何かの光」って、何ですか???

神が太陽を創る前に、すでに何かの光を創ったということですよね? でも、「何かの光」に関する具体的な説明がありません。「何かの光があった」「イエス・キリストの光である」「イエス・キリストの象徴である」「超自然的な光である」という推測を以って結論を出しています。問題の一番根幹となる箇所を前後の文脈から「状況証拠」を作り上げ、そこをから「多分」「おそらく」「なにかの」という推測でつなげて「だからそうなんです」と結論を出しています。物理的な考えるなら、「光があれ。」と言って「神は今の太陽の位置に、光を発する一点の光源を創り、地球の自転が始まった」ということになります。しかし太陽は創造の第四日に創られています。もちろん私は聖書のすべてが人間に理解出来るとは思っていません。しかし、聖書全体を読めば、ここの分からない箇所の答えが出せると思っています。私が一番疑問に思うことは、みなさんが一番疑問に思うことは、「もし、創造の第一日に特定の場所に光が創られて地球の自転が始まったとするならば、なぜ、創造の第四日に太陽と月が創られた記述があるのでしょうか? しかも、具体的に、詳しく、リアルに書いてありますよね? ほんとうに創造の第一日に太陽のような光源が創られて地球の自転がはじまったとするならば、創造の第一日に
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
そして神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第一日。
と書かれると思いませんか? また、普通に考えれば、創造の第一日に太陽が創られた方が、科学的に理屈が合いますよね? 「太陽が創られた後に、太陽の光と熱によって光合成が始まって地上に植物が生えた」その方が私たち人間の感覚からすれば何も問題なく単純に理解出来ますよね? でも、なぜか、分らないけど、太陽は創造の第四日に創られています。ある人は「太陽が無くても神なら地上に植物を生やすことが出来る。だって神は全知全能ですから」と言います。凄い信仰ですね、この人。イエス・キリストはある時「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と言われましたから、この人が祈れば富士山が太平洋に沈むのでしょうね。中には、「著者が順番を間違えて書いただけのことです」と言っている牧師が居たのには驚きました。「この牧師、本当に救われているのかよ???」と思いました。別に救われていなくても聖書を研究して語ることは出来ますからね。
電球は光を照らしますが、電球と光は違います。電球の中の抵抗体に電気を流せば抵抗体の発熱によって光が発生します。ですから順番として、初めに電気が在って、その後に電球が造られました。そのように、神は創造の第一日に光(光の本質)を創り、創造の第四日に光る物(太陽)を創られました。光と光源は物理的意味が違います。では、「夕があり、朝があった。第一日。」とは、何を意味するのでしょうか? その答えが、先ほど引用したヨハネが見た黙示録の世界です。

ヨハネの黙示録21:22~25
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

神の国も一日の流れはあります。しかし、それは、ヨハネの黙示録を読めば分かるように、人間の世界の一日24時間の一日ではありません。神は眠ることもありません。食事をすることもありません。聖書に「神の国の宴会」の記事がありますから、神も食べたり呑んだりするのか? と思いますが、そうではありません。神が食物や何かの物に依存することはありません。そして、神の国の光は太陽のような一点の位置から照らされているのではありません。太陽も月も海も夜も無い空間に光がある世界です。繰返し述べているように、創世記1章1節から31節の記録は、「神の国から見た神による天地創造の過程が記録された文章」です。「人間の世界から見た神による天地創造の過程が記録された文章」ではありません。ですから、創世記1章に書かれている神の天地創造の記録は、ヨハネが見て黙示録に書いた「神の国」から見た神御自身による天地創造の過程が書かれた文章です。太陽も月も海も夜も無い世界から見た、天地創造の記録です。そして、イザヤ書60:19~20、ヨハネの黙示録21:2〜25と併せてこの記述からお分かりのように、物理的な光と太陽と月は神の本質を投影した結果であり、神の天地創造はヨハネが見た神の国、神の世界を物理的に描写していることが理解出来ます。
神が創造の第四日に太陽と月と星々を創られた目的は、「時」を刻むためでした。

創世記1:14
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。」

「昼と夜とを区別せよ。」とは、地球の自転です。地球の自転の始まりについてはヨブ記に書かれています。(ヨブ記26:7~10)「しるしのため」とは、文字通り「時のカウント」のためです。「季節のため」とは、地球が傾いて太陽の周りを公転しているということです。「日のため」とは、地球が正確な時間で自転しているということです。「年のため」とは、地球が太陽の周りを正確に公転しているということです。昔の漁師は太陽と月と星座の位置から自分の位置を探し出しました。現代のGPSのようなものです。ヘロデ王の時代に東方の博士たちは星に導かれて幼子イエスのところに来ました。万物はすべて自分勝手に活動しているのではありません。神の意思によって、秩序のうちに活動しています。神は創造第四日に「しるしのため」「季節のため」「日のため」「年のため」というはっきりとした目的を持って、太陽と、月と、無数の星々を創られました。これだけ正確に、詳細に、神が語られて、しかも、現代科学と一致しているのですから、「一日24時間」という時間の概念は、創造第四日の天体によって創られたことは否定しようのない事実です。神は物理的な時間のカウントのために、創造の第四日に太陽と月と星々を創り、ここで初めて「一日24時間」という時間の概念が誕生しました。ですから「夕があり、朝があった。第一日。」の「第一日」は、「一日24時間」の一日ではありません。
ヨハネの黙示録全体を眺めて見ると、「神の時」について、あることが見えて来ます。ヨハネの黙示録には「第一の・・・」「第二の・・・」「第三の・・・」~「第七の・・・」という神の時、神の順番を表す表現が出て来ます。

七つの封印
ヨハネの黙示録6:1~8:1
6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを私は聞いた。
6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
6:3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。
6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

中略

8:1 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。

七つのラッパ
ヨハネの黙示録8:6~11:15
8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

中略

11:15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

七つの鉢
ヨハネの黙示録16:1~17
16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
16:2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

中略

16:17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。

ここに「七つの封印」「七つのラッパ」「七つの鉢」に関する記述があります。ここに書かれている「第一~第七」とは、「神の時」を表しています。「神の時の順番」を表しています。子羊や御使いたちは自分勝ってに封印を解いたりラッパを吹いたり鉢をぶちまけているのではありません。神の命令によって封印を解き、神の命令によってラッパを吹き、神の命令によって鉢をぶちまけます。一つ目の神の命令が来たら、第一の封印が解かれ、二つ目の命令が来たら、第二の封印が解かれます。それが順番に第七の封印まで神の命令が行きます。ラッパを吹く御使いも同じです。神から最初の命令が来たら、第一の御使いがラッパを吹きます。続いて二つ目の命令が来たら、第二の御使いがラッパを吹きます。それが順番に第七の御使いまで神の命令が行きます。鉢をぶちまける御使いも同じです。 創世記1章に書かれている「第一日」とは、「天における神の時の区切り」を表しています。ヨハネの黙示録に書かれている「第一の封印」「第一のラッパ」「第一の鉢」と同じように、「天における神の時の区切り」を表しています。「第一の封印」「第一のラッパ」「第一の鉢」、そして天地創造の「第一日」というように、「天における神の時の区切り」を表しています。

第一日~第七日
第一の封印~第七の封印
第一のラッパ~第七のラッパ
第一の鉢~第七の鉢

一般にキリスト教界では「七」という数字は神の「完成数字」と言われています。神は七の区切りを以って事を行われます。ヨハネの黙示録は天から見た地上の世界、霊の世界から見た物理的な人間の世界を描写しています。創世記1章に書かれている神の天地創造も、天から見た科学、物理の創造の記録です。霊の世界から見た、地上の世界の物理の創造です。ですから、創世記1章1節から31節までは、各節の前半に神の言葉による創造の業が書かれていて、末尾に神の創造の区切りとして「第一日~第七日」と記されています。「第一日~第七日」は人間が物を作る時に必ず描く図面の日時に相当します。そして、「夕があり、朝があった。」とは、その日の創造の始まりと終わりを表した言葉です。神の国にはやみ(夜)が存在しません。だから、「夕があり、朝があった。」と書かれています。「夕」は一つの創造の終わりを表し、「朝」は創造の準備を表しています。朝と夕の間の「昼」は、実際の「創造」を表しています。「夕があり、朝があった。」とは、ヨハネの黙示録に書かれている神の世界から見た時の流れの表現です。神の国には元々やみがありません。夜がありません。サタンが存在しない世界ですから、サタンの象徴であるやみが存在しません。つまり、人間の世界における暗闇の夜がありません。ということは、神の国では朝が一日の始まりで、夕が一日の終わり、ということになります。夕と朝の間の夜は存在しません。そして、神の天地創造は暗闇の世界に光を放つことから始まりますから、創造第一日は「光があれ。」という言葉を以って神の天地創造が始まったので、「光があれ。」と言った時点が「昼」になります。だから神は光とやみを区別して、光を昼、やみを夜と名付けられ、ここで神は一つの創造の区切りをつけたので、これを「第一の封印」「第一のラッパ」「第一の鉢」と同じように「第一日」としました。もちろん神の国における「朝と夕」は神の国の時の流れを具象した表現で、実際に神の国に行かなければどういう世界なのか分りません。
太陽をはじめとする天体が創られた目的の一つは、「時のカウント」のためです。だから「しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。」と書かれています。神の国には人間の世界における時間の概念がありません。だって永遠ですから。「太陽も月も夜もない」のは、「しるし」が必要ないからです。「季節」が必要ないからです。「日(一日24時間)」が必要ないからです。「年のカウント」が必要ないからです。だって、永遠ですから。しかしヨハネの黙示録に「一日中」と書いてありますから、「時の流れ」はあるのでしょう。まあ、実際に神の国に行けば分かることです。
次に、一日24時間説では、出エジプト記20章11節の記述を以ってその論理の正当性を主張します。

出エジプト記20:8~11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

一日24時間説では「出エジプト記で、はっきりと神御自身が『六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造られた』と言っているのですから、神は万物を一日24時間×六日で造られたのが正しい解釈です」と主張します。しかし、先に私が指摘したように、創世記1章に書かれている「第一日」が人間の世界の一日24時間でないとすれば、ここの解釈も違うということになります。
まず、はじめに、みなさんに理解して欲しいことは、人間の世界で「一日」と言えば「24時間」のことです。24時間に決まっています。一日を100時間とは言いません。「今日、俺、がんばって一日で90時間働いたよ」なんていうことは絶対ありません。一日=24時間は人間が定義した物理的な時間の感覚ですから、「一日」と言えば「24時間」です。そんなことは小学生でも分かり切っていることです。ですから、へブル語でヨームと言ったら、24時間のことなんです。だって「一日=10億年」を表す意味の言葉は日本語にもへブル語にも存在しませんから。多分、世界のどの国の言語にも「一日=10億年」という意味の言葉はありません。一日って言ったら24時間に決まっています。一日を用いた形容詞はいくらでもあります。でも、「一日」という言葉は「24時間」を表します。残念ながら「一日」を「10億年」として表す言葉は存在しません。このことをよく承知しておいて下さい。
では、仮に、あくまで仮の話として、天地創造の第一日を10億年とします。第一日=10億年ですから、天地創造は次のように書かれるはずです。

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第十億年。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二十億年。
地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三十億年。
また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四十億年。
中略
神は第七十億年に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七十億年目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七十億年目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その億年に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

同様に、出エジプト記の安息日の規定も次のように書かれます。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六十億年間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七十億年目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──それは【主】が六十億年のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七十億年目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

みなさん、これを読んでどう思いますか? 理解出来ますか? ピンと来ますか? 「十億年」という日数に共感出来ますか? 私はサッパリ共感出来ません。ピンと来ません。だって、私はせいぜい100年程度しか生きられない存在ですから。神が創世記6:3で「人の齢は、百二十年にしよう」と言って120年しか生きられない人間に、歴史が七千年程度の人類に、十億年、百億年、千億年なんていう日数が理解出来るはずがありません。神のものさしと人間のものさしは次元が違います。単位が違います。神のものさしを人間に理解しろと言っても無理な話です。神様は私たち人間みたいにバカじゃありません。ちゃんと人間が理解出来るように、創造第四日で定義された「一日24時間」という人間のものさしを以って、当時のイスラエルの民に「それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」と前置きして、語られたのです。神の側から人間が理解出来るように人間の時間のものさしを以って安息日の規定を示されたのです。まだ、天動説も地動説も分からない当時の人々に、宇宙の存在すら分からない当時の人々に、七十億年なんて言ったところで理解出来るはずがありません。ましてや120年程度しか生きられない人間に「七十億年目をあなた方の安息日としなさい。」なんて神が言うはずがありません。そんなことは小学生でも分かることです。
創世記1章と出エジプト記20章に書かれている「一日」は、人間が理解できるように、共感できるように、神の側から人間の時の次元、単位に合わせて書かせたので、「第一日」「第二日」~「第七日」と表記されています。神は「俺が一日24時間×6日で万物を創ったんだから、おまえら人間も俺と同じように一日24時間×6日働いて、7日目に休めや」という意味ではありません。創世記1章に書かれている「第一日」は、神の世界の「一日」です。人間の「一日」は、創世記1:14~19の太陽に対する地球の自転と公転による「一日」です。神のものさしと人間のものさしはスケールの単位が違います。スケールの次元が違います。神のものさしを人間に示したところで、人間に神のものさしが理解出来るわけではありません。だから神は人間が理解出来るように人間のものさしを用いて御自身の言葉を書かせたのです。それから一言申し上げときますが、仮に、神が一日24時間×六日で万物を創造されたとするなら、神は一日24分×六日でも万物を創造することが出来る、ということですよね? さら1日24秒×六日でも出来る、ということですよね? さらにさらに1日0.0000000024秒でも出来る、ということですよね? 要するに、神にとって一日が24時間だろうが240億年だろうが0.0000000024秒だろうが関係ありません。時間をも支配される神様は、そのような次元で物事を考えるお方ではありません。私たち人間は時間に支配される存在だから「一日24時間でも全知全能の神なら出来る」と主張し、「神には出来る、出来ない」で物事の価値基準を決めます。一般的に、神の「全知全能」を「神様は何でも出来る」という意味で理解していますが、そうではありません。正確には「神はどんなことにも、どんな状況にも、どんな問題にも、対処出来る術を持っている」という意味です。「どんなことにも、どんな状況にも、どんな問題にも対処出来る」ということは、裏を返せば「神はなんでも出来る」ということですから、結果として「神は全知全能」ということになります。
聖書の初めに書かれている「天地創造」と、聖書の最後に書かれているヨハネの黙示録の「人類の終末」は、「神の国」という一つの世界の中で書かれた記録です。神の感性、神の価値観、神の視点、神の次元の中で書かれた記録です。創世記は宇宙の始まり、地球の始まり、人類の始まり、生きものの始まりが書かれています。ヨハネの黙示録は宇宙の終わり、地球の終わり、人類の終わりが書かれています。ですから、創世記の天地創造も、ヨハネの黙示録も、同じ「神の国」「神の世界」「神の視点」から書かれた記録です。私たち人間の世界、人間の科学、人間の視点から書かれた記録ではありません。人間の時間の概念からすれば、アダムからイエス・キリストの登場までが五千年程度で、イエス・キリストから現代までが二千年で、人類の歴史は現在まで七千年程度です。しかし、七千年という時間は人間の時間の概念であって、神は時間に制約されるお方ではありません。ヨハネの黙示録は今から二千年前に人類の終末について書かれた記録です。ヨハネは神の霊によって二千年後の人類の終末を見せられた光景を文書として記録しました。神は時間と空間に制約されません。

さらに一日24時間説の問題点は、この「光とやみを区別された。」という文言の解釈です。一日24時間説では創世記1章4節の「神は光とやみとを区別された。」という文言を以って、「ここで地球の一周24時間という自転が始まり、それによって地球が光に照らされる時間とやみになる時間が訪れ、神は地球が光に照らされる時を『昼』と名付け、光が照らされないやみを『夜』と名付けました。そして一日の締めくくりとして、『夕があり、朝があった。第一日。』と書かれています」と主張します。しかし、では、なぜ、創造の第四日に、「神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。」と書いてあるのでしょうか? 創造の第一日に光とやみを区別して、さらに第四日でも光とやみを区別されたとは、どういう意味なのでしょうか? なぜ、同じ「光とやみとを区別された。」という行為が二回も出て来るのでしょうか? その正しい答えは、創造第一日の「神は光とやみとを区別された。」のと、創造第四日の「光とやみとを区別するようにされた。」のとは、その意味が違うからです。区別されたものが違うからです。分かり易くするために、以下の文言を読み比べて下さい。

創世記1:3~4
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。

創世記1:17~18
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。

上記の神の言葉は、それぞれの末尾に記されている「夕があり、朝があった。第一日。(第四日)」という文言を省いて並べました。
私たちが天地創造を読む時、「夕があり、朝があった。第一日。」という文言を人間の感覚の「一日24時間」という意味に解釈しようとします。「一日24時間」という時間の概念の中に存在しているので、必然的に、前文の「夕があり、朝があった。」という文言と「第一日。」という文言をワンセットとして解釈しようとします。ですから「一日24時間」という概念から外れて、「夕があり、朝があった。第一日。」という文言を外して比べて見ました。こうして見ると、明確に創造第一日では光の本質、光そのものの物理を創られ、光とやみを区別されたことが分ります。創造第四日には光を放つ光源が創られたことが分ります。つまり、電気と電球の違いです。繰返しになりますが、電球が光を放つのは、電球の中の抵抗体に電気が流れることによって抵抗体が発熱して電気が光に変わります。最初に電気が在って、後に電球が造られました。そのように、神は創造第一日に光の本質を創り、後の創造第四日に恒久的に光を放つ太陽を創られました。だから創造第一日は、単に「光があれ。」と記述され、創造第四日には、「光る物」と記述されています。また、細かいことですが、創造第一日では 「神は光とやみとを区別された。」と書かれ、創造第四日では「光とやみとを区別するようにされた。」と書かれています。「区別された」のと「区別するようにされた」のとは言葉の意味が違います。光とやみを区別されるに至る周りの状況が違います。口語訳聖書では次のように翻訳されています。

口語訳聖書 創世記1:4
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

口語訳聖 書創世記1:17~18
1:17 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。

口語訳聖書でもやはり 「分けられた」 「分けさせられた」 と翻訳されています。「分けられた」「分けさせられた」 明らかに言葉の意味が違いますよね?
創世記1:4の「神は光とやみとを区別された。」とは、創世記1:2の「やみが大水の上にあり」の「やみ」に対して光を創り、光とやみを区別した、という意味です。「区別された。」とは、光は有の存在でやみは無の存在となり、光とやみはお互い相容れることが出来ない相反する物理的性質として、光とやみの定義をされました。

創世記1:14~19
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。

創世記1:18の「光とやみとを区別するようにされた。」とは、創世記1:14に書いてあるように神は昼と夜を区別するために二つの大きな光る物である太陽と月を創り、その光る物を天の大空(宇宙)に置いて地上(地球)を照らすようにされ、太陽は昼をつかさどり、月は夜をつかさどるようにされました。現実に、天地創造から現代に至るまで、地球の自転によって太陽に光が照らされる昼(光の世界)と月の光が照らされる夜(やみの世界)が交互に訪れます。ですから地球の自転は創造第四日で始まり、この時点で人間の世界における一日24時間という定義がなされたのは否定しようのない事実です。創世記1:14~18の記述は創世記1:3~5の記述が地球の自転を表す意味ではないことを裏付けています。地球の自転の始まりを裏付ける記述はヨブ記26:7~10に書かれています。
結論として、地球の自転は創造第四日に始まったことは明白であり、創造第一日の時点では地球の自転はまだ始まっていません。ですから、創造第一日で地球の自転が始まったする「一日24時間×六日創造説」は根底から崩れることになります。
私は別に一日24時間創造説は一つの聖書解釈、一つの説としてそれはそれでいいと思っています。いろいろな神学、解釈の中で、一日24時間創造説も一つの神学、解釈としてあっていいと思います。人それぞれもの事の考え方やもの事の視点が違うのですから。ただ、一日24時間創造説を信じている人たちの中には、一日24時間創造説以外の解釈に対して「それは進化論を土台にした考え方で非常に危険だ」と言って、あたかも自分たちの解釈だけが正しいかのごとく主張しているところに問題があります。「長い年月によって万物が造られたという解釈論はいのちの進化には長い年月が必要という進化論の要素を取り入れた非常に危険な解釈です」と喧伝しています。「彼らはサタンの手下だ!」と言っている人たちもいます。(じゃあ、俺はサタンの手下か?笑)まあ、最後は天に帰った時に聖書の真理が証されるのですから、別にこの地上で何を言おうが自由ですが、誤った解釈、誤った神学で聖書の真理が曲げられては困るので、私は問題を提起しています。
私は聖書のすべてを神の言葉と信じています。聖書は誤りなき神の言葉と信じています。進化論を明確に否定します。だって聖書に人間と動物の進化は出て来ませんから。進化論は科学を装った宗教だと思っています。創造主なる神は全地全能ですから、一日24時間×6日で万物を創ろうと思えば創ることが出来るお方だと信じています。ただ、聖書全体を読めば「天地創造の一日は人間の世界の一日24時間の一日ではありませんよ」と言っているだけのことです。あの~・・・率直に申し上げますが、はっきり言いますが、純粋に聖書を信じて、敬虔な信仰に生きている人たちの中にも、一日24時間×六日創造説に対して疑問を持っている人は大勢居るのです。誰でも初めて聖書を読んで「神は六日で地球や宇宙や人間を創られたと書いてあるけど、ほんとうにそうなのかな???」と思うはずです。私たち人間は一日24時間の世界で生きているから「感覚」としてそのように感じます。それに対して字義だけに捉われて「ヨームは一日24時間の一日の意味ですから、神は一日24時間×六日で万物を造られたのです」と主張して、「神は全地全能ですから一日24時間×六日で万物を造ることが出来ます。それを信じないのは不信仰です」と言って、自分たちの解釈以外は進化論と同一視します。一日24時間×六日創造説が誰にでも受け入られる矛盾の無い一貫した合理性のある論理なら何も問題はありません。しかし、現実に、ここでも指摘したように、一日24時間×六日創造説には決定的ないくつかの矛盾や不合理が存在します。そもそも、「聖書を字義に沿って忠実に解釈する」とは、どういうことでしょうか? 一般に、難解とされるヨハネの黙示録を研究するなら、必ず、旧約聖書からその意味を探し出そうとします。研究者はヨハネの黙示録の意味を旧約聖書のダニエル書をはじめ預言書からその意味の答えを見つけ出そうとします。新約聖書と旧約聖書は表裏一体の関係です。リンクしています。だったら、天地創造の記録も、分からない箇所の答えは聖書から探し出すことが出来るはずです。また、それが聖書解釈の正しいあり方ではないのでしょうか? ですから、天地創造の「第一日」も、その意味の答えは聖書のどこかに必ず書いてあるはずです。私はその答えをヨハネの黙示録から見つけ出しました。
聖書の言葉は聖書の言葉を以って帰結します。
「字義に沿って忠実に解釈する」というのは、そういうことではないでしょうか? 一日24時間×六日創造説は「一日(ヨーム)」という一つの単語の意味だけを以ってすべてを結論付けて、それでいて実際には大きな矛盾が存在します。
「聖書の分からないことは聖書に聞け」 「聖書の分からないことの答えは聖書に書いてある」

38.霊的錯誤

私たちが聖書を読んでいて必ず起こることが「霊的錯誤」に陥ることです。ここで「霊的錯誤」についてお話しします。
小学校の算数の図形の問題を出します。

Q:真上または真下から見ると円形で、真横から見ると三角形の図形は何でしょうか?
A:円錐(えんすい)

円錐は真上(真下)から見ると丸(円)に見えます。しかし、真横から見ると三角に見えます。それぞれ見る位置によって見え方が異なります。そのような事が実際に霊の世界(人間の思考の世界)でも起こります。仮に、聖書を円錐とするなら、ある人は聖書を真上から見ているので円に見えます。だから「この聖書の意味は円である」と主張します。ところが別の人は聖書を真横から見ていて三角形に見えるので、当然「この聖書の意味は三角である」と主張します。円形と三角形はまったく異なる図形ですから、お互い「これは円が正解で三角じゃないぞ!あんたの目がおかしいんだよ!」と言います。それに対して相手は「何言っているんだよ!これはどう見ても三角じゃないか!あんたの目が間違っているんだよ!」と反論します。このような場合、どちらが正しいのでしょうか? ある人が聖書を読んで三角形に見えるのは間違いではありません。ほんとう三角形に見えるのですから。しかし、三角形は円錐(聖書)を構成する一面であって、三角形が正解ではありません。同じように、ある人が聖書を読んで円形に見えるのは間違いではありません。本当に円形に見えるのですから。しかし、円形は円錐(聖書)を構成する一面であって、円形が正解ではありません。つまり、「霊的錯誤」に陥ります。この場合の「円錐」という正しい答えを出すためには、円錐を色々な角度から見る必要があります。多面的に見る必要があります。立体的に見る必要があります。同じように、聖書は色々な角度から読む必要があります。「いろいろな角度」というのは「霊的な視点、霊的な経験、霊的な立ち位置」です。一点の位置から見た印象だけを以ってあたかもそれがすべてかのごとく主張するから、一つの聖書に対して数多の神学、教派、教団が生まれることになりました。聖霊問題もその一つです。異言問題もその一つです。
みなさんは「ルビンの壺」をご存知でしょうか? ルビンの壺とは

背景に黒地を用いた白地の図形ので、向き合った2人の顔にも大型の壺(盃)にも見えるという特徴を持つ。初出はルビンの2巻組の著書『視覚的図形』(Synsoplevede Figurer)。ルビンの壺では白地(つまり壺のように見える部分)を図として認識すると、黒地(つまり2人の横顔のように見える部分)は地としてしか認識されず(逆もまた真である)、決して2つが同時には見えない[5]。
ルビンの壺
出典元:「ルビンの壺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2016年5月10日 (火) 03:55 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

出典元
Wikimedia Commons/File:Rubin2.jpg

ルビンの壺は人の認知心理学の研究材料としてよく用いられます。みなさんはルビンの壺を見て、壺に見えますか? 人の顔に見えますか? 実は、私たち人間の本質を構成している霊の領域でも、このような視覚認識が行われています。エバは蛇の言葉によって霊的な視覚認識を誤り、神が禁じた善悪の知識の木からその実を取って食べました。

創世記3:6
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

「そこで女が見ると」と書かれています。たとえて言うならば、今まで善悪の知識の木が壺に見えていたものが、蛇の言葉によって霊的な視覚の焦点を移し変えたら人の顔と認識するようになったのです。善悪の知識の木に対する霊的な神の認識とエバの認識にズレが生じたので、エバにとって善悪の知識の木の実がまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましく映ったのです。霊的錯誤については別の機会に詳しくお話しします。
「聖書で分らないことは、その答えは聖書に書いてある」のです。だから、私は、聖書全体から、天地創造の疑問の答えを見出す努力をしています。

39.神が描かれた人体の設計図

次に、「神が描かれた人体の設計図」についてお話しします。
詩篇139篇に次の記述があります。

新改訳聖書 詩篇139篇13~16
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

これは、ダビデよる神への賛歌です。13節に「私を組み立てられたからです。」と書かれています。「組み立てられた」とは、母の胎内で細胞分裂によって目、鼻、口、耳、脳、心臓、内臓といった、人体を構成するすべての器官が造られて行く過程を表しています。そしてダビデの体は神によって組み立てられたのですから、組み立てる器官と、何と何を組み合わせて、どれとどれをつなぎ合わせて、どのような手順で組み立てて行くのかという神が人間を組み立てるための論理、ロジックが存在します。そして15節に「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」と書かれています。ここに書かれている「地の深い所で仕組まれたとき」の「仕組まれた」という言葉は、口語訳聖書では「つづり合わされた」と翻訳され、新共同訳聖書では「織りなされた」と翻訳されていますが、ヘブル語原典では「刺繍された」「刺繍するもの」という言葉が使われています。へブル語の「刺繍された」という言葉を、新改訳聖書は「仕組まれた」、口語訳聖書は「つづりあわされた」、新共同訳聖書は「織りなされた」と翻訳しました。私の感性ではこの箇所だけを取れば口語訳聖書の「つづり合わされた」あるいは新共同訳聖書の「織りなされた」という表現の方がより具体的で的を得た(的を射る)翻訳です。刺繍の意味は

刺繍(ししゅう、英: Embroidery)とは、布や革の上に刺繍糸と刺繍針を使用して装飾を施す技術。「刺繍する」というように装飾する作業や完成した模様・文字を指すこともある[1]。プリントなどに比べて立体感がある分、製造に手間がかかるため、完成品は高価になる。
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最終更新 2018年1月24日 (水) 23:35

つまり、それぞれの素材を用いてある世界(装飾)をデザインすることです。口語訳聖書と新共同訳聖書の訳文です。

【口語訳聖書】詩編139:13~16
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の/まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。

【新共同訳聖書】詩編139:13~16
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
139:15 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。

口語訳聖書の「つづり(綴り)」とは「つなぎ合わせる」という意味です。地の深いところでつづり合わされました。地の深いところで何がつづり合わされたのでしょうか? 答えは「遺伝子」です。二重らせんを鎖のように繋いでいるDNAの遺伝情報がつづり合わされました。二重らせんの遺伝子には「遺伝情報」が刺繍されています。デザインされています。設計されています。面白いですね。DNAが繋いでいる二重らせんは長い糸状になっていて、その糸状のDNAがヒストンと呼ばれるたんぱく質に巻きつきながら折りたたまれたものが染色体です。その染色体が細胞の中に核として収まっています。ですから染色体の二重らせんの糸を引っ張り出して行くと、糸の所々に遺伝情報を構成するDNAがデザインされています。そして一般の糸は強度を増すために複数の繊維をねじり合わせます。DNAが鎖のように繋がっている二重らせんも二本の繊維をねじり合わせるような構造で、しかも二重らせんがDNAを複製するのに合理的な構造となっています。

遺伝子
出典元
Wikimedia Commons/File:Gene.png

この二重らせんの糸によって人体が刺繍されて行きます。「目と鼻と口はここの位置に縫い付けて、心臓と内臓はこの場所に」という感じで。そしてエッサイとダビデの母親の遺伝子がつづり合わされた時から、織りなされた時から、母の胎内でダビデの体の創造が始まりました。実は、聖書にはダビデの母の名が書かれていません。イスラエルの歴史で一番名を上げたダビデ王の母親が誰なのか? 聖書には書いてありません。しかしサウルの言葉やダビデ自身の言葉から、ダビデはエッサイの不義の子として、不倫の子として、生まれて来たようです。当のダビデ自身も、不倫をして女の夫を戦場で殺しました。現代なら不倫であろうが何であろうがDNA検査で誰の子なのかほぼ特定出来ます。話しを戻します。
その前の「わたしが隠れた所で造られ」と書かれている箇所が、遺伝情報を構成している「DNA」です。「わたしが隠れた所で造られ」とは「母の胎内で造られ」という意味ではありません。遺伝子を構成しているDNAによる塩基の配列による情報です。それは後のダビデの言葉から分って来ます。そしてDNAが人間の形をしているわけではありません。DNAはこれから人間の体を形造るたんぱく質を造るための塩基の配列による情報です。DNAによる塩基の配列によってアミノ酸が造られて、さらに造られたアミノ酸の種類によってそれぞれ働きが異なるたんぱく質による細胞が造られていき、60兆の細胞による人間の体が造られて行きます。「わたしが隠れた所で造られ」の「隠れた所」とは、ダビデの姿形(すがたかたち)が見えない世界です。新共同訳聖書では「秘められたところでわたしは造られ」と翻訳されています。人間の姿形が見えない所で、人間の姿形が造られて行きます。すなわち人間の姿形ではない「遺伝情報」によって、人間の姿形が造られて行きます。ですからDNA(塩基)による「遺伝情報」とは、「生命を造るための情報」すなわち「生命を造るために暗号化された(隠れたところ・秘められたところ)ソフトウェア(命令・手順・定義)」という、神が創られた「生命遺伝の概念」です。
「わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。」
遺伝情報によって、母の胎内でダビデの姿形(命の骨格)が造られて行くのを神は見ておられます。
新改訳聖書に戻って、さらに16節に「あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」と書かれています。

139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

「胎児」と書かれていますが、ここで言っている「胎児」とは、両親の遺伝子の結合(受精)から始まって母の胎内で細胞分裂を経て人間として形造られるまでの一連の流れを指します。私たち人間の顔や体格や体質は両親の遺伝子で決まります。そして「あなたの書物」とは、すなわち「ゲノム」です。「人体の設計図」が編集されている書物です。生命科学の世界ではゲノムは「人体の設計図であるすべての遺伝情報が記述されている書物」として譬えられます。実際に人類はヒトゲノムを解読してすべての遺伝情報を紙に印刷してファイルとしてまとめました。

解読された全ヒトゲノムの上製本
出典元
Wikimedia Commons/File:Wellcome genome bookcase.png/Russ London

ゲノムの中に人間の体を構成する目、鼻、口、耳、脳、心臓、内臓などすべての器官の核となる遺伝子が「人体の設計図」としてデザインされています。刺繍されています。先に書きましたが、人の体は人の魂に合わせて神がデザインして着せた「衣」なのです。人間の本質は物理的な「体」ではなく目に見えない人格である「魂」にあります。人間は神によって創られたので、本能的に神の真似をします。神の天地創造の工程を踏襲します。神が人の魂に着せる「体」を60兆の細胞の核である遺伝子を糸で刺繍して完成させたように、人間も繊維をつづり合わせた糸によって洋服をデザインして完成させます。さらに「私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」と書かれています。「私のために作られた日々」とは、母の胎内で自分の姿形が造られて行く過程、時間、日数です。ですからそれに続く「しかも、その一日もないうちに。」とは、「(物理的な)私が存在する前」という意味です。「受精する前」という意味です。つまり、私(ダビデ)がこの世に誕生する前に、すでに、物理的な私を構成する要素、因子(遺伝子・DNA・ゲノム)がすでに存在していて、その要素、因子を造られたのは神ですから、神はダビデが生まれる前にすでにダビデの存在を知っておられた、ということです。ダビデの体を構成する要素、因子とは、すなわち両親の遺伝子です。父親エッサイと母親の遺伝子の結合によってダビデは誕生しました。みなさんの存在も、神はみなさんが存在する前にすでに御存知でした。みなさんの両親が結婚した時点で、必然的に両親の遺伝子によってみなさんがどのような顔と体格と体質で、どのような性格を持ってこの世に誕生するかを神は知っています。さらに遡って、おじいちゃんおばちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんと、ず~~~と遡ればノアとその家族に辿りつき、最後は人類の初めであるアダムとエバに辿りつきます。七千年前のアダムとエバの遺伝情報が七千年の時を経て何代もの人々によって現代の私たちにコピーされて受け継がれて来ました。聖書にはよく「系図」が書かれています。マタイの福音書の冒頭にはイエス・キリストから遡ってアブラハムまでの系図が書かれています。ただ、イエス・キリストはヨセフの婚約者マリヤより聖霊によって身重になって生まれた方ですから、一般の私たち人間とは妊娠の状況が異なります。
そして、現代科学によってDNA・遺伝子・ゲノムの存在が明らかになり、本来、神の領域である「隠れたところ」「秘められたところ」に人類が侵入して来ました。「医療」と称して、「治療」と称して、人工授精、体外受精、出生前診断、ゲノム編集へと突き進み、生命への畏れ、倫理が失われて行きます。人間が形造られる前の「遺伝情報」によって命の選別がなされ、不具合で必要のない命は葬られて行きます。人間が形造られる前の「遺伝情報」を操作することによって、人間の先天的な病気や障害を予防する研究がなされて行きます。大丈夫なのでしょうか? こんなことしても。もし、遺伝子操作で生まれて来た子どもに問題が見つかったら、誰が責任を取るのでしょうか???  近い将来には遺伝子操作による「男女の産み分け」も当たり前の時代が来るのでしょうね。人間の世界の「倫理」は有って無いようなものです。「赤信号、みんなで渡れば青信号」の世界です。いよいよ生命科学も「なんでも有り」の世界に突入して行きます。私は何も生命科学が悪いと言っているのではありません。ips細胞などの応用による再生医療によって目の見えない人が見えるようになれば、喜ばしいことです。もし私の知り合いがクリスチャンでなくてもips細胞によって目が見えるようになったり何かの病気から解放されたら私は心から一緒に喜びます。病気や障害による苦しさを私も経験していますから、「あの苦しみから解放されて良かった」と心からうれしいです。ですから生命科学に携わっている研究者の方々にはどんどん研究して下さいと言いたいです。ただし、研究の中に「命に対する畏れの念」を忘れないで欲しいのです。「生命倫理」という、神の領域には絶対踏み込んで欲しくないのです。なぜなら命は神が創られたものだからです。そして、どんなに不自由な体が自由な体になったとしても、それは「魂の救い」ではありません。人間遅かれ早かれ時が来れば「死」がやって来ます。「あなたは五体満足でお金にも困らず不自由のない幸せな人生を過ごして来たかもしれないけど、死んだら、あなたはどこへ行くのですか?」と問いたいのです。

私は小学生の頃から科学にとても興味がありました。だから国語と理科だけは点数が良かったです。そのせいか、クリスチャンになってから「聖書を通して科学の世界を見る感覚」が自然と養われました。聖書を読んでいてもついつい科学的な思考で聖書を考える癖があります。科学や物理に携わるクリスチャンの方々は私以上に科学、物理の世界を知っておられるのですから、聖書を読みながら御自分の研究を人々の魂の救いにつなげて欲しいのです。研究者の方々は研究者として神に召されたのですから、常に研究を通して神を証して人々の魂の救いにつなげて欲しいのです。同じ病院で新しい命の誕生を喜びながら、一方でこの世で産声をあげることも出来ずに途中で人の手によって閉ざされる命が現実に存在します。「命は尊い」と叫びながら、一方で「望まない妊娠」とか「経済的に育てていけない」とか、人間の勝手な都合で新しい命が閉ざされて行きます。神による命の定義がなし崩しにされて行きます。神は天地創造で「いのちの世界」を創られました。そして神が創られたいのちの世界に私たち人間は置かれました。そのいのちの世界に神が居なければ、いのちは単なる「物」でしかありません。「動く物体」でしかありません。だから私たち人間はいのちを単なる「物」として、「動く物体」として、「喋る物体」として、取り扱います。

新改訳聖書 詩篇139篇13~16
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

今から三千年前のダビデの時代に、DNAや遺伝子、ゲノムの存在なんてもちろん分かりませんでした。しかし、現代科学と符合する事柄を三千年前のダビデが詩篇で詠っています。ダビデはどのような意識で詩篇を詠ったのでしょうか? おそらく、御霊に感じて「想像しながら」詠ったのでしょう。ダビデは常に神と会話をした人です。ですから御霊に感じたことを、思考の世界に浮かんだことを、「想像しながら」詠ったのでしょう。目で見て確認することは出来ないけど、実際に見ることは出来ないけど、御霊によって思考の世界に思い浮かんだ生命の世界を想像して詩を詠ったのでしょう。よく考えて見れば、単純に神を賛美するなら詩篇139篇13~16は次のように詠われれば良いことです。

それはあなたが私を母の胎のうちで造られたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
あなたは私のすべてを知っておられます。

しかし「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」とか、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」とか、「私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」といったように、妄想だか戯言だか何だか訳の分からない意味不明なことをダビデはゴチョゴチョ詠っています。私たちは聖書を読んでいて訳の分からない意味不明なゴチョゴチョした箇所は分かったような分からないような感覚で読み流して行きますが、実は、訳の分からない意味不明なゴチョゴチョした箇所に、聖書の真理が隠されています。神の言葉は一点一画も廃ることはありません。訳の分からない意味不明なゴチョゴチョした箇所も含めて、聖書は神の言葉です。もし、ダビデが現代に生まれて詩篇139篇を学会やNatureで発表したならば、ダビデはノーベル賞を頂いたかもしれません。(笑)
人類の終わりに向かって科学が進めば進むほど、科学による聖書の真理と事実が解き明かされて行きます。科学と聖書が符合して行きます。重なって行きます。聖書の真実が、科学によって解き明かされて行きます。科学、物理に携わる研究者の皆様へ、ぜひ、科学によって聖書の言葉をどんどん解き明かして下さい。期待しています。
「科学とは、神の言葉である聖書の文字をなぞることである。」

40.神が創られた万物を動かすコンピュータ 

創世記1:1~2:25
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

ここで、「30.万象の完成」で触れた「文書資料説」について考えたいと思います。
創世記1章の天地創造の文章と2章のエデンの園の文章を比較すると、へブル語原典では1章に書かれている神の呼称と2章に書かれている神の呼称がそれぞれ違います。創世記1:1~2:3(A-description)ではエローヒム(神)と書かれ、創世記2:4~25(B-description)ではヤハウェ(主)と書かれています。だから新改訳聖書では創世記1:1~2:3は「神」と表記され、創世記2:4~25は「神である【主】は」と表記されています。また、創世記1:1~2:3と創世記2:4~25ではその文体の特徴が異なっていることを指摘して「だから創世記1:1~2:3と創世記2:4~25は著者が別人で、書かれた年代や背景も違う」という解釈で登場して来たのが「文書資料説」という創世記が編纂された経緯を示す一つの仮説です。文書仮説とは

文書仮説(ぶんしょかせつ、英: Documentary hypothesis)とは、モーセ五書(旧約聖書のうちの最初の5文書)は、元々それぞれ独立・完結している諸文書をのちに編者が組み合わせることによって、現在見るような形として成立したとする説である。一人の人間(モーセ)によって書かれたとする、ユダヤ教・キリスト教の古代以来の伝統的理解と対立する。元の諸文書の数は4種と想定されることが多いが、文書の数はこの仮説の本質的部分ではない。この仮説は、18~19世紀に、聖書の矛盾点を整合化する試みから発展したものである。19世紀末までには、4種の原資料があり、これを編者集団 (R) が編纂したという、大体の意見の一致に至った。この4種の原資料は J (ヤハウィスト資料)、E (エロヒスト資料)、D (申命記史家)、P (祭司資料)として知られる。
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最終更新 2017年10月5日 (木) 10:04

まず、みなさんに理解して欲しいことは、「30.万象の完成」で書いたように、「『文書資料説』は『二重補足説』と同じように『A-descriptionとB-descriptionは整合しない、矛盾している』という前提で展開された論理」です。その整合しない、矛盾している二編の文章を整合させるために、矛盾を解消するために、思いついたのが「文書資料説」です。単純に一言で言ってしまえば

「そもそもA-descriptionとB-descriptionは書いた人物も、書かれた時代も違うのだから、整合しないのは当たり前だろ!矛盾して当然だろ!」

と主張しているのです。「そもそも論」です。最初からA-descriptionとB-descriptionは整合しない、矛盾しているという視点から研究されて出て来た解釈論です。ですから逆に、「文書資料説」も「二重補足説」も、

もし、A-descriptionとB-descriptionが整合する、矛盾の無い、一貫性のある文章であることが証明出来たなら、「文書資料説」も「二重補足説」も本来の正しい解釈から外れている。

ということになります。そして結論から申し上げると、創世記1:1~2:3の文章と創世記2:4~25の文章は何も矛盾しません。一般にはモーセが書いたと言われていますが、同一の人物が同じ時期に一気に書き上げた文章です。別々の人が別々の時代に書いてそれを編纂した文章ではありません。また重複して書かれた文章でもありません。神の天地創造は、前半の「いのちの本質といのちの活動に必要な環境の創造」と、後半の「具体的ないのちの活動のための創造」の二つに大別することが出来ます。先に書いたように創世記1:1~2:25は神の天地創造における万物を動かしている目に見えない「ソフトウェアの世界」と目に見える物質的な「ハードウェアの世界」が創られて行く過程が書かれています。ソフトウェアの創造とハードウェアの創造の二つの視点から書かれています。実際に神がそのような工程で万物を創られたのですから、当然、そのようになります。創造の第一日から第六日の万物の創造は必ず「神は仰せられた」という言葉で始まり、「神が仰せられた」という言葉が11回出て来ます。「神の言葉」は「神の思考」です。「神の思考」とはすなわち「万物を動かしているソフトウェア」です。神の思考によって描かれた万物の設計図が「万物のソフトウェア」です。そして「いのち(命)」と「物質」はそれぞれ次元が異なるので、万物のソフトウェアは「いのちのソフトウェア」と「物質のソフトウェア」に区別されます。「いのちのソフトウェア」は私たち人間や動物の魂です。「物質のソフトウェア」は人間の目で確認することが出来る科学や物理など物質の世界を動かしている原因、法則です。ですから創世記1:1~2:3の天地創造の流れを要約すると、

第一日=光を造られる。
     ↓
第二日=大空を造られる。
     ↓
第三日=地・海・植物を造られる。
(この時点では植物は地に種や根が植えられただけであって、芽が発芽したわけではありません)
     ↓
第四日=太陽・月・星々を造られる。
(この時点で万物の科学、物理、すなわち物質に関するソフトウェアとハードウェアが完成されました)
     ↓
第五日=水に生きる生き物と空を飛ぶ生き物が造られる。
(いのちのソフトウェアである水に生きる物と空を飛ぶ生き物の魂が創られる)
     ↓
第六日=家畜や、はうもの、野の獣が造られる。その後、人間を造り、男と女に分けられた。
(いのちのソフトウェアである人間と陸地の生き物の魂が創られる)
     ↓
第七日=なさっていたわざの完成を告げられ、なさっていたすべてのわざを休まれた。しかし、第七日で天地創造のわざの完成を告げられた時点では、まだ、いのちのハードウェアである人の体と動物の体が造られていません。ですから、この時点ではまだ「いのちの活動」がありません。だから、創世記2:5~6に

2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。

と書かれています。ここで創世記2:2に「神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」と書いてあるにもかかわらず、なぜ、その後で人の体が造られているのか? という疑問が湧いて来ます。その答えは創世記2:1に書かれています。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

神がここまで完成されたものは天と地とそのすべての「万象」が完成されたのです。人間と動物が完成されたのではありません。いのちが完成されたのではありません。天と地のすべての「万象」が完成されたのです。万象の意味は

森羅万象(しんらばんしょう、しんらばんぞう、しんらまんぞう)は、あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。
「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。
なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、および宇宙空間を指す。
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最終更新 2016年11月10日 (木) 11:13

英語の聖書によっては「宇宙」と翻訳しているものもあります。万物の仕組み、法則が完成されました。「いのちの完成」ではありません。「万物の万象」が完成されたのです。ここで言う「万象」とは、「いのちの活動に必要な環境」です。私たち人間が住む地球という「家」が完成されました。いのちそのものではありません。私たち人間が完成されたのではありません。だから創世記2:5~6で

2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。

と書かれています。そして創世記2:7で土地のちりから人間のハードウェアである「体」が造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれた時点で、人間は魂による意識によって活動する生きた者となりました。その生きた者となった人間を、エデンの園に神は置きました。

2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

ですから創世記1:1~2:3(A-description)の文章と創世記2:4~25(B-description)の文章は一貫性のある一体となった矛盾の無い一つの文章です。
天地創造の前半の創世記1:1~2:3はいずれも「神は仰せられた。」で始まり、神の言葉である「神の思考」によって何も無い世界に万物が創られて行く過程が書かれています。無から有が生じる瞬間が書かれています。ですから前半は「天における神の創造の視点」から書かれているので、創世記1:1~2:3(A-description)ではエローヒム(神)と呼称されています。それに対して後半の創世記2:4~2:25(B-description)は物質(土地のちり)から物質(人の体・動物の体)が造られて行く過程が書かれています。神が造られた土地のちりからいのちの核である細胞が造られて行きます。有から有が生じる瞬間が書かれています。天に居られた神が、御自身が造られた地の世界に来られて、さらに土地のちりを手に取って加工して人の体と動物の体を形造り、人の鼻にいのちの息を吹き込まれた時から人は生きた者となり、神と交わるようになりました。創世記2:4~2:25は「神と人間の関わり」という視点から書かれています。神と人間の関係は、神が「主人」で、人間は「従う者」です。神は人間に対する主人です。だから、創世記2:4~2:25はヤハウェ(主)と呼称されています。天地創造の前半と後半では神の創造の状況が違います。それから創世記1:27~29の記述に関して

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

と書かれています。「神は彼らに仰せられた。」「それがあなたがたの食物となる。」と書かれているので、神はすでに生きた者となった目の前に居るアダムとエバに語っているように解釈され、このことが根拠となって前半の創世記1:1~2:3が天地創造の「アウトライン(輪郭)」で、後半の創世記2:4~2:25は前半の詳細を記録した「ディテール(細部)」の二編に分かれていると解釈されます。しかし、それは違います。
ここで、ちょっと視点を変えて考えてみましょう。

みなさんは創世記1:1~2:3を読んで何か気が付いたことはありませんか? 特にパソコンで簡単なプログラムを組んだことがある人やシステムエンジニア、プログラマーなどのIT関連の仕事や研究に携わっている方々の皆様、何か気が付きませんか? 創世記1:1~2:3の文章から何か見えて来ませんか? 何かに似ていませんか?

みなさんは気が付いたでしょうか? 創世記1:1~1:31の文章には、ある「決まり」「法則」が組み込まれています。神の創造は第一日から第六日まで、すべて「神は仰せられた」という言葉で始まり、その後に、神が仰せられた具体的な言葉が綴られています。そして、神が具体的に仰せられた言葉は、すべて、「命令」です。「命令」とは、すなわち【command】(コマンド・命令言語)です。

神は仰せられた。→「光があれ。」→すると光があった。
神は仰せられた。→「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。→そのようになった。
神は仰せられた。→「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
神は仰せられた。→「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。
神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

「光があれ。」
「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」
「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」
「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」
「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

神はすでに存在しているものに向かって命令しているのではありません。何も無い世界に向って命令しているのです。まだ何も無い、光が無い世界に向って「光があれ。」と命令しているのです。
まだ、大空が無い世界に向って「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」と命令しているのです。
まだ、かわいた所が無い世界に向って「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と命令しているのです。
まだ、植物や草や果樹が無い世界に向って「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」と命令しているのです。
まだ、光る物が無い世界に向って「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と命令しているのです。
まだ、生きものが居ない世界に向って「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」と命令しているのです。
まだ、人が居ない世界に向って「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命令しているのです。

先ほど、「特にパソコンで簡単なプログラムを組んだことがある人やシステムエンジニア、プログラマーなどのIT関連に携わっている方々の皆様、何か気が付きませんか?」と言いましたが、たとえば、スマホ用のゲームアプリ(アプリケーション)を作るとします。しかし、ゲームアプリを作る前に、必ず、OS(Operating System・オペレーティングシステム)の選択をします。OSにはMS-DOS、Windows、MacOS、iOS、Android、 UNIXなどがありますが、アプリはOSの上に成り立っています。では、そのOSとは何か? というと、

【command】ソフトウェアやハードウェアの機能を実行するための命令。CUI環境のOS、プログラミング言語で使用される。目的のコマンドをキーボードから入力し、Enterキーを押すと、そのコマンドに対応した処理が行われる。
出典元:ASCII.jpデジタル用語辞典

OSとは、コマンド【command】という「命令言語」によるアプリケーション(WordやExcelなどの応用ソフトウェア)の要求(ジョブ)に従ってコンピュータ(CPU)に命令や指示を与えて全体のタスク(仕事)をコントロールするソフトウェアで、「基本ソフトウェア」と言われています。まあ、一言で言ってしまえば「アプリを動かすためのソフトウェア」とでもいうのでしょうか・・・。実は私もよく分かっていません。間違っていたらゴメンナサイ・・・(^^;
先にお話ししたように、創世記1:1~2:3は神が万物を創り動かすためのロジック(論理・設計図)であるソフトウェアが創られていく過程が描かれています。だから、神の創造は何も無い世界に向かって「光があれ。」と言葉を発して命令をします。神は命令することによって物理的な光のロジック(光の性質・法則・構造)を組み立てました。そして組み立てられた光のロジックの上にハードウェアとしての物理的な光(粒子・波動)が重ね合わされたので、「すると光があった。」と書かれています。つまり、秩序も法則も何も無い世界、空間に、万物を動かすアプリケーションに相当するソフトウェアと私たち人間が意識出来る物質的な科学と物理といのちの世界を造りました。では、万物を動かすアプリケーションを組み立てるためのOSはというと、OSは「神の国」です。神の国とは「神の思考の世界」です。先にお話ししましたが、神は水H2O(10)を造るための化学式を無限の方法で組み立てることが出来ます。水素H2(2)と酸素O2(8)を選び出し、化合(+)という【command】(コマンド)で2+8=10という化学式をプログラムして、それに沸点100℃、融点0℃の【parameter】(パラメータ・引数)を設定するという感じです。神の思考の世界には無限(無数)のあらゆる法則があります。無限の法則の中から、万物を創るための法則【command】を選んで万物を動かすソフトウェアを作って行きました。私たち人間の体は鳥のように空を飛ぶことが出来ません。いくら腕をパタパタ振っても引力の下にあっては永遠に空を飛ぶことは出来ません。それは、神は鳥だけに「鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されたのであって、人間には「人が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されなかったからです。神は鳥だけに大空を飛ぶようにプログラムされたのであって、人間には大空を飛ぶようにはプログラムされませんでした。だから、人間が大空を飛ぶことは出来ません。しかし、もし神が「人が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されて人が大空を飛ぶようにプログラムされたなら、人は大空を飛ぶことが出来ます。羽根が有ろうが無かろうが関係ありません。新約聖書の使徒の働きの冒頭には、弟子たちの前でキリストが天に昇って行く様子が描かれています。

使徒の働き1:1~12
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、
1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

神は無限の法則(OS)の中から必要な法則を見つけ出して来て命令します。神の言葉は「生きた力」です。神が言葉を発して命令すれば、すべてが命令通りに動きます。私のような素人には分かりませんが、OSの仕組み、OSとアプリケーションの関係、さらにソフトウェアとハードウェアの関係を理解しているIT関連の仕事や研究をされている方々なら、神がどのような工程で万物のソフトウェアとハードウェアを創られたのか? あるいは人工知能ロボット(AI)を研究されている方々なら目に見えない人間の思考形態がどのような構造になっているのか? 自由意志とは何なのか? 少しは見えて来るかもしれません。ですから、たとえば神は創造第五日に「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されました。

1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。

人間の感覚で考えると、まず、神は鳥のハードウェアを造り、完成された鳥のハードウェアに神が「鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されて、そこで初めて鳥が神の命令通りにパタパタと羽根を羽ばたいて空に飛んで行ったと解釈されます。しかし、ここでは「いのち(命)のソフトウェア」が創られたのであって、「物体」としての鳥が創られたのではありません。神が「鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令することによって鳥の魂が自らの意思で大空を飛ぶためのロジックが創られました。ロジックとは、すなわち「論理」です。「理屈」です。「いのちのソフトウェア」です。いのちのソフトウェアとは、生き物の「習性・本能・行動原理」です。天地創造を詳細に記したヨブ記には、神がプログラムされた動物の行動原理である「習性・本能」について語っています。たとえばヨブ記38:39からは色々な動物の行動について語られていて、ヨブ記39:27~30では鷲や鷹などの猛禽類の習性・本能・行動原理について次のように書かれています。

ヨブ記39:26~30
39:26 あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。
39:27 あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高い所に作るのは。
39:28 それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。
39:29 そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。
39:30 そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。

鷹も秋になると越冬のために暖かい南の方へと飛んで行きます。鷲は岩山の高い所に巣を作り、上空を旋回しながら地上の獲物を狙います。人間の目の視細胞20万個に対して鷲の目の視細胞は150万個で、1500メートル先の獲物を識別することが出来るそうです。凄いですね。ハゲワシは死んだ動物の肉を餌とします。すべての生き物の習性・本能・行動原理は、天地創造で神が定められたいのちのソフトウェアです。いのちのソフトウェアに対していのちのハードウェアである細胞から成る物質的な生き物の体は創世記2:19で神が造られました。人間も同様に、前半の創世記1:26~27で人の魂が創られ、後半の創世記2:7で人の体が造られました。だから神の天地創造は前半の創世記1:1~2:3と後半の創世記2:4~2:25に分けられています。ですから先に申し上げた創世記1:28~29の記述は

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

人間の魂にプログラムされた習性・本能・行動原理です。人は海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配する能力を持っています。しかし人は他の生き物と同じように食物に依存して生きています。何かを食べてなければ死んでしまいます。
私は小さい頃、飛行機のパイロットに憧れました。空を飛ぶことの憧れが強かったので、よく、鳥のように自分の体だけで空中を飛ぶ夢を見ました。今でも空を飛ぶ夢を見ます。両手をVの字に広げてドキドキしながら都心の高層ビルの屋上から身を投げ出すと体が風に乗ってフワ~~~と浮いて行き上空300メートル位のところを飛んで行きます。手のひらを開いてグルグル回すと前に進んで行くのです。下では人々が見上げて「おいおい、見ろよ、人が飛んでいるよ!」と騒いでいます。夢の中でも夢だなんて分かりませんから空を飛ぶリアリティを感じながら飛んでいます。やがて夢から目が覚めると「なんだ、夢だったのか」と現実に戻ります。来たるべき「新しい天と新しい地」では、人間が空を飛べると勝手に思い込んでいます。
先にお話ししましたが、ヨハネの黙示録には神が「新しい天と新しい地を造る」ことが書かれています。

ヨハネの黙示録21:1
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

「以前の天と以前の地」とは、私たちが生きているこの世界です。創世記1:1で「 初めに、神が天と地を創造した。」と書かれている「天と地」です。そして、天は万物の「ソフトウェアの世界」です。地は万物の「ハードウェアの世界」です。ですからそれを黙示録21:1に当てはめると

また私は、新しいソフトウェアと新しいハードウェアとを見た。以前のソフトウェアと、以前のハードウェアは過ぎ去り、もはや海もない。

と訳すことが出来ます。神が創られる「新しい天と新しい地」は「神を信じる者の住まいとする新しい万物のソフトウェアとハードウェアを造る」という意味です。今、私たちが生きているこの世界は創世記1:1に書かれている「古い天と古い地」です。古いソフトウェアと古いハードウェアの世界です。天と地は「神の思考によって創られるアプリケーション(応用ソフトウェア)とハードウェアの世界」です。スマホのアプリには業務、ゲーム、SNS、お絵かき、写真、音楽など、様々なものがあります。それぞれのアプリはそれぞれの「世界」を作っています。一つのOSから何でも出来てしまいます。あらゆる「世界」(アプリケーション)が作れます。そのように、神は御自身の無限(無数)の思考の世界(OS)の中から必要な法則【command】を選んで万物のアプリケーションを作って行きます。ところが創世記1:1で神が作られた万物のアプリケーションにサタンというウィルスが人間の罪によって侵入して来ました。だから「地」は呪われました。本来、神が創られた世界に自然災害など存在しません。しかしサタンというウィルスが入って来たので、万物のハードウェアが異常な動作をします。地震や台風などの自然災害で人類は苦しむことになります。サタンの手に渡されたヨブの七人の息子と三人の娘が大風(竜巻?)で倒れた家の下敷きになって死んだように。サタンの手に渡されたヨブが全身の腫物で苦しんだように。
あの~~~・・・なかには「コンピュータだのソフトだのハードだの、こいつ頭がおかしいんじゃねえ? 聖書となんの関係があるんだ?」と思われる方も居られるでしょう。すでに繰り返しお話ししていますが、人間は神によって創られました。そして、人が罪に陥った後に神は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(創世記3:22)と仰せられたので、人は神と同等になりました。神と同じ思考形態を有する存在となりました。だから、人間の思考形態は神の思考形態と同じであり、人間は、本能的に、神と同じことをします。人間が物や社会システムを作る工程は、神の天地創造の工程を踏襲します。聖書の神を信じない人々は「神を信じるなんてバカじゃねえか。居ないものを信じてどうするのよ。こんなの信じるやつの気が知れないよな」とバカにしながら、自分たちも神と同じことをやっていることに気が付きません。自分たちが神の手のひらの上で踊らされていることが分りません。

41.生ける神の言葉

ヨブ記には、神がどのようにして万物を造られたのか? それを示す記述が多く出て来ます。たとえば、ヨブ記38章には次の記述があります。

ヨブ記38:1~14
38:1 【主】はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。
38:8 海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
38:9 そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。
38:10 わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、
38:11 言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。
38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、
38:13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。

ヨブ記38:1~14には神が地球を造られる物理的な過程が書かれています。一つ一つ考えて行きましょう。

38:4 わたしが地の基を定めたとき、
38:5だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。

地球が自転する原理はコマが回る原理と同じです。ですから地球をコマと見立てて考えると分かり易いと思います。「地の基」とは「地球の基(もとい)」です。神は地球の中心から測りなわを張って地球の大きさを決めました。「測りなわ」とはメジャーです。寸法を測るための巻尺です。つまり「数字を計算する」ことです。台座は地球の軸(地軸)が置かれる「台」です。隅の石は「重さ・質量」です。これで地球が自転するための条件が整いました。
自転とは、物体がその内部の軸の周りを回転することです。神は地球を自転する球体として造り、地球の中心を通る北極と南極を結ぶ線を回転軸としました。そして、ヨブ記26:11に「神がしかると、天の柱は震い、恐れる。」と書いてあります。「天の柱」とは、地球の回転軸です。ですから神の言葉によって地球の回転軸が23.4度傾きました。そして地球に力を加えて回転させると、慣性の法則により地球はず~~~っと回り続けます(ヨブ記26:10)。回転の慣性は、回転軸に対して遠くの位置(外周部)が重いほど大きく、近い位置(中心部)が重いほど小さくなります。ですから神は最初に地球全体の大きさ、質量を計算して、そこから加える力に対して隅の石(遠心力を引き起こす質量)を回転軸からどの位置に置けば1周24時間で自転するかを計算して地球全体を設計しました。そして、地球は宇宙空間に浮いているので(ヨブ記26:7)、地球の回転を阻む抵抗がありません。だからほぼ一定の速度で止まることなく回り続けます。「その台座は何の上にはめ込まれたか。」と記されています。台座とは地球を置く台です。地球儀のように、球体は台座の上に置かれています。しかし、実際には地球は何かの台の上に置かれて回っているわけではありません。コマのように北極と南極に軸が突起しているわけでもありません。引力によって宙を浮いています。と言っても厳密には宇宙単位で考えるならば地球は落ちているそうです。人類は宇宙から地球を眺める時代に入り、地球は何かの台の上に置かれて回っているのではないことが分り、また、不規則に、なんの法則もなく、宇宙空間をさまよっているのではないことが証明されました。近年では太陽系そのものがおよそ時速864000kmで移動していることが分り、さらに太陽系が属する銀河系も宇宙空間をおよそ時速2160000kmで移動していると言われています。動画投稿サイトでその様子をCG(コンピュータグラフィック)で見ることが出来ます。凄いですね。それはまるで、誰かが意図して計算したコースの上を太陽系という単位で、銀河系という単位で移動しているように見えます。目に見えない地球が置かれた台座は、神が計算して描いた軌道の上にはめ込まれて自転しながら移動しています。最近の動画投稿サイトでは宇宙、銀河系、太陽系、地球の動きを忠実に再現したCGを見ることが出来ます。あのCGは天文学者が計算した天体の動きに関するデータをコンピュータに入力して作られたものと思われますが、では、元となる、人類が存在する前にすでにあった天文データは、誰が作ったのでしょうか? 宇宙、銀河系、太陽系のCGを作るためのデータは偶然の数値なのでしょうか? サイコロを振って偶然出て来た数値なのでしょうか? それとも誰かが計算して出した数値なでしょうか? 太陽と地球の距離も、月と地球の距離も、地球の自転速度も、楕円に周っている公転軌道と速度も、地球にいのちが誕生したのも、すべては「何兆回の偶然×何兆回の偶然×何兆回の偶然×何兆回の偶然×何兆回の偶然・・・・・」が重なって出来たのでしょうか? 聖書は言います。「創造主なる神がすべてを計算して創られた」と。だから、神はヨブに向って

38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。

と仰せられました。そして、

38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

新しいいのちの世界の誕生の瞬間を天から見ていた御使いたちは、その創造を共に喜びました。

38:8 海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。

「海がふき出て、胎内から流れ出たとき」と記されています。胎内とは「子宮」です。「新しいいのちが誕生するところ」です。両親の遺伝子が出会い、結合して、新しいいのちが人間として形造られる場所です。大量の水(海)はいのちが誕生する世界です。いのちは水無くして生まれ、成長することはありません。胎児は水(羊水)の中で成長して行きます。ここに記されている胎内は「神の胎内」です。「いのちの世界の源が宿る場所」です。神の胎内から吹き出た大水が、いのちの世界をもたらします。創世記1:2に書かれています。

創世記1:2
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

いのちの源である大水を包むように、神の霊が活動していました。水に覆われた母の胎内から新しいいのちが生まれて来るように、神の霊に包まれた大水からすべてのいのちが誕生します。

38:9 そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。

神は空に浮かぶ雲を地球の着物としました。これは宇宙から見た地球の姿です。宇宙から地球と他の惑星を見比べると、地球と他の惑星の違いは歴然としています。暗黒の宇宙空間にあって、いのちの惑星の地球だけが青い海と白い雲の模様に包まれています。正に地球はいのちの惑星に相応しい美しさを醸し出しています。雲にはいろいろな種類の雲があります。高度や気圧、気温などの気象によっていろいろな種類の雲が発生します。また、雲は雨を降らせ、紫外線などの直射日光を遮り、日照と気温を調整します。産まれたばかりの赤子を優しく包むむつきのように、いのちの世界を優しく包みます。

38:10 わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、
38:11 言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。

子どもの頃、誰もが不思議に思うことがあります。「海の水はなぜこぼれないの?」と。目の前にある水が入ったコップを逆さにすると、コップの中の水は下に落ちてコップから出て行くのに、地球の下にある水は、なぜ、下にドバ~~~っと落ちてこぼれないのかと、私も不思議に思ったことがあります。答えは地球には水を中心に引っ張っている引力という力が働いているからなのですが・・・。神は創造の第二日目に水と水と区別して大空と雲と海を造りました。

創世記1: 6~7
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。

大空の下の水(海)と、大空の上の水(雲)とを区切り、大空の下の水である海に向かって「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と命令しました。だから引力によって海が地球からこぼれることはありません。また、月と太陽の引力によって地球の海には満ち潮と引き潮という現象がありますが、同じように、神が「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と命令されたので、海の水位が一定に保たれ、満ち潮、引き潮によって海が地球から溢れることもありません。
ここから先は物理に照らし合わせてみなさんもちょっと考えて見て下さい。特に天文学の先生方へ、私の解釈はこんな感じなのですが、これで合っているでしょうか?・・・

38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、
38:13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。

地球の自転によって朝と夜がやって来ます。暁(あかつき)とは、夜明け前の太陽が昇り始める前のうっすらと地平線が明るくなって来る時間帯です。暁の光によって太陽が昇って来る方角が特定出来ます。そして太陽が昇って来る位置と高さと沈む位置は毎日少しづつ変わって行き、日本では春分、夏至、秋分、冬至が四季の節目とされ、地球に四季があるのは地球の地軸がおよそ23.4度傾きながら太陽の周りを公転しているからです。地球の自転速度は中心から一番離れている赤道付近(地の果て果て)でおよそ時速1700㎞、公転速度はおよそ時速100000㎞だそうです。不思議ですね。新幹線の六倍もの速度に匹敵する時速1700㎞のスピードで回っている地球の自転速度の上に居ながら私たち人間はブンブン振り回されて遠心力で宇宙の外に飛ばされることがありません。悪者も振り落とされることはありません。なんでも地球の大きさ、重力に対して遠心力がはるかに小さいからだそうです。科学者のみなさんは凄いですね。私だったら「なぜリンゴは木から落ちるかって?そんなの知るわけねえだろう。とにかく落ちるから落ちるんだろう」としか答えることが出来ませんが、ニュートンをはじめ、科学を究める人々は目に見えない力の法則をコツコツと論理的に、数理的に解き明かしていきます。

38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。

「地は刻印を押された粘土のようにかわり」と記されています。粘土とは、水分を含んだ粘りのある土(泥)です。当時は文書や証明を残す方法として、板状にした粘土に文字が刻み込まれた円筒を粘土の表面に押し付けて転がし日干しで乾燥させる原始的な印刷手法が用いられていました。粘土坂はメソポタミアで使われた現代の紙のような役割を果たす情報伝達の媒体です。

【円筒印章】円筒印章(えんとういんしょう、仏: Sceau-cylindre、英: Cylinder seal)は古代メソポタミアで所有者などを示すために使用された印章である。図や文章が書かれており、様々な情報がそこから得られる。最も初期の円筒印章は紀元前36世紀頃の層から発見されたシャファラバードで発見された印影(印章そのものではない)であり、この時代以降、手紙や契約文書の主体を示すために急激にメソポタミア各地へ広まった。初期においては書簡や容器を封じるための紐を粘土で覆い、その粘土(封泥)に円筒印章を押し付けて転がすという方法で用いられた。

円筒印章
出典元
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典
2017年2月21日 (火) 14:08  UTC、URL: http://ja.wikipedia.org
出典元
Wikimedia Commons/File:Cylinder seal battle Louvre AO198111.jpg

38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。

地球の傾きと公転が、日本に四季をもたらします。春は桜が咲き誇り、夏は青葉が豊に生い茂り、秋は紅葉に彩られ、冬は白銀の世界に染めます。それは回る円筒が粘土を変えるように、衣服の模様のように春夏秋冬が色づけられます。
どうでしょう? 天文学の先生方、この解釈で正しいのでしょうか? 私よりも専門知識のある先生の方がより正確な解釈が出来るかもしれません。
私はヨブ記を読んでいて不思議に思うことがあります。たとえば、先にお話ししたようにヨブ記26章7~11は地球が宇宙空間に浮いていて自転しながら太陽の周りを公転している様子を表した記述です。

ヨブ記26:7~11
26:7 神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。
26:8 神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。
26:9 神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、
26:10 水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。
26:11 神がしかると、天の柱は震い、恐れる。

この記述はヨブ自身が語った言葉です。神ではありません。ヨブが目の前に居るシュアハ人ビルダデに語った言葉です。つまり、三千年前の昔に、ヨブはすでに地球が宇宙空間に浮きながら自転していることを知っていたのです。だからヨブの口から「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」という言葉が出て来ました。ヨブはどうやってそれを知ったのでしょうか? 不思議ですね。私が考えるには、おそらく創世記1章を読みながらヨブがその理屈を見つけて悟ったのだと思います。創世記1:14~18の太陽、月、星座が創られる記述と実際に自分が今居る地球からの天文現象を重ね合わせてシュミレーションした結果、地球は自転しながら太陽の周りを公転しているという答えを見つけ出したのでしょう。もちろんそこには神から与えられた知恵があります。ヨブは神を畏れ神の前に潔白で正しく生きた人でした。と同時に知恵のある人でした。当時の科学、物理、天文がどの程度進んでいたかは分りませんが、ヨブ記を読む限り、現代の私たちが思っている以上に科学、物理、天文の解明が進んでいたように思われます。ただ、それが記録や文献として残されなかったのでしょう。ヨブ記26:7~11はヨブの知恵がもたらした言葉です。だから、神はそれに呼応するように

38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。
38:8 海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
38:9 そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。
38:10 わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、
38:11 言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。
38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、
38:13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる

とヨブに仰せられました。神はヨブが語ったヨブ記26:7~11の言葉からヨブは地球が宇宙空間に浮きながら自転して太陽の周りを公転していることを理解していたので、「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。」と問い掛けました。初めてヨブ記を読んだ方は(何回読んだ方でも)神様は何を言っているのかなかなか理解出来ません。一見すると、神様は人間に対して一方的に意味不明な訳の分らないことを言っているように見えますが、そうではありません。荒唐無稽、支離滅裂なことを言っているのではありません。ちゃんとした物理的な「論理」を語っているのです。神が、人間が理解出来ないことを言ったところで、人間が混乱するだけです。神様はちゃんと人間が理解出来ることを言っているのです。もちろんすべてが理解出来るわけではありませんが・・・。
私たちは中世のローマカトリックの時代に誰かが作った「科学と聖書は対立する」という構図の中で聖書を読み研究して来たので、科学の視点で聖書を読むということがなかなか出来ません。だから神の言葉が荒唐無稽、支離滅裂に感じるのです。聖書は神の哲学、宗教が抽象的に書かれている書物と解釈され、「なんだかよく分らないけど、神様がそう仰せられたのだからそうなんだと信じましょう」で終わります。科学、物理は神が創られた世界です。だったら、神の言葉である聖書と科学、物理が対立するはずがありません。科学、物理は聖書の真理を解き明かします。
ヨブの話に戻りますが、考えてみれば、エジプトのピラミッドは今から二千五百年ほど前に造られました。高さ150m、底辺230m、容積235㎥、平均2.5tの石灰岩を約270万~280万個積み上げたとされています。あんな巨大な石の建造物をどうやって、しかも正確に造ったのか、その建築技法や測量技法は近代科学の現代でもいまだにはっきりと解明することが出来ません。だから宇宙人説まで出て来る始末です。また、聖書にはノアの箱舟が出て来ます。神は箱舟の寸法を指定してノアに造るように命じ、ノアはその通りに箱舟を造りました。ノアの箱舟は、長さ133.5m、幅22.2m、高13.3mですから、大雑把に計算すると、排水量38000トンになります。それに対して今から約100年前に造られたタイタニック号の排水量は約46000トンですから、単純計算で、ノアの箱舟はタイタニック号の0.8倍の容積をもった巨大な箱型の木造船になります。つまり、これほど大きな木造の箱舟を造る数学力と建造技術をノアとその家族は持っていたことになります。もちろん聖書を信じない人たちは「そんなのありえね~~~」と言って否定しますが・・・。
現代に生きる私たちは科学で何でも解き明かせると思っています。ですから科学で解き明かすことが出来ない聖書に書かれている「奇跡」を否定します。神の知恵は科学、物理を超えます。科学、物理が知恵ある者によってもたらされたものならば、知恵ある者は科学、物理を超越した存在者でなければなりません。科学、物理を超越した存在者だけが、科学、物理の世界を創ることが出来ます。その神がヨブとノアに知恵を与えたのなら、宇宙の仕組みを知ることも、巨大な箱舟を造ることも可能です。
創世記1:1~2:3の文章と創世記2:4~25の文章は何も矛盾しません。同一の人物が同じ時期に一気に書き上げた文章です。別々の人が別々の時代に書いてそれを編纂した文章ではありません。また重複して書かれた文章でもありません。創世記1章2章は「哲学」が書かれているのではありません。「宗教」が書かれているのではありません。神の「天地創造」が書かれています。何も存在しない世界に神が科学、物理、いのちの世界を創る過程が書かれた文章です。聖書は伝承ではありません。伝承をまとめた書物でもありません。おとぎ話ではありません。人間の空想で書いた神話でも、寓話でもありません。「まんが昔ばなし」の世界ではありません。聖霊によって特定の人物が書いたものが、そのまま残され受け継がれて来た書物です。「生ける神の言葉」です。

2018年06月10日