エデンの園の主権者

日本基督道場
2016年8月27日(土)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright ©2014
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エデンの園の主権者
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「エデンの園における自由意志とは?-2」からの続きです。

現代文明は、ついに、コンピュータによる「人工知能」の領域に入って来ました。最近のニュースでお分かりのように、理論と計算で勝ち負けを決めるチェスや将棋や囲碁は、最早、コンピュータが人間の頭脳を超えました。まあ、いくら人間の頭脳が優秀でも、膨大なデータを瞬時に処理するコンピュータにはかないません。人工知能の発展は、文字通り、人間の思考形態をベースにして、いかに最適なアルゴリズムが組めるかにかかっています。「改訂版」で書いたように、人間が物を作る工程は、神の天地創造の工程を踏襲します。
面白いですね。神は人を御自身のかたちとして創造されたように、人間も、自分たちのかたちとして、人間と同じ思考形態をベースにした人工知能によるロボットを造ります。人間は神によって創られました。だから人間は、本能的に、神と同じことをします。神の真似をします。

さて、今回から「エデンの園」について具体的に、詳細に、お話しさせていただきます。

エデンの園は、悪と罪の無い世界です。その悪と罪の無い世界に、悪と罪の無いアダムとエバが置かれました。しかしアダムとエバが蛇(サタン)に唆されて悪を犯したので、神は二人を悪と罪の無いエデンの園から追い出されて、その追い出された場所が、私たち人類が存在している悪と罪に支配される世界です。改訂版の繰り返しになりますが、ヨブ記に神とサタンの会話が出て来ます。

ヨブ記1:6~22
1:6 ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
1:7 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
1:8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
1:9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
1:12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。

1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

中略

ヨブ記2:5~10
2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
2:6 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

ヨブ記1:10で、サタンは神に「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」と言っています。ここでサタンが言っている「垣(かき・かきね)」とは、神の「霊」です。サタンは神の霊を超えることが出来ません。だから、神の霊に守られているヨブと、ヨブの家族と、ヨブの家畜のすべてに手を出すことが出来ません。ところが神がヨブをサタンの手に渡されたので、ヨブの周りに次々と不幸が起こります。ヨブと、ヨブの家と、ヨブのすべての持ち物と、その回りに巡らせていた垣が取り払われてしまいました。そしたら途端に強盗殺人に遭い、使用人である若い者と家畜を失いました。次に神の火が天から下り(落雷?)羊と若い者たちを失い、さらに大風(竜巻?)によって家が崩れ七人の息子と三人の娘を失いました。そして、今度は悪性の腫物で自分が苦しむことになり、最後は妻にも見捨てられました。ヨブ記から分かることは、
・強盗殺人
・自然災害
・病
・死
これら人間の不幸の原因は、サタンに在る、ということです。よく「神が居るなら、なぜ、戦争があるの?なぜ、病気になるの?なぜ、不幸があるの?」と言われますが、神が不幸の原因を作っているのではありません。神が人間を不幸に陥れているのではありません。戦争、自然災害、病、死の原因は、サタンに在ります。サタンは常に自分の正体を隠します。人間に対して自分の存在を隠します。だから、人間にサタンの存在が分かりません。そして、人は不幸があると、「神が居るなら、なぜ、こんな不幸なことが起こるの?」と、神に反発します。
ヨブ記の最後に記されているように、神はサタンの手から再びヨブを御自身の手に戻してヨブを祝福されました。そしたら今度はヨブの病が治り、再び子どもが増えて、家畜も増えて、以前の何倍もの祝福と繁栄を受け、「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」と書いてあります。
ヨブの生涯のように、サタンに呪われた世界は不幸と病と死の世界です。神に祝福された世界はいのちと繁栄の世界です。
よく「神は愛なのに、なぜ、旧約の歴史は戦(いくさ)の歴史なの?神は他の民族を皆殺しにして、おかしいじゃない」と疑問を持つ人たちがいます。これについては、後日、きちんとお話します。クリスチャンですら、世の人々にこの部分を突っ込まれるとなんて説明して良いのか分りません。旧約の歴史における神の概念が分らないのです。

罪の下に在る私たち人類は、サタンに支配される世界に居ます。罪の下に在る世界とは、霊的にエデンの園から外れた世界です。人の魂はエデンの園から外れたサタンに支配される罪の世界に居ます。だから、戦争、人災、自然災害、病、死と、人は苦しみと悲しみの不幸に支配される人生を生きることになります。不幸のあるところには、必ずサタンが居ます。
ここで「悪」と「罪」について、お話しさせていただきます。

――――――――「悪」と「罪」――――――――

一般に、私たちは「悪(あく)」という言葉と「罪(つみ)」という言葉を混同して使っています。私も混同して使っています。罪=悪、犯罪=悪、という認識ですから、悪も罪も同じようなものと思っています。しかし、聖書が定義している悪と罪は本質的に違います。たとえば、アダムとエバが、神が禁じた善悪の知識の木からその実を取って食べたことに関して、私たちは「アダムとエバは罪を犯した」と言います。しかし、厳密には、「アダムとエバは罪を犯した」のではなく「アダムとエバは悪を犯した」のです。そしてアダムとエバは自分たちが犯した「悪」によってエデンの園から追い出され、その追い出された場所が「罪」です。「罪の世界」です。「悪」は犯した行為そのものを言い、「罪」は悪が芽生える「土壌」のことを言います。ですから人が悪いことを行うのは、人の魂がエデンの園の外に在るからです。
悪と罪が混同して使われているのは、日本語訳聖書の翻訳に問題があります。

日本語訳聖書の「罪(つみ)」とは、本来、ギリシャ語の「ハマルティア」という言葉で「的外れ」という意味です。ここで言う「的(まと)」とは神の国、神の世界、神の領域です。すなわち「エデンの園」です。アダムとエバの悪によって人類がエデンの園から追い出されたので、人間は、体は物理的な地上の世界に居ますが、私たちの魂はエデンの園から外れた「罪の世界」に居ます。エデンの園の主権者は神です。それに対して罪の世界の主権者はサタンです。

神が人類の祖であるアダムを創られて、そのアダムにいのち息を吹き込まれた時、人は生きた者となりました。そして神は生きた者となったアダムをエデンの園に置かれました。アダムがエデンの園に置かれたのは、アダムと神が交わるためです。神の言葉とアダムの言葉が交わるためです。神の霊と人の霊が交わるためです。神の思考と人間の思考が交わるためです。神の価値観、感性と人間の価値観、感性が交わるためです。
エデンの園から外れた罪の世界は、サタンと人間が交わる世界です。サタンの霊と人の霊が交わる世界です。サタンの思考と人間の思考が交わる世界です。サタンの価値観、感性と人間の価値観、感性が交わる世界です。エデンの園から外れた罪の世界の主権者はサタンです。そのことがマタイの福音書4章に記されています。

イエス・キリストが水のバプテスマを受けて御霊がイエスに下った後に、イエスは御霊に導かれて荒野に上って行かれ、そこで悪魔の試みを受けました。御霊は、なぜ、イエスを悪魔のもとに連れて行ったのでしょうか?それは、「悪魔(サタン)が罪の世界の主権者だから」です。そして、罪の世界の主権者である悪魔は荒野でイエスを試みました。

マタイの福音書4:1~11
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

まず、最初に言えることは、これは、イエス・キリストと悪魔(サタン)との「会話」です。
みなさんの中に悪魔と会話をしたことがある方は居られるでしょうか?漠然とした体験ではありません。「多分、あれは悪魔の囁きだと思う」というのではありません。「私は悪魔の誘惑に遭った」という方が居られたら、なぜ、それが悪魔の誘惑だと言えるのか、誰でも理解出来るように聖書から証明しなければ意味がありません。「俺、昨日の夕ご飯の前に、腹が減って我慢出来ずに目の前に置かれたコロッケをつまみ食いしようと箸を持った手が動いたが、その瞬間、これは悪魔の誘惑だ!と思って、つまみ食いを止めた。あれは確かに悪魔の誘惑で、危うく罪を犯すところだった。」というような次元の話ではありません。悪魔はネットで検索すると出て来る絵のような存在ではありません。アニメの世界の話ではありません。クリスチャンですら、悪魔の正体を知っている人がほんとうにいるのか、疑問です。悪魔は漠然とした存在ではありません。目に見えません。耳に聞こえません。触ることも出来ません。しかし、今、あなたの目の前にも、確実に悪魔は居ます。

イスエ・キリストは悪魔と会話をしました。天から悪魔の声を聞いたのではありません。目の前に実在する悪魔と顔と顔を合わせて会話をしたのです。ですから、キリストは悪魔の正体を知っています。その悪魔が、キリストに話し掛けました。

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

悪魔の言葉に対してキリストは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と言って、悪魔の言葉に従うことを拒否されました。
一般に、これは、イエス・キリストが断食を終えて空腹を感じ何か食べたいと思っていた時に、悪魔が近づいて来てキリストに「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言ってイエスがパンを食べたいという欲望を悪魔が甘い言葉で刺激してイエスを悪魔に従わせようとした。と解釈されていますが、聖書を厳密に読むとそうではありません。

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

4章3節の言葉をよく読んで見て下さい。悪魔は最後に「命じなさい」と言っています。「命じなさい」とは「命令しなさい」という意味です。つまり、悪魔は神の子キリストに対して「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命令しなさい。」と言っているのです。普通なら「あなたが神の子なら、この石をパンに変えなさい。」と言うでしょう。しかし、ここで悪魔は「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言っています。

・この石をパンに変えなさい。
・この石がパンになるように、命じなさい。

この違い、分かるでしょうか?
悪魔は「この石をパンに変えなさい」と言っているのではありません。キリストに対して「あなたが神の子なら奇跡を起こすことが出来る自分の能力によって石をパンに変えて自分の空腹を満たしなさい」と言っているのではありません。「この石がパンになるように、命じなさい。」と言っているのです。「パンを食べなさい」と言っているのではありません。「パンになるように命じなさい」と言っているのです。「命じなさい」という言葉が入っているか、いないかで、文章の意味がまったく違って来ます。
一般に解釈されているように、悪魔が自分たちの命令に従わせるために単にキリストが神の子としての能力による石をパンに変える奇跡によって自らの空腹を満たすという意図でキリストを惑わしたのなら、「この石をパンに変えなさい。」
と言うはずです。しかしここで悪魔は「この石がパンになるように、命じなさい。」と言っています。「命じなさい」とは「命令しなさい」という意味です。誰に命令するのでしょうか?その答えはマタイの福音書4章11節に記されている「御使いたち」です。
悪魔はキリストに「この石がパンになるように、(御使いたちに)命じなさい。」と言っているのです。文章には御使いという言葉は入っていませんが、悪魔は御使いたちの存在を前提にして「この石がパンになるように、命じなさい。」と言っているのです。ところがこの時点ではまだ御使いたちはキリストの側に居ません。悪魔による三つの試みにすべて打ち勝って悪魔がイエスを離れて行った後に、4章11節に記されているように御使いたちが近づいて来てキリストに仕えました。
悪魔(サタン)は、本は、キリストに仕える御使いでした。神に謀反する前までは、神の子キリストに仕える御使いでした。その御使いの一部の軍勢が謀反を起こして神と敵対する関係になりました。ですから悪魔は天において神の子キリストがどのような方なのかを知っています。天の玉座に居られて、周りで御使いたちが家来のごとく仕えます。天では主権者である神の子キリストの命令ですべての御使いたちが動き、キリストの命令を遂行します。それが神の国です。私たち人間はキリストが行うしるしや奇跡はキリスト自身が誰の手も借りずに直接行っていると思っていますが、そうではありません。キリストの言葉によって御使いがしるしや奇跡を行っているのです。御使いたちは神から与えられたしるしや奇跡を行う能力を以ってキリストの命令によって実際にしるしや奇跡を行います。天の使いは神の応援団ではありません。神の手となり足となって神の命令を遂行する者たちです。天なる場所から地なる場所に来て神の指図通りに事を行われる者たちです。御使いたちは文字通り神の命令で動き回る神の使い走りで、ただそのためにだけ存在しています。だから「御使い」なのです。御使いたちに自分勝手な主張をする権限は与えられていません。ひたすら神の言葉に従うだけです。だから、御使いたちには強大な権限と能力が神から与えられています。事は

キリストの言葉(命令)→遂行する御使いたち→しるしと奇跡の現実化

の順番で行われて行きます。
ただし、御使いは絶対黒衣(黒子)です。百パーセントキリストの裏方です。神の許可がなければ表に出ることは絶対ありません。
御使いは神の命令によってのみ活動します。いちいち「この奇跡は御使いの俺がやったんだよ」なんて表に出て来て言いません。神から与えられた権限と能力を以ってひたすら神の命令に従うだけです。ヨハネの黙示録を読むと神の世界と人間の世界の架け橋の役割を御使いたちが担っていることが理解出来ます。神の命令によって御使いたちが地上の世界で事を行われる様子が記されています。

イエス・キリストはルカの福音書7章で百人隊長の信仰を称賛されました。
軍隊では、兵士にとって上官の命令は絶対です。上官の命令に兵士が口を挟む余地はありません。上官が前に進めと命令したら敵が前方から攻撃して来ても自分は前に進まなければなりません。たとえ銃撃されて死ぬことが分かっていても。そうでなければ軍隊の統制が取れません。軍隊の体を成し得ません。だから、キリストはルカの福音書7章で百人隊長の信仰を称賛されました。

ルカの福音書第7:1~10
7:1イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
7:2ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
7:3百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
7:4イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
7:6イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7:7ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 7:9これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
7:10使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

キリストが百人隊長の信仰を称賛されたのは、神の国は軍隊と同じように「権威」によってすべてが統率されていることを、百人隊長が自分も軍隊に身を置く者として理解していたからです。権威とは言葉です。キリストが発する言葉の中に権力(命令を実行する力)が包皮されています。そしてキリストの命令を実行するのは神からすべての力を与えられている御使いたちです。だから百人隊長はイエスがわざわざ病で苦しんでいるしもべのもとに来られなくても、そこで言葉を発してもらえれば、キリストの言葉によってしもべが癒されると信じていました。キリストの言葉としもべの癒しの間に御使いの働きがあります。実際に百人隊長が信じていた通り、その場でしもべの病は癒されました。
従業員が何千人、何万人規模の大企業では、社長がトップに居て、社長の命令が取締役、部長、次長、課長、係長、社員へと下っていき、業務が遂行されます。社長が今日は現場の人数が足りないからといって「よし、今日は俺が変わりに梱包の仕事をやってやるよ」なんてことはありません。
政治の世界では総理大臣から任命された閣僚に指示が出されて、さらに大臣から省庁へ、省庁から自治体へ、自治体から私たち国民へと命令が下って来ます。総理大臣自らが全国の家庭を回って「消費税を10パーセントに上げますのでよろしくお願いします」なんて頭を下げることはありません。
神の国の主権者で天の玉座に居られて御使いたちに囲まれていたキリストが、今は「地」と呼ばれる人間の世界の荒野を一人で歩いています。悪魔にすればこれは大事件です。「なんで、神の子が、人間の世界の荒野を一人で歩いているのだ?」「神の子が、なんの目的で俺たちの世界に来たんだ?」ということになります。
天ではキリストは御使いたちに守られていたから悪魔はキリストに手を出すことが出来ませんでした。しかし今は悪魔が主権を握っている罪の世界で、キリストはたった一人です。周りに御使いたちは居ません。そこで、悪魔はキリストの元に来て言いました。

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

先ほど言った通り、悪魔が言った「命じなさい」とは「この石がパンになるように、(御使いたちに)命じなさい。」という意味です。「この石を自らの能力によってパンに変えて自分の空腹を満たしなさい」という意味ではありません。だから悪魔は次の試みで「イエスを神殿の頂きから身を投げてみよ」と言った後に「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」と言いました。悪魔はここでイエスに対して「聖書にも御使いが来て神の子を助けると書いてあるのだから、安心して飛び降りてみなさい」と言いました。これは、いわゆる「誘導尋問」と同じで、悪魔は一生懸命キリストを罪に陥れようと誘っています。悪魔は単なる思いつきで詩篇91篇の記述を引用しているのではありません。悪魔はあくまでも御使いにこだわります。悪魔はキリストの神の子としての面子、プライドを刺激して挑発しているのです。「お前が神の子なら、御使いに命じてこの石をパンに変えることが出来るだろう。神殿から飛び降りても御使いたちが助けに来るだろう。神の子だったらそれを証明してみせろよ。」と、挑発しているのです。
イエス・キリストがこの世に来られた目的は人類を罪から救うためです。この世の主権者である悪魔と戦って悪魔をこの世から追い出すためではありません。ここで悪魔の挑発に乗って「よし!そんなに言うなら神の子としての俺の力を見せてやる。御使いどもよ!この石をパンに変えよ!御使いどもよ、今から神殿の頂きから飛び降りるぞ。分かっているだろうな。絶対ミスするなよ!シュワッチ!無事に着地。どうだ、悪魔よ、俺の神の子であることが分かっただろう。はははは」と自慢したら、キリストが人間としてこの世に来られた目的が失われてしまいます。神の御子イエス・キリストは人間に対して上から目線で「どうだ!俺の奇跡を見たか!人間ども。俺が神の子だぞ。この罪人ども、土下座して俺を神の子として崇めろや。そうしたらお前らを救ってやるぞ」と言って自分の権威と権力を笠に着て人間を救いに来たのではありません。馬小屋で生まれ、人々から「ナザレから何の良いものが出るだろう。」とバカにされた地方のナザレで大工の息子として30歳まで過ごし、最後はこの世の権力、罪人人間の曲がった権力によって殺されました。キリストは最後の最後まで人間として歩まれました。人間の世界の一番低い道を歩まれました。私たち人間の生きる苦しみ、生きる悲しみ、生きる悲哀すべてを人間として体感したからこそ、私たちの人間の苦しみと悲しみすべてを受け取ることが出来ます。
イエス・キリストが悪魔の試みに対して申命記8章3節の記述を引用されたのは、イスラエル民族の歩みを自らに投影することによって自分は一人の人間としてこの世に来られたことを証しするためでした。
イエス・キリストは天に居られた時は神の子として「仕えられる立場」にありました。神の子として「崇められる立場」にありました。しかし地上の世界には「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、」(マタイの福音書20:28)と言って自分が仕えるために来られました。だから三度目の試みで悪魔に山の頂上からこの世のすべての国々と栄華を見せられて私(悪魔)を拝むならこの全部をあなたに差し上げようと誘惑されても「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」と言って、自分は神の子として崇められるためにこの世に来たのではなく、また人々に仕えられるために来たのでもなく、イスラエル民族と同様に一人の人間として父なる神に仕えるために、罪人人間に仕えるために来たことを証しされました。悪魔が言うこの世のすべての国々とその栄華を手に入れるということは、この世のすべての人々に崇められる、ということです。この世の人々の称賛を受ける、ということです。
私たち人間は悪魔の言葉に乗ってこの世のすべての国々とその栄華を手に入れて全世界の人々にまことの神に変わって自分を神として崇めて欲しいのです。周りの人々から自分が称賛されて仕えられたいのです。
イエス・キリストはこの世の主権者である悪魔と対峙することによって、御自身がこの世に来られた目的を悪魔に明確に示されました。すなわち、御自身の神の御子としての権威と能力によってこの世で悪魔と戦うためではなく、御自身の死によって人類を罪から救うということを。だから悪魔はキリストのもとから立ち去り、変わって御使いたちがキリストのもとに来て仕えました。

罪の世界の主権者はサタン(悪魔)です。人間はサタンの価値観、サタンの感性に感化されているので、「人はパンだけで生きる」と思っています。「パンだけで生きる」と信じています。だから、人間にとってお金がすべてです。

悪魔がイエスに「この石がパンになるように、命じなさい。」と言った言葉には、特別な意味があります。悪魔はキリストが本当に神の子ならば、当然、自分の命令に従って石をパンに変える物理的な奇跡を行うことを期待しました。しかし、ただそれだけではありません。悪魔も石をパンに変えることが出来ます。現代でも石をパンに変えます。現実に、私たち人間は、悪魔が石をパンに変えたパンで生活しています。悪魔が石をパンに変えた石とは、「お金」です。貨幣です。紙幣です。

人類の初めの頃は物と物による「物々交換」でした。しかし、人口が増えて物々交換では不便なので、そこで、「お金」が登場しました。お金は悪魔が人間に与えた知恵です。
悪魔は石をパンに変えます。アルミニウムをパンに変えます。銅をパンに変えます。木をパンに変えます。「お金」という形で。
古の時代は石や貝殻をお金として使っていました。そして現代ではアルミニウムや銅、パルプ(木材)をお金として使っています。
お金について、広辞苑より一部を抜粋して次のように書いてあります。

貨幣
① 商品交換の媒介物で、価値の尺度、支払手段などとして社会に流通するもの。本来はそれ自身が交換されるものと等価な商品で、昔は貝殻・獣皮・宝石・布・農産物など、のち貨幣商品として最も適した金・銀のような貴金属が漸次用いられるようになった。

ただのアルミニウムで出来ている1円硬貨は、そこに1円硬貨というアルミニウムに物理的な商品価値が伴っているので、1円としての価値があります。同じようにただの銅で出来ている10円硬貨も、10円という丸い形をしたただの玉に、10円分の価値の尺度が伴っているので、10円の価値があります。パルプで出来た千円札も、五千円札も、一万円札も、同じです。
神が主権者であられるエデンの園にはお金など必要ありません。存在しません。すべての必要は神が用意され、満たします。エデンの園の主権者であられる神は無償で、すべてをタダで与えます。罪の世界の主権者であるサタンは有償で、お金を払わなければ与えてくれません。だからそのお金を稼ぐために、私たちは日々汗を流します。私たち人間は、お金の奴隷です。お金が主人で、人間はお金に仕えます。現実に、お金が無ければ生きていけません。人の命を保障するのはお金です。
イエス・キリストはある時、次のように言われました。

マタイの福音書6:24
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

人間の世界は富に仕えます。お金が主人で、私たちはお金の奴隷です。お金は悪魔が石をパンに変えた産物です。ですから、富に仕え、お金に仕える人間は悪魔の奴隷なのです。
悪魔は石をパンに変えて人間を束縛し、キリストに対して
自分たちが人間の世界の主権者であることを誇りました。
悪魔はイエス・キリストに「人間の生殺与奪は俺たちが握っている」と自慢しているのです。

金、かね、カネ、KANE。「お金」って、不思議な響きですね。はっきり言って私もお金が欲しいです。私もお金大好き人間です。でも、ザアカイのように、私は大好きなお金よりも、さらに価値があるものを見つけました。それが、イエス・キリストが与える「永遠のいのち」です。

次に、悪魔はイエス・キリストを神殿に連れて行き、神殿の頂に立たせました。

マタイの福音書4:5~7
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

神殿は、神と接見する場所です。モーセの時代の幕屋から始まって、ソロモンの神殿、そしてイエスの時代のヘロデの神殿へとつながります。神殿は一年に一度だけ、大祭司が罪の贖いのための生贄の血を捧げるために至聖所に入ることが出来る神聖な場所です。その神聖な場所に、悪魔が土足で入って来ました。これは、すでに、キリストの時代にはもうイスラエル民族が堕落して、彼らの信仰がすっかり形骸していることを表しています。
ユダヤ人の過越の祭りが近づきイエス・キリストがエルサレムに上られて宮に入られた時、宮の中で商売が行われているのを見てイエスは怒りました。

ヨハネの福音書2:13~16
2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

イエスが「父の家」とされる神殿で人が商売をしている姿を見て怒ったように、イスラエル民族にとって罪の贖いのための神聖な信仰の場所が商売の場所と変わってしまいました。神は信仰の在るところに居ます。形だけを作っても信仰の無いところに神は居ません。神が居なくなった神殿を、悪魔は自分たちの家としました。
イスラエルの神殿の頂きには、神に変わってすでに悪魔が君臨していました。だから悪魔はイエスを神殿の頂きに立たせ、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」と言いました。「あなたが神の子なら、」というのは、「あなたが神の子である証拠を見せなさい」という意味です。そして、今度は、悪魔は聖書の言葉を持ち出して来ました。

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

悪魔の言葉に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と聖書の言葉を引用して切り返しました。

悪魔は聖書を人間よりはるかによく知っています。

聖書は神の言葉です。ですから無条件で従わなければなりません。悪魔はその聖書の言葉を引用してイエスを自分たちに従わせようとしました。悪魔は最初の試みで罪の世界の主権者である自分の命令にイエスが従わなかったので、今度は、イエスの父である神の言葉を持って来てイエスを従わせようとしました。悪魔は「イエスよ、あなたが身を投げ出してもあなたの父が御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされるのだから、思い切って身を投げてみなさい。聖書にもそう書いてあるではありませんか」と言っています。これと同じことを、人間もやっています。たとえば、異端とされる統一教会のように、聖書の言葉を片っ端から引用して原理講論なるものを作り上げ、信者を増やして行きます。異端だけではありません。ある教会はプロテスタントで純福音と称しながら、「みなさん、たくさん献金すれば、たくさん神様の祝福がもらえます!」と説教します。たくさん献金すればたくさん神様の祝福がもらえるなんて聖書のどこにも書いてありませんよ。お金で神の祝福が買えるのですか?でも、その教会はお金が欲しいらしく、そのように説教しています。これでは世の宗教と変わりません。そもそも宗教は霊感商法によるお金で成り立っています。ですから「宗教=お金」です。キリスト教会も含めて現代の宗教はお金がなければ成り立ちません。「信じれば儲かりまっせ」の世界です。

悪魔はキリスト教会の上にも君臨します。聖書の上に乗っかて、人間を自分たちに従わせようとします。

神殿は人の罪を贖うための神聖な場所でした。ところがイスラエル民族は堕落して商売の場所としました。同じように、現代の教会は神を信じる者が集う場所のはずが、形はキリスト教会を装っていますが、ある教会はお金を集める場所に変わってしまいました。

最後に悪魔はイエスを高い山の頂に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せました。

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」

「この世のすべての国々とその栄華」とは「政治」です。「政治の頂点」です。
国家は政治によって成り立っています。私たち日本人一人々々はみんな考え方も価値観も違います。みんなバラバラです。しかし政治によって法律に従わせ、秩序を作り、日本という国が成り立っています。
イエス・キリストは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)と言われました。イエス・キリストの価値は、死を超えた永遠のいのちにあります。悪魔の価値は、限られたこの世の栄華と繁栄を治めることにあります。私たち人間は、エデンの園から外れた罪の世界に生まれてきたので、私たちの魂は生まれつき罪の世界の主権者であるサタンの価値観と感性に感化されています。ですから、この世のすべてを治めることが、人生で一番価値があると思っています。この世の頂点に立つことが、人生の最大の喜びとします。どの国の首相も、大統領も、国家主席も、全世界を自分の手の中に治めようと戦います。世界の覇権を手に入れようと経済と軍事で戦います。政治だけではありません。先週まで世界中がオリンピックで盛り上がっていましたが、スポーツの世界でも、人は世界の頂点に立つことを目指します。

みなさん、世界№1って、どんな気分なんでしょうかね?。チョーきもちいいんでしょうね。だって世界の一番上に自分が立っているのですから。表彰台の一番上に乗った気分、一度でいいから味わってみたいと思いませんか?みなさん。まあ、永遠に私たち凡人には関係ないことですが・・・。

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』」

政治をはじめ、人間の世界はすべて一人の人を頂点として、その下に仕える人が居て、さらにピラミッドの形のように、山のように、権力の裾野が広がっていきます。政治の世界も、軍隊の世界も、どの世界、分野も、すべて一人の人を頂点とした山の形のような権力社会、権力構造の中で私たちは存在して、山の頂点を目指します。
人間の世界はピラミッドの形のように、山の形のように、一人の人間を頂点とした権力構造によって成り立っています。一人の人間を頂点とした権力構造社会は、悪魔が人間の世界に持ち込んだ価値観です。私たち人間は山の形のような権力構造社会の頂点に立つことが人生で一番価値があると思っています。だから小さいうちから猛勉強して頂点を目指します。
第二次世界大戦では、ドイツはヒトラーが国家の頂点(山の頂)に立ったので、たった一人の人間によって国家がコントロールされて何百万ものユダヤ人が殺されていきました。
ナチスの本質はヒトラーではなく、たった一人の人間によってファシズムという霊的な空気が作られて、その空気がやがて風となり、糸が切れた凧が風に流さていくように国民がファシズムの風に流されていくことにあります。一人の人間を頂点とした、誰も逆らえない権力構造が出来上がります。そしてイエスを裏切ったユダの思考の世界にサタンが入ったように(マタイの福音書22:3)、ヒトラーの思考の世界に悪魔が入って来てあのような人類史上の残虐な行為を行いました。
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて言いました。

「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

この世の国々と栄華はすべて悪魔の手の中にあります。だから、悪魔はイエスに「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言いました。悪魔はイエスだけではなく私たち人間にも「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言います。常に語りかけます。だから人は悪魔の視点から見せられたこの世の国々と栄華に目が眩んで世界の頂点に立つために争い、必要とあらば戦争もします。ホロコーストもします。核戦争もします。世界の頂点に立つためなら何でも有りの世界に突入して行きます。

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

これは、悪魔が人が生きていくために必要なパン、すなわち経済を支配していることを表しています。

悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」

これは、世界の宗教(偶像)の頂点に悪魔が君臨していることを表しています。

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

これは、世界の政治の頂点に悪魔が君臨していることを表しています。

経済・宗教・政治、この三つは人間社会を構成するための基本的な要素です。この三つの要素の頂点に、サタンが君臨しています。サタンは「俺に従えばこの世界のすべてをお前に差し上げよう」とイエスを誘惑したのです。しかしイエス・キリストは本当の価値を知っていました。永遠の価値を知っていました。

マタイの福音書16:26
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

イエス・キリストは人類にとっての本当の価値を知っていました。目先の全世界よりもまことのいのちの方がはるかに人間にとって価値があることを知っていました。だから、父なる神の意を受けて、人類がエデンの園で食べ損ねたいのちの木の実を再び人類に与えるために、この世に来られました。
この世の政治家たちは全世界を自分の手に入れるのに夢中です。政治家にとって生きる目的とは世界の覇権を制することにあります。世界の頂点に立つことに価値を見いだします。だから、争います。必要とあらば、嘘もつくし、国民を踏み台にして、戦争もします。しかし、最後は、その責任を取ることになります。自分が死んだ後に、神の裁きが待っています。
ヒトラーは誰が裁くのでしょうか?何百万ものユダヤ人を殺した人物が、のうのうと裁かれずにいられるのでしょうか?神は公正な方です。彼は神の裁きによって「永遠の刑罰」を受けることになります。

人間の世界の経済は人間が支配しているようで、実は、人間が支配しているのではありません。世界経済の頂点に、悪魔が君臨しています。
人間の世界の宗教は人間が教祖でありながら、実は、人間が宗教を支配しているのではありません。世界の宗教の頂点に、悪魔が君臨しています。
人間の世界の政治は人間が動かしているようで、実は、人間が動かしているのではありません。世界の政治の頂点に、悪魔が君臨しています。
経済・宗教・政治、この三つは人間社会を構成するための基本的な要素です。悪魔はこの三つの要素の頂点に君臨します。

人類歴史を通して聖書が啓示することは、「おまえたち人間は誰を主権者とするのだ?俺(神)か?それとも敵(サタン)か?」ということです。サタン(悪魔)が神に対して自分たちの主権を主張したように、サタンの価値観と感性に感化された人間も、神に対して自分たちの主権を主張し、さらに人間同士で世界の覇権を争い、戦争をします。

イスラエル民族は400年もの期間エジプトの奴隷となり、奴隷としての苦役を味わいました。民族と民族、国と国が戦えば、勝った民族、国が主権民族、国家となり、負けた方は奴隷民族、国家となります。それは現代でも変わりません。そして、神はエジプトで苦しんでいるイスラエル民族に介入して、イスラエル民族をエジプトから解放しました。神はイスラエルをエジプトから解放することによって、御自身がイスラエル民族の主権者であることを示しました。神は「あなた方が私の言葉に従えば、私を頂点としたあなた方の主権国家を作り、守ろう」と言っているのです。エデンの園は神が主権の世界です。しかし人の悪によってエデンの園から追い出された人間は、罪の世界の主権者であるサタンの価値観と感性で人間同士が主権を争うようになりました。旧約時代におけるイスラエルの歴史の根底に流れているものは、「主権の争い」です。旧約聖書を読むとお分かりのように、イスラエルの歴史は戦の歴史です。絶えず、外的には周りの国との戦いで、内的には誰を王とするかの戦いです。イスラエルという国がヤハウェの神を主権とするのか、人が作った偶像の神を主権とするのかの、戦いです。
神はイスラエルというモデル、雛型によって「お前たちの主権者は誰なんだ?」と人類に問いかけています。「俺に従えば俺がお前たちを守り、お前たちの国に平和と繁栄をもたらそう」と語っているのです。神はエデンの園から追い出された人間に、イエス・キリストの血による贖いにより再び御自身が人間の主権者となり、永遠のいのちを与えるという約束をされました。それが神の救いです。

次回に続く

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会」から引用しています。
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2016年08月27日