善悪の知識の木ー1(神が定義する善と悪)

日本基督道場
2016年10月24日(月)
発行元 日本基督道場 徳恵禎信 Copyright ©2014
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善悪の知識の木―1(神が定義する善と悪)
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アダムとエバがエデンの園から追い出された以降、人類は罪の世界で生きるようになり、私たち人間の魂には悪の種、悪の要素、悪の因子がまとわり付いています。だから、私たちの周りには悪が横行します。

エデンの園は罪と悪が無い世界です。罪と悪に至る要素や因子など皆無の世界です。その罪と悪の無い世界に、罪と悪が無いアダムとエバが置かれました。ですから、蛇(サタン)がちょっかいを出さなければ、人が悪を犯すことはありません。あり得ないのです。
罪の下に在る私たちは、まず、「罪ありき、悪ありき」でエデンの園を理解しようとします。罪の世界に生まれ、悪が横行する日常で生活しながら、私たちも過去に大なり小なり微小なり悪を犯して来ました。その私たちの感覚でエデンの園を解釈して、自分の力で、自分で頑張って、自分の自制心で自分の内から湧いて来る欲望という罪を抑えつけて罪に打ち勝つことが、信仰だと思っています。だから、「人間テスト説」なるものが出て来ます。エバは蛇に唆されて神が禁じた善悪の知識の木の実を食べたいと思う欲望を抑えることが出来ずに、欲望に負けて食べちゃった。と解釈されます。
(後で「欲求」と「欲望」の違いについてお話しますが、ここではとりあえず欲求も含めて欲望とさせていただきます。)
ですから「欲望」というと、悪いイメージがあります。しかし、そうではありません。お腹が空けば当然食べたいという欲望が湧いて来ます。年頃になれば彼氏、彼女が欲しいという欲望が湧いて来ます。「幸せになりたい」「世界が平和であって欲しい」これも立派な欲望です。欲望は、人間が生きるための活力、原点です。
私たちは 罪=欲望 という図式で考えます。しかし人間は、元々、エデンの園で、神が「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言われたように、欲望で生きるように創られています。「思いのまま」とは「自分が食べたいという欲のままに」という意味です。ですから、人は生まれつき欲望のままに生きるように創られ、その欲望に応えるために、神はエデンの園に見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせて、アダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言われました。
男女間における性欲も、創世記1:27で人を男と女に創られて、その男と女に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられ、さらに「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と仰せられたので、いのちの繁栄という神が人に与えた目的のために男と女が愛し合い、一つとなって子どもが出来て、地は人類で満ちて行きます。欲望というと悪いイメージがありますが、そうではありません。人の欲望に応えるために、神はエデンの園に見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせて、アダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言われました。本来、人間の欲求、欲望は、神が人間に与えたものであり、その欲求、欲望に応えるために、神はエデンの園に見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせて、人に与えました。しかし、同時に、神は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われましたから、善悪の知識の木は神が人間に与えた欲望の対象外ということになります。

聖書によると、私たち人間の始まりであるアダムとエバが、神が禁じた善悪の知識の木の実を蛇に唆されて食べてしまったので、本来、永遠に生きるはずだった人間が死ぬようになり、苦しみながら生きていかなければならなくなりました。では、「善悪の知識の木」とは何でしょうか?善悪の知識の木の「善悪(ぜんあく)」とは何でしょうか?。

困った人を助けることは良いことです。善悪の善です。人の物を盗むことは悪いことです。善悪の悪です。では、人を殺すことは悪いことでしょうか?多分、みなさん「人を殺すことは悪いことです。」と言うでしょう。ですから人を殺すことは善悪の悪です。では、当然、戦争で人を殺すことも悪いことですよね?と言うと、ある方は「いや、ちょっと待って。もちろん人を殺すことは悪いことだけど、戦争で人を殺すことは、自分の国、民族を守るためには仕方がないことだよ。だって相手国が攻めてきたら自分たちが殺されるのだから、正当防衛のためには仕方のないことだよ」と言うでしょう。
人を殺すことは悪です。究極の悪です。つい最近、日本では19人もの人が亡くなった福祉施設での殺傷事件が起こり、メディアは大騒ぎしました。私も「一夜で19人も殺したって、ほんとかよ」と思いました。なぜ、メディアは大騒ぎするのでしょうか?それは、人を殺すことが悪いことだからです。にもかかわらず、いざ戦争となると、その悪が許されます。そうです。時と場合によって人の善悪は変わります。
究極の悪とされる人殺しも、国を守るためには正義になります。民族を守るためには正当になります。これが、私たち人間の世界の「善悪の基準」です。人間の世界に不変的な善悪の基準はありません。人間の善悪の基準はその時の国家を治める権力の都合によってコロコロ変わります。国家という権力によって善悪の基準が決められて行きます。ですからその国や民族の政治、宗教、文化、価値観によってその国の法律が作られ、法律によって善悪が作られて行きます。海外に行かれた方なら分かるでしょうが、法律的に日本では許されることが、その国では許されないことがあります。逆に、法律的に日本では許されないことが、その国では許されることもあります。

さて、では、神は何を基準に、善と悪を区別しているのでしょうか?何を以って、神は御自身の善と悪を区別しているのでしょうか?。

聖書は神の言葉です。その神の言葉の中に、神の善と悪の基準が書かれています。神の天地創造の中に、神の善と悪が定義されています。

創世記1:1~31
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

神が万物を創られる過程で、繰り返し「神はそれを見て良しとされた。」という言葉が出て来ます。

創世記1章
1:4 神は光を見て良しとされた。

1:10神はそれを見て良しとされた。

1:12神はそれを見て良しとされた。

1:18神はそれを見て良しとされた。

1:21神はそれを見て良しとされた。

1:25神はそれを見て良しとされた。

1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

「神はそれを見て良しとされた。」とは、神の感情を表した言葉です。神は御自身が創られたものを客観的に見て、納得して、満足されたので、「良し」とされました。そして創造の第六日目には結びの言葉として
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」と記されています。この「良し」とされたことが、神の「善(ぜん)」です。神が「良し」とされた万物の世界が、神の「善の世界」です。神が「良し」とされたいのちの世界が、神の「善の世界」です。そして神が良しとされた「善の世界」に対峙することが、「悪(あく)」です。神が創られた「善の世界」を壊すこと、乱すことが、「悪」です。神が創られた「いのちの世界」を壊すこと、乱すことが、「悪」です。神の「善の世界」から外れることが、「悪」です。つまり、「神の意思に対極すること」「神の思いに対義すること」が、「悪」です。
神は創造主です。神だけが万物を創造することが出来ます。神以外の万物、存在は、神によって創られた被造物です。神によって創られた被造物が、神が創られた善の世界から逸脱して存在することは出来ません。
神が創られた光の世界から外れたら、暗闇の存在となります。サタン(蛇)はエデンの園で人を罪に陥れて神が良しとされた善の世界を壊しました。ですから神からすればサタンは悪です。悪の存在です。暗闇の存在です。人も神の意思、神の命令に背いて善悪の知識の木の実を食べてしまったので、神の立場から見れば善の存在から悪の存在に変わりました。光の子から闇の子に変わりました。
聖書が定義している「罪(つみ)」とは、ギリシャ語の「ハマルティア」という言葉で、日本語に訳すと「的外れ」という意味です。「的から外れている」という意味です。あるいは「本来居るべき場所から外れたところに居る」と解釈出来ます。ここで言う「的(まと)」とは、「神の世界」です。天地創造で「神が善として創られた世界」です。ですから「罪人(つみびと)」とは「神が良しとして創られた善の世界から外れたところで生きる者」という意味です。その神が善とされた世界の中心が、エデンの園です。
聖書は「人はみな罪人である」「人は生まれながらにして罪人である」と定義しています。ですからアダムとエバが、神が禁じた善悪の知識の木の実を食べたので、人類はエデンの園から追い出され、神の世界から外れた場所に居て、神と対峙する関係になりました。罪の本質は「人の魂がエデンの園から外れたところに在る」というところにあります。善悪の知識の木の実を食べたことによってエデンの園から追い出されて神と対峙する関係になった人類は、神から見れば「悪」になります。だから罪の結果、人類は悪に生きるようになりました。すべての人が自分勝手に生きるようになりました。自己中心に生きるようになりました。そして、人類最初の兄弟は、兄が弟を殺しました。さらに、ノアの時代には地は悪で満ちていました。

創世記6:11~13
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

神は地球規模の大洪水によって当時の悪に満ちた人類を裁きました。それでも人類は懲りずに、神に反発する歴史を歩んで来ました。神の意に反して人は常に悪に生きるようになりました。
ノアの子どもたちの時代も、人間は神に対峙しました。

創世記11:1~4
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

11章4節に「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」と記されています。「さわ、われわれは町を建て、」とは、神が善の世界を創られたように、人間も神と同じように「自分たちが善とする世界を作る」という意味です。「頂が天に届く塔を建て、」とは、「神に対抗して人間の知恵で神と対等になる」という意味です。天は「神の玉座」です。その天に届く塔を建てることによって人間が神と肩を並べて等しくなることを試みました。そして「名をあげよう」と結んでいます。
アダムの子孫セツの子エノシュの時代、人々は「主の御名によって祈る」ことを始めました。

創4:26
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。

彼らは神を主人として崇め祀っていたので、主の御名によって祈ることを始めました。ところがノアの洪水以降の人々は自分たちを神と等しい者として、主の名を汚して自分たちの名をあげようとしました。さらに
「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言っています。
彼らはセム、ハム、ヤペテから大洪水によって人類が粛清されたことを伝え聞いています。だから、自分たちは神によって滅ぶことの無いように、神によって人間社会がバラバラにならないように、全地は一つの言葉で人間社会が神に対峙して一致団結していました。
「われわれが全地に散らされるといけないから。」とは、正に、人類が神に対峙して自分たちの国を作ろうとしている証です。

聖書が示している「罪」と「悪」の関係は、「悪の原因は、罪にある」という因果関係です。悪は罪の結果です。
前回申し上げたように、「罪」とは「エデンの園から外れた世界(土壌)」のことを指します。イエス・キリストが種蒔きのたとえで話されたように、良い地に良い種を蒔けば、良い実を結びます。しかし悪い地に悪い種を蒔けば、悪い実を結びます。「罪」という土壌(人間の心)にサタンが悪の種を蒔けば、悪の種が成長してやがて悪の実を結びます。しかし「信仰(悔い改め)」という土壌(人の心)に福音という御霊の種を蒔けば、やがて御霊の種が成長して御霊の実を結ぶことになります。
人間の世界に悪があるのは、人の魂が罪の世界に在り、罪の世界の主権者であるサタンの価値観、感性で人が生きるからです。人の魂が神の世界、エデンの園から外れたところに在るから、人の世界に悪が存在します。次の記述がそれを裏付けています。

創世記2:15
神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

創世記3:23
そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

神によって創られたアダムはエデンの園に置かれ、そして園を耕し、守っていました。神がアダムに園を耕すようにされたのは、園の土地を耕す必要があったからです。神がアダムに園を守らせたのは、園を守る必要があったからです。なぜ、園の土地を耕す必要があったのでしょうか?それは、いのちの木と善悪の知識の木のためです。
神は園の中央にいのちの木と善悪の知識の木を生えさせましたが、「生えさせた」とは、いのちの木と善悪の知識の木の根を植えられたのであって、いきなり「完成されてすでに実が成っているいのちの木と善悪の知識の木」を植えたのではありません。エデンの園の中央に植えられた二種類の木の根が成長して実が成るまでの間、土地を耕して手入れをしなければなりません。だから、神はアダムをエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせました。神がアダムにエデンの園を守らせたのは、園を守る必要があったからです。園を何から守る必要があったのでしょうか?答えは後から登場する蛇(サタン)です。園をサタンから守る必要がありました。しかし、後に蛇(サタン)の策略に乗ってしまい、神が禁じた善悪の知識の木の実を食べてしまったので、人はエデン園を追い出され、エデンの園から外れた罪の世界の呪われた土地を耕して生きていくことになりました。

エデンの園は物理的な世界と神の霊的な世界が融合した特別な世界、場所です。その特別な世界、場所であるエデンの園から追い出されて、人は呪われた土地、すなわち罪の世界で苦しみながら生きていくことになりました。そして罪の世界の主権者がサタンです。

次に、善悪の知識の木の「知識」について考えてみましょう。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた後に、神は次のように言われました。

創世記3:22~23
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

一般に、キリスト教界では「善悪の知識の木」について「アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたので、人間が神のように自ら善と悪を判断する知恵を持った。」と解釈されていますが、「人間が神のように自ら善と悪を判断する知恵を持った」とは、どういう意味でしょうか?。善悪の知識の木の実を食べたので、人を殺すことは悪であると認識するようになったのでしょうか?だったら、善悪の知識の木の実を食べる前は人殺しは悪いことではないと思っていたのでしょうか?それまで人殺しは悪いと思っていなかったのが、善悪を判断する知恵を持ったので、人殺しは悪いと認識するようになったのでしょうか?それとも人殺しは悪いことなのに、人間が人殺しは悪いことではないと勝手に判断するようになったということでしょうか?。そもそも、この時点では罪も悪も無い世界ですから、人殺しもなにも無い世界ですから、何が善で何が悪であるか判断しようがありません。
善悪の知識の木の実を食べても食べなくても人殺しは悪に決まっています。善悪の知識の木の実を食べたから人殺しを悪と認識するようになったわけではありません。善悪は善と悪を体験して、初めて善と悪の違いが分かります。
エデンの園は罪と悪の無い世界です。その罪と悪の無い世界に、罪と悪の無い人間が置かれました。ですから、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べる前までは、当然、人間には罪とか悪の認識など微塵もありません。だって、罪と悪の無い世界に、罪と悪の無い人間が置かれたのですから。エデンの園は「はあ?罪ってなんですか?美味しい食べ物ですか?。悪ってなんですか?動物の名前ですか?。人殺しってなんですか?頬と頬をこすりあうことですか?。憎しみってなんですか?握手することですか?。妬みってなんですか?寝ることですか?」という世界です。ですから神がアダムに「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と命令された時、アダムは神が言われた「善悪の知識の木」について何のことだかさっぱり分かりませんでした。アダムは善悪の知識の木の「善悪」について理解していたわけではありません。だって、エデンの園は悪の無い神の善で満たされた世界ですから。アダムはエバから渡された実を食べて目が開かれて自分たちが裸であることを知った時、初めて自分たちが悪を行ったことを自覚して、「神の言葉に反することが悪である」と知的に、体験的に、理解しました。善悪の知識の木の実を食べたことによって、はじめて善悪の知識の木の意味を理解しました。ですから善悪の知識の木の実を食べる前までは、なぜ、園の中央に善悪の知識の木が植えられて、なぜ、神は善悪の知識の木から取って食べてはならないと命令されたのか、アダムは知る由もありません。分からなくていいのです。神だけが知っていれば。なぜだか分からないけど、とにかく神がダメと言ったらダメなのですから、食べなければいいのです。私たち人間は自分の頭で理解して、納得して、初めて相手の言うことに従います。信仰は分からなくても従うことが信仰です。これは妄信ではありません。今は分からなくても、後で必ず分かる時が来ます。

私は死んだら神の国に帰ると思っています。今はこの地上の世界で生きているので分かりませんが、聖書の言葉を信じているので、死んだら神の国に行くと思っています。死んで神の国に帰った時、「ああ、聖書に書いてあることはほんとうだった」とうなずくでしょう。

そして、二人が善悪の知識の木の実を食べた結果、目が開かれて、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で裸を隠しました。
一般に善悪の知識の木の「知識」あるいは「知恵」という言葉の意味が誤解されて解釈されています。「知識」あるいは「知恵」という言葉が「知的・知性」という意味に捉えられるので、どうしてもそのような意味に解釈されます。机上の頭の中の世界における善と悪を判別する能力として解釈されます。
創世記4章1節に「人は、その妻エバを知った。」と記されて、さらにエバにカインが生まれたことが記されています。ここで言う「知った」とは、「アダムとエバが体の関係をもった。」という意味です。「知識」として男が女を理解したという意味ではありません。男と女が体の交わりを体験したことを、ここでは「知った」という言葉で表現しています。アダムがエバに対して未知の体による交わりの体験をしたので、「人は、その妻エバを知った。」と記されています。

宇宙飛行士は無重力の世界を実際に体感しながら「体験」として、「経験」として、無重力の世界を知っています。一般の私たちは宇宙飛行士の宇宙での生活を映像で見ながら「知識」として、無重力の世界を知っています。
「知る」とは「物事を頭の中の知識として知る」という意味と、「物事を体験して知る」という二通りの意味があります。善悪の知識の木の知識とは「経験としての知識」「体験としての知識」という意味です。体験が蓄積されて知識となります。聖書によっては「知恵」と訳されている聖書もありますが、「頭の中の知識として、頭の中の知恵として、善と悪を知る」という意味ではありません。「実際に善と悪を体験する」という意味です。頭の中の机上の世界で善と悪を知るという意味ではありません。宇宙飛行士が体験として無重力の世界を知っているように、体験として善悪を知ることです。ですからここで言う「善悪の知識」とは「人間が神と同じように自ら善と悪を判断する知恵を持った。」のではなく「神が、御自身が良しとされる世界を創ったように、人間も自分たちが良しとする世界を作る知識(知恵)を持った。」という意味で、ここで言う「持った」とは「開かれた」ということです。
アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた結果、ふたりの「目が開かれ」ました。この「目が開かれた」ことをきっかけに、人間が自分たちの世界を作る知識(知恵)の世界が開かれました。もともとアダムとエバは体の目は開かれていて物理的な世界をすべて認識していたのですから、ここで言う「目が開かれ」とは、体の目でないことは明らかです。では、何の目が開かれたのでしょうか?そうです。エデンの園と対極する「罪の目」が開かれたのです。罪の世界への扉が開かれたのです。神がカインに「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」と言われた「エデンの園から罪の世界に入る戸口」が開かれたのです。

アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べたことによって自分たちが裸であることを自覚しました。もともと二人は生まれつきの裸です。善悪の知識の木の実を食べる前も食べた後も裸であることには変わりありません。ただ、食べる前は裸でも裸であることを自覚しなかったのが、食べたことによって裸であることを自覚しました。今まで見えなかったものが、善悪の知識の木の実を食べたことによって見えるようになりました。と同時に、今まで見えていたものが、見えなくなりました。これは、二人の霊的な視点(知覚)がエデンの園(神の世界)から罪の世界(神の世界から外れた世界)に移ったことを表しています。以前に「ルビンの壺」を例にして「霊的錯誤」についてお話ししましたが、二人の霊的な視点が白い世界(神の世界)から黒い世界(罪の世界)に移りました。今まで白い壺と認識していたものが(自分たちの体が美しいと認識していたものが)、霊的視点(知覚)がズレることによって黒い人の顔と認識するようになりました。(自分たちの体が恥ずかしいものと認識するようになりました。)

ルビンの壺(wikipediaより引用)



日本語の「目が開かれる」の意味は二通りあり、一つは閉じられていた顔の目が開かれる意味と、もう一つは精神的な世界における何かをきっかけにあることに気が付く。ものごとの考え方が広がる、視点が変わる。今まで見えなかった世界が見えるようになった。という意味があります。同類の言葉として「目から鱗が落ちる」という表現があります。「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分かるようになる。」(広辞苑より)といった意味があります。アダムとエバが体験した「目が開かれ」とは、後者の「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分かるようになる。」という意味です。二人は善悪の知識の木の実を食べたことによって、神が言われた「善悪」の本質を体験的に理解し、なぜ、神が善悪の知識の木から取って食べることを禁じたのか、その意味を知りました。
そして、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べた時、二人の目が開かれて、自分たちが裸であることが分かり、二人は次の事を行いました。

創世記3:7
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

二人は自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作りました。ここに「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」と記されています。普通に考えれば、いちじくの葉で腰を隠せば良いのですから、「いちじくの葉で腰をおおった。」と記述されるはずです。しかし、聖書には「いちじくの葉をつづり合わせて、」「自分たちの腰のおおいを作った。」と記され、わざわざ「つづりあわせて、」「作った。」という文言が入っています。この「つづりあわせて、」「作った。」という記述が重要です。
「いちじくの葉をつづりあわせて、」というのは、いちじくの葉を細工したり加工したりすることです。二人はいちじくの葉を細工して加工しながら腰から落ちないようにバンド状のような覆いを作りました。つまり、アダムとエバは、目が開かれて自分たちが裸であることを知り、自分たちの裸を隠すために、「知恵」を働かせました。「ここはこのように葉を切って、折って、結んで、つないで」というように、如何にして腰を隠すかを考えながら、腰の覆いを作りました。考えることはすなわち「知恵」を働かすことです。「知恵」とは思考の世界(霊的な世界)から湧いて来る「ひらめき」です。二人がいちじくの葉をつづり合わせた「知恵(ひらめき)」は、神が人に与えた「知恵」ではありません。ふたりが善悪の知識の木の実を食べた後に、自分たちの裸の恥ずかしさを隠すために人の思考の世界(霊)から生まれ出て来た「知恵」です。悪を隠すための「知恵」です。神と対峙するための「知恵」です。分かり易く例えてみましょう。

もし、あなたが会社の社長で、株主の手前、何とか赤字の会社を黒字にしたいので、社員に不正経理を指示して粉飾して黒字決算にしたとしましょう。当然、銀行や税務署にバレないように、経理と相談して粉飾を隠そうと知恵を働かせていろいろな工作をすることでしょう。つまり、「粉飾決算」を隠すための裏工作をする知恵が、「悪」です。粉飾しなければ、粉飾を隠すための知恵は必要ないわけですから。粉飾という「悪」を犯すことによって、悪を隠すためにさらに嘘をついたり裏工作をするという「知恵」を働かせます。
殺人犯は自分が犯した悪を隠すために「死体をどこに埋めようか。どうやってアリバイ工作をしようか。」と、いろいろ考えます。つまり、警察(神)に見つからないように、犯罪(善悪の知識の木から取って食べたこと)を隠して(いちじくの葉で腰のおおいを作り)、警察(神)に見つからないように逃げ隠れます(神の御顔を避けて隠れます)。殺人を犯さなければ、殺人を隠すための知恵は必要ありません。湧き出て来ません。悪を隠すための知恵は、神が人に与えた知恵ではありません。
人は、悪を犯すと「良心の呵責(罪悪感)」を感じ、本能的に自分の悪を隠そうとします。あるいは仕事で失敗したら、良心の呵責を感じつつ、他の人にバレないように工作したり、嘘をつくことがあります。「良心の呵責」が、善と悪の分岐点です。
神の価値観と同じ世界に居れば、人は良心の呵責を感じることはありません。しかし、神の価値観から外れた行為をすれば、良心の呵責を感じます。「良心の呵責」は神が人の魂に組み込んだ信号機みたいなものです。
人は何か悪いこと、失敗を犯すと、周りから責められると思い、責められるのが嫌だから、本能として、悪や失敗を隠そうとする行動に出ます。あるいは言い訳をします。同じようにアダムとエバも、神の命令に背いたので、神に責められると思い、いちじくの葉で腰を隠し、神から逃げて隠れました。
アダムとエバはそれまで裸でも恥ずかしくなかったのが、善悪の知識の木の実を食べた結果、恥ずかしくなりました。二人が恥ずかしさを感じたのは、霊的な視点が変わることによって「霊的な意識」が変わったからです。今まで裸でも恥ずかしと思わなかったのは、自分たちが裸であることが分らなかったからです。だから裸であることを意識しません。意識出来なかったのです。ところが善悪の知識の木の実を食べた結果、霊的な視点が変わったので、裸を意識するようになりました。今まで気にならなかったものが、気になるようになりました。今まで見えなかったものが見えるようになりました。
考えて見れば、自然界はすべて裸です。服を着ている動物なんていません。ワンちゃんも、ネコちゃんも、動物園に居るお友達も、お花さんも、太陽さんも、お星さまも、青いお空さんも、み~んな裸です。言葉が下品で申し訳ありませんが、自然界はすべて「素っ裸、まっ裸、丸出し、スッポンポン」なんです。人間だけが服を着て裸を隠します。動物園の動物は人間様にジロジロ見られても恥ずかしいという意識は全くありません。動物が「キャー!みんなわたしの裸をジロジロ見ている!!!はずかし~」なんて言って隠れたりしません。自然界はすべて生まれたままの在りのままの姿です。神が創られた在りのままの姿を包み隠さないで表しています。だから自然界は美しいのです。
みなさんは買って来たお花に「この花びらは青色の方が綺麗だから青の絵の具を塗りましょう」と言ってわざわざ生花に絵具を塗る人なんていますか?いのちは在りのままの姿だから美しいのです。
最近の造花は精巧に出来ていますから、ちょっと離れたところから見ただけでは生花なのか造花なのか分りません。しかし、手で触ってじっくり観察すれば見分けがつきます。どんなに人間の技術を以ってしても、いのちの美しさにはかないません。
みなさんのなかには犬や猫などのペットを飼っている方もおられるでしょう。
みなさん、動物は体全体が毛で覆われていますが、人間だけが動物のように毛で覆われていませんよね?なぜ、人間だけが動物のように毛や鱗や甲羅で覆われていないか分りますか?なぜ、人間だけ肌がツルツルなのか考えたことがありますか?もし、人が進化論に出て来る「猿人」のように全身が毛で覆われていたら、犬や猫を抱いた時の温もりや癒しを感じることが出来ないじゃないですか。動物をはじめ、自然界を直接触って肌で感じることが出来るために、人間だけが体毛が生えていません。神がそのように人の体を造りました。そして、あらゆる野の獣と空の鳥たちが名前を付けられるためにアダムの下に連れて来られたとき、アダムはすべての生きものを手で触って、抱いて、その温もりと感触を味わいながら、名前を付けました。また、男と女が交わりを全身で感じるために、人間には体毛が生えていません。
人間は他の生き物を支配するために創られました。だから、人間の体は特別に造られています。

自然界は、神が天地創造で御自身の価値観と感性を反映させたありのままの姿を包み隠さずさらけ出しているので、かくも美しいのです。人間様は違います。お化粧や整形手術をします。自分の生まれた姿が嫌だから、自分の生まれた在りのままの姿が気に入らないから、自分が満足する、自分が善とする顔になりたいために化粧や整形手術をします。私はお化粧がいけないと言っているわけではありません。現実の世界のなかで、最低限のお化粧や身だしなみは必要だと思っています。ただ、他人と自分の顔や容姿を比較して、整形手術をしてまで生まれつきの自分の姿を否定するのは如何なものかと言っているわけです。
個人から国家、民族に至るまで、すべて神の善の世界から外れて自分が善とする世界、自分たちの国家、自分たちの民族が善とする世界の実現が、人間の人生の目標となりました。神から与えられた顔が嫌だから、気に入らないから、いろいろと顔に細工をします。アダムとエバが恥ずかしくて自分たちの知恵で細工したいちじくの葉で裸を隠したように、現代に生きる私たちもいろいろ細工してありのままの自分の顔をお化粧で隠し、裸を服装で隠します。

知恵と意志と感情を主体とする人間の魂は、創造の第六日目の創世記1:27で創られました。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

そして、その魂に着せる衣装として、創世記2:7で人の体を造り、魂に着せて、神のいのちの息を人に吹き入れた時、人は生きものとして活動を始めました。

創世記2:7
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

「神である主は土地のちりで人を形造り」と記されています。ここで言う「人を形造り」とは、人の物理的な体の事です。頭が有って髪の毛が有って鼻が有って口が有って耳が有って手が有って足が有って、というように、神が土地のちりから「人間」という「形」を造りました。私たちの顔や体は神が人の魂に着せた衣装であって、いのちの本質は魂にあります。以前に人の霊と魂と体の相関図を描きましたが、霊は神との接点で、体は物理的な世界の接点です。
「裸」とは、「神が造られた被造物の生まれたままの姿、ありのままの姿、形」という意味です。

創世記2:25
そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

創世記3:7
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

アダムとエバは神が禁じた善悪の知識の木の実を食べる前までは自分たちが裸でも恥ずかしいと思いませんでした。(創世記2:25)
それが、善悪の知識の木の実を食べたら裸であることを知り、恥ずかしいという思いと同時に裸を隠しました。(創世記3:7)
アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べる前も食べた後も裸でした。つまり、肉体はなにも変わっていません。ただ、善悪の知識の木の実を食べたことによって、二人の心の意識がガラッと変わりました。心の意識が変わったのは、自分たちの霊(思考の世界)にある変化が起こったからです。

「恥ずかしい」というのは、自分の欠点を意識することです。自分の劣っている部分を意識することです。自分の足りなさを意識することです。自分の弱さを意識することです。自分の良心の咎めを意識することです。
神は御自身が創られた被造物のすべてをご覧になって「良し」とされました。「善」とされました。神が「良し」とされたのですから、神が創られたものに欠点はありません。劣っているものはありません。ですから神の言葉に従って善悪の知識の木の実を食べなければ、アダムとエバは欠点や劣等感や良心の咎めを意識することは全くありませんでした。ところが神の言葉に背いて善悪の知識の木の実を食べた結果、アダムとエバの心に欠点、劣等、咎という意識が生まれました。これは、アダムとエバの霊が神の世界から外れたことを意味します。ふたりの霊が神の善の世界から外れたことを裏付ける具体的な霊の変貌です。価値観の変貌です。善悪の知識の木の実を食べる前は、人の価値観、感性は神の価値観、神の感性と一致していました。同化していました。ですから神が美しいものを美しいと感じ、神が美味しいものを美味しいと感じていました。当然、神が造られた自分たちの体も美しいと感じていました。それが、善悪の知識の木の実を食べたら、神が美しいと思うものが汚いと感じるようになり、神が美味しいと思うものがまずいと感じるようになりました。先ほど述べたように、自然界は裸でも美しいのです。人間も裸でも美しかったのです。それが、善悪の知識の木の実を食べたら、自分たちの体が汚れたもの、嫌らしいもの、淫靡なもの、欠点があるもの、不足があるものと認識するようになりました。だから、二人は恥ずかしいと感じ、いちじくの葉に細工を施して裸を隠しました。
現代に生きる私たちも、自分の生まれたままの顔、容姿が嫌だから、お化粧をして綺麗な洋服をまとい、キラキラ輝くジュエリーを身に付けて、自分をかっこよく、美しく見せます。
裸(生まれたありのままの姿)は神が人に与えた一番美しい最上の衣装です。人の魂に体という物理的な衣装を着せて、人の鼻からいのちの息を吹き入れた時から、人は生きものとして活動を始めました。

人間の世界の科学や文明は、アダムとエバが自分たちの罪(悪)の恥を隠す腰の覆いを作るために「いちじくの葉をつづり合わせて作った知恵」によってもたらされたものです。人類の罪(悪)を隠して神に対峙するために、人類は知恵を働かせて地の上に今日の文明を築き上げました。神が人に善悪の知識の木から取って食べてはならないと命令されたのは、善悪の知識の木は神が善とされた世界、神の価値観、神の感性と対極に在る木だからです。対義する木だからです。その神の価値観、神の感性に対極する木の実を食べたので、アダムとエバの価値観、感性が変貌して、二人の価値観、二人の感性が神の価値観、神の感性に対極しました。すなわち、神の「善」に対して人が「悪」になりました。

アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べたことによって目が開かれ、自分たちが裸であることを知りました。神が衣装として着せた二人の体を覆っていた神の美しさ、神の華やかさ、神の栄光の輝きが悪によって消えてしまいました。だから、二人は自分たちの裸を恥じました。

ノアの時代、地上は悪が増大しました。全地は悪で満ちていました。神が嫌う、神が汚いと感じる、神が臭いと感じる行い、世界を、人間たちは楽しく感じ、美しく感じ、美味しく感じ、その日その日を楽しんでいました。神は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ、地球規模の大洪水によって人類を粛清されました。

現代に生きる私たちは、より楽しく、より快適な生活をするために、常に知恵を働かせます。仕事では、みんなが楽しく快適に過ごせる良い製品を造るために、日々考えて考えて知恵を絞ってより良い製品を造ってお客様に買ってもらいます。お客様は買った製品でより楽しく快適な生活を過ごします。それを循環させながら、今日の文明が築き上げられました。しかし、アダムとエバによってもたらされた人間の知恵によって、近代文明による環境破壊、地球温暖化、異常気象、飢饉、貧富の格差、等々をもたらし、さらに、原発を造り、冷戦時代には核ミサイルをはじめ、人類を殺戮するためのあらゆる戦争兵器が造られて、いつでも使えるように準備しています。戦争になれば、今まで築いてきた楽しく快適な生活をすべて失うことになります。不思議ですね。人類は神を否定して自分たちが快適で楽しい生活を求めてあらゆる知恵を働かせて来ましたが、その知恵で、人類を何回も消滅させることが出来るほどの核兵器を造り、世界のあちこちに配備しました。これだけたくさんの核兵器が造られて世界に配備されているのですから、いつか使う時が来ます。必ず来ます。必ず。
人間の知恵によって万物の世界、科学の世界が解き明かされて来ましたが、歴代の科学者、物理学者によって解き明かされて来た科学や物理によって人類を殺戮するための核兵器が造られ、いつでも使える状態になっています。人間の世界では、科学や物理を極めれば人は長生き出来て便利で楽しい幸せな未来の世界が待っているかのごとく喧伝されていますが、結局、その時代の科学や物理がもたらした最先端技術は戦争兵器に集約されていき、便利で楽しい生活は壊されて行きます。
経済問題にしても、どこの国も莫大な借金を抱えていてどうにもならない状況へと追い込まれています。今は何とか国債で凌いでいますが、いずれどこの国も立ち行くことが出来ず、世界経済が破綻するのは目に見えています。これもあれもすべて人間の知恵でやって来たことです。
以前に「造ることは壊すこと」という文書を掲載しました。人類は知恵を働かせて科学の世界を解き明かして現代文明を造って来ましたが、気が付けば、人類の崩壊の危機を迎えています。つまり、人間は、もともと、何かを造るようには出来ていないのです。アダムが助け手を欲しいと思っていた時に、神がアダムにエバを与えたように、すべては神が与え満たします。以心伝心の関係で、何も言わなくてもアダムが困っていれば神が助け手としてエバを与えました。魂の食物も、体のための食物も、最初からすべて神が用意されて満ち足りていました。人間には生きて行くための知恵など必要ないのです。何かあったらすべて神が用意されます。神そのものが人間の知恵なのです。
神が人間を創られた目的と人間に与えた役割は、神と同じ価値観と感性を共有する人間という存在を創り、その人間に生きものの支配を任せ、いのちの世界の秩序を作ることです(創世記1:26)。それ以外何もありません。では、人がいのちの世界の秩序を作るのに、科学を探求する知恵が必要でしょうか?ゲノムを解読する知恵が必要でしょうか?テレビを造る知恵が必要でしょうか?原発を造る知恵が必要でしょうか?核兵器を造る知恵が必要でしょうか?必要ではありませんよね?必要ないどころか、その必要の無い知恵で、いのちの世界の秩序を壊し、いのちの世界の環境を壊し、人間の世界さえも戦争という形で壊します。お分かりのように、現代文明を築いた私たちの知恵は、神が人に与えた知恵ではありません。アダムとエバの罪によって生まれた知恵です。二人がいちじくの葉をつづり合わせた知恵です。この「知恵」については後で詳しく書きます。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた結果人類にもたらされた「罪(悪)を隠すための知恵」は、最後は「人類の崩壊」を招きます。だから神はアダムに「しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と厳命されました。

次回に続く

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会」から引用しています。
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2016年10月24日